雨煙ル夜ノ街
ビルの壁を蚰蜒が這っている。
成虫のようで、十五対の脚を動かし、薄暗がりを後ろめたく歩んでいる。何処へ行くのか。何処へ向かうのだろう。このゲジは。虫けらは。
小さく取るに足りない多足類を一瞥した後、歩みすら止めない青年がいる。正しく、正しく、正しく、正しく、私欲に手を汚さず、外道に手を染めることなく、終生、血に塗れない手であるように──延寿由正はそうあるべきなのだ。いつからか、思い続けていた。その意志は生後であるのが当然だが、万が一にも、あるいはの仮説で、肉体という器を持つ以前より、魂としか呼べない不可視の非存在物に神としか称せないものの手で刻まれた可能性とてゼロではないだろう。魂? あるのかそんなものが。神? いるのかそんなものが。いるかも判らない神が、あるかも解らない魂に刻んだ──お前は正しくあるべきなのだ、と。お前は決して歪を許してはならない、誰だろうと何であろうとどうあろうとどうあってもどう心が動いても揺れても罅が入ろうと壊れようと──歪の人外とならぬよう。
延寿は今、月ヶ峰市の繁華街を歩いている。
アーケードから少し外れたところ、繁華街の端側に当たる通りだった。月ヶ峰電波塔の光が暗闇に浮かび上がっていた。
雨の日だった。延寿が差す黒く大きな蝙蝠傘は先ほどからひっきりなしに雨音を奏でていた。
時刻は午後七時を三十分ほど過ぎた頃。
夜だった。曜日は月曜。平日だった。
委員会の長であり、なおかつ部とすら言えなくなった集まりの唯一の先輩である人物のワガママを渋々と聞き入れて付き合い、妙なところで遠慮する彼女を無事に家へ送り届けて帰宅途中という現在である。
煌びやかなネオン街が降り頻る大量の雨に煙っていた。
路上に溜まる水たまりが街を鏡映しにし、より一層今夜の街は輝いていた。私服、スーツ姿……制服、はさすがに自分しかいないが、大勢の人間が傘を片手に行き交う。彼らの姿をまた、ネオンが照らし出す。
汚らしい輝きだ、延寿は何の感慨もなく率直にそう思った。
繁華街を真横から突っ切るのが先輩の家からの帰宅ルートだった。延寿と先輩の家は、月ヶ峰市の中心部にある繁華街を挟んでいる。恐ろしく遠回りをしない限りは、どうしても繁華街へ足を踏み入れなければならない。
延寿は最初、制服姿で繁華街に足を踏み入れるのを厭い、その〝恐ろしく遠回り〟をしようとし、委員会の先輩である彼女から「お前は多くの点において優秀だが、時に凄まじいバカを見せるな」と笑われた。その通りだった。「少しぐらいなら良い。風紀委員長たるこの私が通れと言っているんだ。通らなければお前は命令違反で、正しくない振舞いを行ってしまうことになるなあ」とも脅され、仕方なしに制服姿で繁華街に踏み入るという不正を行っている現在である。
制服姿など……まさしく、正しくない。
延寿の歩みは更に早まった。是正を促す側である風紀委員の自身が校則違反など……そんなことを考えていた。
────ふと、聞こえた。
「なあ。なあいいじゃん。いいじゃん」
真横から。延寿は立ち止まった。
降りしきる雨音の中、かすかに聞こえる。
ネオンに汚れ雨に煙る中、それらは見えた。
薄暗い路地の入り口から少し入ったところ。
一、二、三……四人、いる。
「一目惚れしちゃったのよ、俺、キミに」
男が三人。フードを被った小柄な……少年? が一人。
フードの人物を囲むように、その三人組は立っていた。
「キミ、そんなフード被ってっけど、ちらっと見えた中身超ヤバめだったんだよなー。だからちょっとお付き合い申し込みたくてさ、話したくてね」
一番長身の男──前髪を固めて前に突き出した時代錯誤なリーゼントヘアだった──フードの人物へと近づき、手を伸ばす。
