晴れた空
展望台を降りたあとは軽く昼食を摂り、午後からは汐音と花蓮の女子組の、主に花蓮の強い希望により買い物の時間となることに決まった。『月の塔』──月ヶ峰電波塔そのものがランドマークとして複合商業施設の一画にあるため、周囲にはデパートやらの大型小売店や総合アミューズメント施設が建ち並んでいる。
「あたしの直感でごめんだけどさ、汐音ちゃんって本読むタイプの人でしょ?」
「あ、えっと……読み、ます」
「ふふん。当たりだね、あたしほどの図書委員にもなると一目見た瞬間に本読むタイプの人かそうではない人なのかが分かったり分からなかったりするんだよ」
「どっちだよ」
冬真が素っ気なく言い、口元のストローを吸い上げ「……やっぱあまったるいわ」と感想を零した。
延寿たち四人は今、梅雨晴れの空の下、一時の休憩にと外に設けられた屋根付きの休憩スペースに座っていた。手元には太ましいストローの刺さったプラスチック製の容器に茶色い液体が満たされ、黒い粒が沈殿している──タピオカミルクティーが会話の潤滑油にと置かれていた。ブームは過ぎたものの飲みたいのだという女子組の要望のもと、相変わらずの鉄仮面の延寿と嫌そうな冬真の男二人で買いに行ってきたものとなる。
「ねえねえそんじゃあ汐音ちゃん読むのってどんな本ー?」
「その……ちょ、ちょっと子どもっぽいかもしれませんけど、私が好きなのは冒険に出かけるものや、海外のファンタジーとか、児童用のそういうのが特に好きで……」
恥ずかしげにはにかみながらの汐音の言葉を、冬真は視線を斜めに伏せつつもしっかりと聞いていた。彼女が冒険小説を好む理由にすぐに思い至っていた。文章に描かれた光景を空想し続けたであろう少女の想いを現実の体験とさせるための意志が冬真の中で更に強固なものとなり、同時に心の中で苦笑もした。どうやらよほど、俺の一目惚れは根深いものだったらしい──と、そう。
「あははっ。いいじゃんいいじゃん。あたしも好きだよそういうの。『ナルニア国物語』とか『ゲド戦記』とかかなー? あとちょっと難しいかもだけど『指輪物語』? 読んだ読んだ。夢があるよねえ、新しい土地、新しい登場人物、新しい冒険……うんうん」
同好の士との会話が楽しいのか、にこにこと花蓮は表情に笑みを伴い続けている。
「は、はいっ。いつかこういう場所に行ってみたいなって……そう、思いながら読んでて……」
口にして恥ずかしいと感じたのか、言葉の最後が消え入りそうなほど小さくなった。
「だってさとーま」
花蓮がにやりと冬真を向く。
「……分かってるよ」
視線を斜めにタピオカミルクティーの太いストローの先端を向いたまま、冬真はぶっきらぼうに答える。言われずとも、だった。
視線を上げると汐音の視線とかち合い、両者ともに視線を逸らした。
ほっほー、と花蓮は微笑ましいものを見つめるようににやついている。
「……」
口の中に甘さを引きずりつつも、延寿は黙って会話の一連を聞き、考えていた。
もし、だ。もしもの話。現在の月ヶ峰市内に潜んでいるらしき『案内人』が、本当に異世界へと人々を連れて行くものであるとしたら……それは目の前の少女の望みを叶えることとなるのではないか。すればそれは彼女の願いを叶えることになる。そうすればその行いは正しいものであるかのように……(不毛な思考だ)考えを断ち切った。前提からしてありえない。そのような可能性の存在を口にする気すら起きなかった。
桐江汐音の夢ならば、冬真が叶える──そのような結論だけあれば良い。
にやつく花蓮に、考え込む延寿に、黙り込む冬真と汐音。
四人の間に少しく間が空いた。
「花蓮さんはどんな本を読まれるんですか」
その沈黙を気まずいものと思ったのか、汐音が花蓮に問いかける。
「んー。あたしはね、紙の本とかも読むけど、最近はあれかな、もっぱらウェブの方の小説かな」
「ウェブ、ですか……」
