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エレベーターの扉が開き、目の前にガラス張りの空間が現れた。
「なにここ、たっ……かくない。そんなに高くないよここっ、ねえ由正! ここそんなに高くない! 早くこっちきて!」
高くない高くないと連呼する彼女が興奮した様子でぶんぶんと手を振っている。ついさっきまで「どうしよ、高すぎたらどうしよ……」や「わ、わたし達が中にいるときにベキッて折れたりしないよね!?」「人が天に近づきすぎた罰が下されたりとかはっ……! この塔が蝋でできた翼じゃないという保証はないよね!?」などと心配していたのと同一人物なのだと思うと微笑ましさに自然、頬が緩む。
「なにわたしを見つめて立ち止まってるの、見惚れでもした? 早くこっち来てってば」
ああ、分かっているよ。すぐに行く。
「ほあー……」
見慣れた街の見慣れない鳥瞰に、彼女は感動を覚えたようだった。口をぽかんとあけて、少しく間の抜けた顔になってしまっている。俺にしてもそうだ。初めて上った塔の展望台から見た光景、そこに確かな感慨を覚えるほどにはその頃の俺はこの街を知らず、無感動になるほど過去を積み重ねてもいなかった。
喧噪の中、微かに耳に届いたのは遠い轟音だった。
飛行機だ。頭上を飛行機が飛ぶために、あのゴオオという轟音が響き渡るたびに、あれが落ちてきはしないかと不安に思ったものだ。一度、何かの拍子に彼女にそのことを話した時、ずいぶん、からかわれたものだった──曰く、『由正って何事にも動じてない感出してるけど意外と動じているよね』だと。心外だ。
「さすがに飛行機はもっと高いとこ飛んでるー……」
「さすがにな……」
「ねえ由正」
にやにやと俺を見上げるきみの眼には、悪戯心と親しみが湛えられていた。
「手、握ってあげようか? きみとわたしのところに飛行機突っ込んでくるかもだし?」
「必要ない」
「観客の視線が恥ずかしいのかな、ふふ。わたしってけっこーさ、人目引いちゃうからなあ……」
楽しむように、なのに諦めた様に、きみは言う。
言葉通りだ。きみは人目を引く。その色合いに、周囲の視線は自然と集まる。いつも被っているお気に入りのキャペリン帽も、室内だからと手に持っている。
悪意はないのだ。分かっている。俺も、きみだって。
単に人目を引く容姿をしているから、ふらりと視線を向けてしまう。そうしてきみは見られ続けてきた。誰であろうと、誰からも。悪意のない、無遠慮な、好奇に塗れた視線を向けられてきた。
「染めよっかな」
独り言のように、単調に、きみは言う。
その手に持つ帽子を俺はそっと取り、「あ、なにすんの」きみの頭にかぶせた。
「え、なに、いきなり」
「視線が嫌なら隠せばいい」
「でもさ、マナー違反だよ。由正だってそういうの特に嫌いでしょ」
「そんなもの、時と場合による」
俺の言葉に、きみはきょとんと眼をぱちぱちとさせ、「ぷっ」吹き出した。「あははっ、まさか由正からそんな言葉が出てくるなんてっ」破顔し、きみは帽子を両手で軽く整えた。
「ふふ……けど由正、あんまりなことをわたし言っちゃうけどさ、帽子被ってもそんなに隠れないよ」
「まあそれは……確かに、そうだが」
「『室内で帽子かぶってるなああの子、いや待てあの髪色はっ……!?』という具合に、もっと人目を引いてしまう可能性だってあるし」
「悪手、だったか」
良かれと思っての行動だったが、打つべきではなかったかもしれない。
「仕方ない仕方ない、そういうものだよ」
山と空の境目にある稜線を、遠くきみは眺めて言う。「きみの心遣いは確かに伝わったし、嬉しいけど」好奇の視線にさらされ続ける者の諦観だ。
「俺は……」
「うん……」
「きみの髪色に関して、心底からどうでもいいと思っている」
「うえ……?」
驚いた眼が俺に向けられていた。
「どうでもいいの? 私、どうでもいい?」
「ああ。どうでもいい」
「え、泣くよ? そんな堂々とお前どうでもいいとか言われたら、特にきみに言われたりとかしたら、すごい勢いで私は泣くけど、いいの? きみにとっての私はどうでもいいで、いいの?」
「い、いや違う。よくない。そういう突き放すような意味じゃなく、俺が言いたかったのは……」言い淀む。傷つける為の言葉ではない。もっと他に言葉が、柔和で穏やかな言い草があったのだろうに、後悔が。
「ふんっ」
ふんっ?