「ボクに触るな」
そう言い、フードの人物が伸ばされた手を振り払った。
「っ……てぇな」
その抵抗がリーゼントヘアの怒りを買ったようだった。
取り巻きらしい残りの二人も、「やりやがったなこいつ」と殺気立つ。
「……おい」
延寿は路地へと歩き出した。差していた傘は路地の入口にそっと立てかけた。
瞭然と、あのフードの人物はあの三人から悪意ある干渉を受けている。正しい行いとは、とても云えない。
「ああ? んだてめえ……?」
眉を顰め、リーダー格であろうリーゼントヘアの男が延寿を睨め付ける。
取り巻き二人(角刈りと坊主)もそのすぐ後ろに控え、全力でガンをつけている。フードの人物はその更に後ろから、どこか呆然とした様子で延寿を見つめていた。
「どこかへ消えろ」
延寿はそんな三人を真正面から見、少々言葉足らずに退散することを勧めた。
「てめえ、この女のなんなんだ?」
「おお、なんなんだよてめえ!」
「兄貴の質問に答えやがれや!」
リーゼントの言葉に、取り巻きが追従する。
「他人だよ」
延寿の口から出たのは主観的事実だった。
「はあ!? 他人? 他人の為になんでてめえが出しゃばってくんだよ!」
「そうだそうだ! んでてめえが出しゃばんだよ!」
「おうおうしゃしゃってくんなやシャバゾウがあ!」
三人が距離を詰めてくる。
リーゼントヘアが延寿のすぐ目の前まで睨みを効かせてやってきた。見た目は同年代だった。
「俺たちに逆らおうってえとどんなことを意味すんのか分かってんのかてめえぁ!? おお!?」
「兄貴の純情な恋心の邪魔しやがってよお!」
「ギンジぃ! 余計なこと言うんじゃねえ!! 純情とかそんなんじゃ俺全然ねえし!!」
「へえすみません兄貴! に、にしても、間近で見ると意外とでけえなこいつ……ま、まさか、こいつがあのガイドとかじゃあっ……」
「弱気になんなボケえ! ガイドはもっと小柄だって話だろ! こいつはどう見てもでけえよ。そんでもって兄貴もそこそこでけえから大丈夫だハゲが」
延寿は平然と、視線の少し下にいるリーゼントヘアの男を見下ろす。少しも視線を外さず、それでいて何の動揺も見せず。
リーゼントの男は延寿の目に気圧され、
「お、おおてめえ、ガンつけやがってこのッ……そがぁ!!」
叫び、腕を振りかぶり、延寿の頬を目掛けて思い切り殴りかかった。
その拳を避けようとすらせず、延寿はまともに頬に受ける。微かに首を傾いだのみでぐらつくことなく、唖然とするリーゼントヘアを見下ろし「さっさと消えろ」と再び退散を勧めて睨みつける。
「て、てんめえ……!」
「な、なんで避けねんだよこいつマゾか……?」
「お、男のマゾとか気色わりいよ……」
好き勝手言われるも気に留めず、延寿はおもむろに歩き出した。リーゼントヘアの男を片手で押しのけ、「ひい!? マゾが攻め込んできた!?」取り巻きに怖がられ、そのままフードの人物へと向かう。
「おい待てや」
背後から声が聞こえるが、延寿の視線は眼前のフードの人物を見つめたままだ。
「ッ! シカト、すんなや……! テメエァッ!」
「キミ、後ろ!」
フードの人物が叫んだ瞬間、延寿は振り返り、その勢いで思い切り拳を──「へぶらぃッ!?」振り切った。殴られた拍子に珍妙な叫び声を発し、男がリーゼントヘアをしならせ吹っ飛びゆく。
取り巻き二人がその傍へ駆け寄り、悲鳴のように叫んだ。
「あ、あにきいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?」
「や、やべえ、やべえよどうしよう兄貴がさくっとやられちまったよ!? お、おおおれたちもさくっとやられちまうよぉっ!!」