「汐音ちゃんはどうお?」
「私はあ、いえ、ウェブの方の小説は読んだことなくて……すみませんが」
「ほほー? うん。面白いのいっぱいあるんだよねえ。今のトレンドは……うん、やっぱり異世界ものだね」
「異世界……それは、ガイドの」
「……うん。まあね、あたしたちにとっても、すっかり身近な言葉になっちゃったけど。ガイドが、出てきてから」
月ヶ峰市内において今もっとも蔓延る言葉が『案内人』であろう。
そしてその『案内人』が行うのは、異世界へと案内すること──願う者願わぬ者を問わず、殺すことで。
「転移やら転生があって、その手段というか方法というかね、臨死が必要な場合があるんだ。トラックに撥ねられたりだとか通り魔に刺されたり、とかそうすることで異世界へ行ける」
「異世界とは広いのでしょうか」
「広いだろうね」
「本当に、あるのでしょうか」
「あはは、どうだろう。あたしじゃあるかどうかは断言できないよ」
汐音の言葉には希望と期待が微かに含まれていた。死後、広い世界、常識が全く異なる場所へ。異世界の実在により、死は終着点から単なる通過点へと意味合いを変える。
死の向こう側には何もない。
延寿にとっての、あくまで個人的な結論はそれだけだ。だが目の前の桐江汐音は個人的な思考の末に、異世界に小さな希望を持っている。その夢を壊すような延寿の結論を吐きだすことは正しいこととは言えない。だから延寿は黙り、何も言わなかった。視界の端にいる冬真が真剣な表情で何事かを考え込んでいるのが見えた。
「異世界ももちろん面白いんだけどさ、今のあたしのトレンドはこれよこれっ」
そう言うと花蓮はスマートフォンを取り出して操作をすると、画面を花蓮の方へと向けた。
延寿からは画面がよく見えなかった。
「ざ、ばーどいずごーいんぐとぅ……」
汐音がタイトルを読み上げる。
「ホラー、なんですね」
「そーそー。ホラーなのですよ。ほんとーにぐーぜん見つけちゃってさ、なんとなーく読んでたら、お? ってなってね、読んでるの。まだ完結はしてないんだけどさ」
「どんな話なんですか」
「なんかねー、ざっくり言うと性悪な女神さまが主人公にちょっかい出す話かな。汐音ちゃんはホラーとか読む?」
「ホラーは……読んでると怖くなって……」
汐音が怯えたように、そして気恥ずかしげに微かに笑った。
その後も楽しそうに会話する汐音と花蓮を前に、冬真と延寿はタピオカをちびちび飲みつつ、
「やっぱあめえなこれ……」
「……甘いな」
と言葉を交わしていた。
「なあ、異世界って、ほんとうにあると思うか」
冬真が独り言のようにこぼした問いかけに。
「死を経由しなければ判明しない事実に、生者の俺たちが何を言おうと不毛だよ」
延寿は延寿なりに言葉を濁した。現状を言い、個人的な結論を出さなかった。
「だよなあ、死ななきゃ分かんねえのか……でも死にたくはないわな」
冬真の言葉は正しいものだった。
やがて四人の容器が空っぽになった頃合いで休憩は終わりとなり、買い物の時間へと移行した。ぶらぶらと歩いて向かう途中で、
「あ、そういえば知ってた汐音ちゃん。とーまって手芸が得意なんだよ」
ふと思い出したかのように花蓮が言い、
「ばっ、おま、花蓮!」
冬真が慌てた。
「え……?」
初耳だったのだろう。汐音が驚き冬真を見つめる。
「ほら見て見てこれ。図書室の新しいマスコットで、『読鳥ん』って言うんだけどね、これ作ったのとーまなんだよ」
花蓮に見せられたスマホの画面に映った足を投げ出して本を読む鳥のぬいぐるみ──『読鳥ん』を見、
「こ、この子、かわいいですっ」
見る見るうちに汐音の瞳が輝き出す。「冬真さんが作ったんですか!?」
「え、あ、おう。俺が……作りました」
「すごいですっ、冬真さんお裁縫得意なんですね!」
屈託のない笑みで向けられる純粋な賞賛に、冬真が顔をそむけた。