「やっぱり、きみは意外と動じる人だね」
微笑み。親愛の情がこめられた、細まっている眼と、楽し気な口の端。からかわれたのか。
「きみの優しさは確かに私に伝わってるから、安心して。言い方ど下手だけど」
ふふ、と笑うと「持ってて」ときみは帽子を脱いで俺へと渡す。
そしてきみは少しだけ俺の方へと近寄り、小声で、
「無責任でいいからさ、由正はどうなのか聞かせてよ」
「どう、とは」
「それは今から言うから。染めるか染めないかだと、どっちがいい?」
ああ、だから無責任でいいのだと、前置きを。
「視線が嫌だから染めるのだろう」
「そだね」
そんな後ろ向きな理由であるのなら、
「なら、染めない方がいい」「うん、分かった染めない」
間髪入れずにそんな返答。俺がどう言うのか最初から予想できていたみたいに、にこりと、そして嬉しそうに。
「白色のほうがきみにずっと似合っている」
「は……」
驚愕、と、すぐに顔を背けられて、
「私の髪色どうでもいいって言ったばっかりなのに……どうでもよくなかったってことだよそれウソつき……」
「過ごした時間から得た、俺個人の一つの考えだよ」
「それはつまり……んー……? 最初は心底どうでもよかったけど、いっしょにいるにつれてどうでもいいけどどうでもよくなくなった、そういうニュアンス?」
「ああ……もっと上手い言い方はあるのだろうが」
「一生懸命言葉で表現しようとしたらでぃすられた」
「その意図はない。俺も、きみの言葉以上にこの心境を表現する術がない」
「……あー……でもわたし、分かるかも。きみの心境を、より具体的に表す言葉」
「そうなのか? 教えてくれないか」
「無理」
「無理?」
「うん、無理。これはただわたしの自惚れかもしれないし、なにより、だいいちっ」
何か意気込んだように勢いよく、きみの視線が俺に向く。眉間にしわを寄せ呆気にとられる俺を数秒見つめ、すぐにまた視線を外した。
「…………きみの言葉で聞きたい」
俺の言葉で。
悄然と、期待と……怯え、だろうか……の混じった横目で、きみはそう言った。
「ああっ、ハトが飛んでるよ」
一転して声を大きく、ガラスの向こうをきみは指さした。
翼をはためかせ、懸命な姿で羽ばたいているハトが数羽、群れを成して飛んでいた。それよりもいくらか小さな白い鳥の姿を無意識に探している自分に気づいた。
「あー……えっと、ほかの鳥たちに混じってひょっこりソウも飛んでるかな、と思ったんだけど……」
俺の表情から察したのか、自身もハトから連想したのか。きみは気まずそうに頬をかきながらそう言った。その話題をあげるかどうかも、おそらく逡巡した末になのだろう。
「まだ、連絡はこない……?」
「ああ。ソウはいまだに悠々とした時間を満喫しているみたいだ」
保健所で、市役所にも尋ねた。
動物病院で保護されていないかどうかも尋ねた。近所に聞いて回り、ソウの姿を映した写真を用いてチラシをつくり、ここに連絡をお願いしますと電話番号を載せ、スーパーや理髪店、喫茶店、駅や役場にも頭を下げて許可を取り、置かせてもらった。SNS上にだって、アカウントを作成して広めた。連絡はまだ来ない。
「……長々と付き合わせて悪い」
俺一人では、そうまで動けなかった。率先して彼女が動き、今に至るまで付き添ってくれた。面識があったとはいえ、それまで会話をしたことも少ない相手が鳥探しをしているところに遭遇し、そのまま手助けをしてくれた。
「そんな申し訳なさそうにする必要はない。言ったでしょ、どこまでも付き合うって」
そう言うきみが浮かべているのは、屈託のない笑みだった。