「お、落ち着けボケカスゴミクズが! 兄貴がやられようとも俺たちが──」
取り巻き二人は威勢よく延寿を見つめ、
「いやおい勝てっこねえだろ!? 無駄にデケえしよ! んだよアイツ人じゃねえだろよ!?」
「て、てめえっ! よくも俺たちの兄貴をぶん殴りやがったな!」
「覚えてろよクソッタレのマゾヒストが! 恐ろしい復讐が待ってっぞ!」
「歩くハンムラビ法典と呼ばれた兄貴の報復が待ってんだぞ! 目には目を、拳には拳をなんだぞ!」
「「震えてろやああああああああああああああああああああああ!!」」
甲高く叫び声をあげ、兄貴と呼ばれた男を二人で抱え、三人組はそそくさと逃げ去った。
「……最初に殴ったのはきみたちだろ」
ぼそりと延寿は呟いた。
そして振り返ると、すぐ眼下に二つの眼があった。
「……大丈夫?」
瞳は不安げに揺れている、ように延寿には見えた。
華奢な手のひらが、延寿の殴られた箇所をそっと触れた。
「平気だよ。それよりもきみはいったい何でこんなところ……に……」
延寿は途中で言葉を止めた。
出そうとしたはずの言葉が、目の前の光景に掻き消えてしまった。
なぜ、と思った。
「きみは……」
なぜこの人物は、俺の顔を見て涙を流すのだろう?
「うん……」
慈しむように、延寿は目の前の人物に涙を流されていた。
お涙頂戴のなにかが自身の顔のどこかにあるわけでもないというのに、フードの人物は、ひた延寿の顔を見つめ続け、涙をこぼしていた。手のひらは延寿の頬を相も変わらずさすっている。
数度さすると、満足したのか手の平は離れていった。
「それで……キミ、誰?」
そしてフードの人物は思い出したように怪訝そうな表情、しかしながら目に涙をためたままの訝しげに細めた眼でそう延寿を睨みつけた。
「……延寿由正」
「ふーん」
返ってきたのは『ふーん』だった。興味ないことこの上なかった。
名を聞くと満足したのか、すぐにフードの人物は延寿の横を通り過ぎて行き、雨の往来へと傘も差さずに踏み出した。
「待て。待て」
延寿は路地の入口に立てかけた傘を掴み、フードの人物を追いかける。
すぐに追いつき、大きな蝙蝠傘をフードの人物の頭上へ広げた。
「……」
無言で歩み続けるフードの人物の真横に並び、延寿は歩き始めた。
なぜ追いかけようとしたのか。
なぜ並んで歩き始めているのか。
自身の行動について考え、すぐに結論を出した。
──危険だと思った。一人にしておくと危ない人間だと感じた。家出少年(少女?)かもしれない。それなら帰宅を促すべきだ。
そういう理由だった。
雨の中、薄汚い路地で出会ったフードをかぶった何某か。
そんな彼(彼女?)へ微かに興味が湧いたというのも一概に否定はできない。
そして、あの不可思議な落涙の理由も。
本当になぜなのだろうか。
……思い当たる何事も思考の表層には浮かび上がらない。
「不躾なことを言う」
分からないのなら、理由が分からないのなら、訊ねてみるのが一番早い。
延寿の言葉に返ってきたのは沈黙だ。だから、そのまま言葉を続けた。
「さっきの涙の理由を、教えてくれないか」
ぴたりと伊織は止まり、前を向いたままで、
「知らないよ。キミの眼を見てたら、なんだか泣けてきた……それだけ」
泣いた本人にすら分からない理由を、泣かれた当人が分かるはずがなかった。「あ、やっぱり理由分かるかも」振り返り、伊織はくすりと微笑んだ。
「魂が、ボクに泣けって言ったんだ」
冗談だよ、とその微笑がすでに語っている。
「……そうか」
「信じる? 魂とかそういうのって」
「疑わしいな」
延寿の返答に、伊織は「夢がないね」と微笑みを深めた。