「あー、照れてるー」
すかさず花蓮が言い、「うるせえ」と冬真が顔をそむけたまま言い返す。
「とーまのやつに教えてもらいなよ、汐音ちゃん。見た目はイヤそうだけど内心はめっちゃ喜んでるからさ。いやよいやよもあれだよ、好きの内ってところだよ!」
「良いんですかっ!?」
「い、いや、俺からそういうの習ったってそれは汐音お前、広い世界を見ることとは関係なくないかっ?」
「そんなことありません! 私の知りたい広い世界には、もちろん冬真さんだって含まれています!」
熱のこもったそんな宣言。
言った本人である汐音ははっとなり、たった今自分の口から出た言葉の情熱さに頬を瞬時に紅潮させた。言われた当人である冬真もまた、「そう……ですか」と顔が赤くなる。
顔の赤い二人が見つめ合っている。
「ひゃっ」
ぱし、と花蓮が妙な歓声をあげて延寿の肩を優しく叩いた。心なしか花蓮の顔までもがうつったかのように赤い。
「お、男が裁縫ってさ、ほら……なんか、受け入れがたいような人間だっているだろ。女々しいとか、男らしくないだとか」
「……そういう人もいるかもしれません。でも、私は素敵なことだと思います」
「はは、そう言ってくれるのは嬉しいけどな……」
あくまで乗り気ではない冬真に、花蓮が何かを言おうと口を開き言葉を発する──その前に。
「と、冬真さんは私のことが好きなんですよねっ!?」
汐音が一歩踏み出し、冬真の手を握っていた。
考えもしなかった事態に、冬真の眼は驚いていた。そして「あ、ああ……好き、だ」とひとことだけ。けれども確実に本心から出ているだろうひとことを返した。
「私も、冬真さんのことが好きです。きっとこれから、もっと好きになります! お父さんとお母さんに言った言葉、だって私は本当に嬉しかったんです!」
言葉には熱がこもり、内燃する意志に汐音の頬は茹でダコだった。真っ赤っかだった。情熱の発露にあてられて、冬真も驚愕しつつも顔の赤みは一向に引こうとしない。
「私は、冬真さんのお裁縫ができるということを、本当にすごいと思っています」
言葉は続けられる。「ずるい言い方、しますね。冬真さん──」
「あなたが好きであなたを好きな人間の言葉は、あなたを否定する心無い人たちの言葉なんかよりも遥かに大きいのではないですか。マイナスの言葉にわざわざ耳を傾けずとも、私の言葉に……言葉が……その、冬真さんに二の足を踏ませる言葉を上塗りにしてあなたの心を占めてくれるとありがたいなあって、思って、私……………すみません」
言葉の勢いは最後には蚊の鳴くほどになっていた。
ふしゅうううううう、と蒸気が出ているかのように真っ赤な汐音を冬真は真剣な眼で見つめ、
「……あははっ、そうだわな」
何かが吹っ切れたかのように笑った。
「俺の得意なことを馬鹿にする奴らの言葉よりも、俺が好きで俺を好きでいてくれるお前の言葉の方が……そうだよ、ずっと大きい。だからそっちに注目して、そっちの言葉しか聞こえないのが当然だ。なんならもう聞こえねえわ」
笑いかける冬真の笑みは自然なもので、差し出す手も自然な動作で。
「それなら教えてやろう、汐音。俺が十数年で培った手芸の技術を伝授してやる」
「はいっ。伝授してもらいます!」
汐音は心底嬉しそうに笑うと、やはり自然にその手をとった。
「……あたしたちが何をしても、なんだか余計なお世話になりそうだね」
笑みと共に小さく、花蓮が延寿に言う。
「ああ。なるだろう」
返す延寿の表情もまた同様だった。
その後は、冬真が汐音の為にソーイングセットを一式買い、とりあえずは『読鳥ん』の親族を創るぞ、とこれからの方向が定まり、ぬいぐるみ用の生地やら家庭糸やらを大量に買い、嵩張った布と生地により店名の入った買い物袋は巨大なものとなった。
買い物はその後も続き、デートは長引き。
やがては夕暮れとなった。
橙に空が染まる、晴れた夕方だった。