月ノ塔
シがいるでしょ」
背後からだった。
「……!」
全身が総毛立った。かろうじて女の声だと分かった。
怨むように濡れそぼち、呪うように地を這っていた。
向けた先は自身だとはっきり分かった。
「ッ!」
延寿は一息に振り返る。先ほどの駅前広場のときと同様の戦慄を抱きつつ。
だが、誰もいなかった。いや、人はいた。大勢いた。薄暗い曇った空の灰色に色の落ちた視界には多くの人間がいた。サラリーマンの男性二人のしっかりと固められた後ろ髪、老婦人と老紳士の白髪交じりの後姿、私服姿の男女の茶髪に、或吾高校でも口木高校でもない制服──真昼ヶ丘高校の制服を着た女子生徒二人組の黒髪……だが、いないのだ。今、延寿を呪う声を吐いた人物に該当するような何者もいない。
「ど、どうしたのよっちん?」
花蓮の心配に、延寿はなんでもないと首を振った。
空気が湿っていた。遠くから雨の匂いが風に乗って来た。まもなく雨が降るだろう。
「……空耳だ。それか、通りすがりの誰かの言葉が、偶然耳に入った」
自分を納得させるために吐いた言葉は、なんとも心もとなく響いた。
「それなら、いいんだけどさ……よっちん、すっごい表情で後ろを振り返ったから。何事かって、びっくりしちゃった……」
花蓮の表情が暗くなる。
先日の、あの雨の日に初めてガイドと接触した直後のように、暗く今にも泣きそうな……、
「……俺たちを危険に陥らせるような人間はいなかった」
きみが心配するような何事もこの場には存在しない、そう延寿は言外に含んだ。そんな暗い顔はきみには似合わない……そんな言葉を吐ける機構を備えていない、少なくとも延寿は自身をそのように理解している。たとえ本心では思っていようとも、だから口には出さなかった。
「よしまさ……絶対に向かって行っちゃだめだよ」
その言葉を口にする花蓮の表情は真剣だった。
瞳は延寿をしっかと見据え、口は真一文字。
なのに眉は泣きそうに下がり、強さを押し出した表情の裏に不安と恐怖があった。幼馴染からの頼みは懇願の響きを伴っていた。
どうやっても。なにがあっても。立ち向かわないで。向かって行かないで。誰に、という目的語はない。ある必要がなかった。目的語はただひとつに定まっているのだと、延寿も花蓮も分かっている。
「『案内人』は危険だ。いくら俺でも、それぐらいは分かっている」
手も足も出ないことは分かっている。
先日に殴られた青痣がようやく消えた頬に痛みを覚えた。きっと気のせいなのだろうとも思った。
「それならいいよ。よっちんが勇敢に立ち向かったとしても、あたしはその雄姿を見すらせずに一目散に逃げるからね。そのぐらいにはあたしは薄情でいるから、よっちんも薄情に自分の命を優先して」
「その行為が正しいと判断できたのなら」
「あはは。悠長だねーよっちんはー。いざそういう場に出くわしたら判断する暇もないってことはこの前知ったでしょ」
そこまで会話し、前方のカップルが振り返ってこちらを見ているのに気づいた。
会話に気を取られ、歩みを止めてしまっていたようだった。結構な距離が空いてしまっていた。
「ごっめーん、よっちんがかわいい子がいたとかほざくから、ちょっと怒ってたんだー」
花蓮が笑いかけ、ほら行こ、と延寿の手を引く。
手を引かれ延寿は、冬真と汐音の二人組のもとへ早足で向かった。途中、もう一度背後を肩越しに見たものの、人の群れの中にはやはり何者もいなかった。
(……だが、確かに聞いた)
気のせいではないことははっきりと分かっている。
先ほどの広場のときもそう。その前の、あの巌義麻梨にイセカイを飲まされたときに見た幻覚のときにもだ。気のせいではなく誰かがいた。俺を知っている誰かが、いた。明確に俺を意識している何者かがだ。
「そろそろ着くぞー」
冬真の言葉に延寿は思考を中断する。
「知ってる知ってる。だいぶ目の前で主張してるし」
と、花蓮。
延寿たちの眼前には、聳える電波塔がもうすぐ近くまで来ていた。雲の厚みは増している。風が強まっている




