雨煙る夜の街
ビルの壁をゲジが這っている。
幼虫のようで、十対ほどの脚を動かし、薄暗がりを後ろめたく歩んでいる。何処へ行くのか。何処へ向かうのだろう。このゲジは。虫けらは。
小さく取るに足りない多足類を一瞥した後、歩みすら止めない青年がいる。助けを求める者には助けを、人道に沿い、規則を破らず法に従い、破る者には是正を、その程度には正しく生きたいと彼──延寿由正は常々思っていた。いつからか、思い続けていた。この世に生を受けてすぐか、自我を備えた辺りからか、それとも肉体という器を持つ以前より、魂としか呼べない不可視の非存在物に神としか称せないものの手で刻まれてからなのか──正しく生きた末に正しく死ね、と。
延寿は今、月ヶ峰市の繁華街を歩いている。
アーケードから少し外れたところ、繁華街の端側に当たる通りだった。林立するビルの隙間から『月の塔』の煌きが黒の背景に浮かんで見える。
雨の日だった。延寿が差す黒く大きな蝙蝠傘は先ほどからひっきりなしに雨音を奏でていた。
時刻は午後九時過ぎ。夜だった。
曜日は月曜。平日だった。
月ヶ峰市立或吾高等学校の二年A組に在籍する延寿は、当然ながら一生徒である。一学徒であり、一未成年である。次の日も学校だというのに夜の繁華街をうろつくような不良行為、それまでの延寿ならば眉を顰めて「下らない」と斬って捨てるだろう。
だが、なぜか。今のこの状況はいったいどうしたものか。
その当の延寿が、そのような〝下らない〟行動をしてしまっている。
「……まだ、話せないのか」
呆れ果てた声で、延寿はもう何度目かの問いを向けた。
ひとつ言い忘れていたが、今の延寿は一人ではない。彼の差す蝙蝠傘の恩恵を受ける領域の四分の三ほどを、そのもう一人へと貸し出している。
結果的に延寿の肩は傘からはみ出る形となり、その右肩はびしょ濡れだった。
そんな身体の右側がだいぶ冷たくなってきた延寿の問いかけに、もう一人は無言を返した。いわゆるシカトだ。目深にフードをかぶっており、如何な表情を浮かべているのかさっぱり見えない。
「名前ぐらいは名乗れるだろう?」
延寿は言う。歩きつつ。
どこへ向かっているのかは、当の延寿も分かっていない。もう一人との会話を目的とする歩行なのであり、目的地となる場所なんて定めていなかった。
「……なんで僕を助けた」
雨音に負けてしまいそうなほど、その声は小さかった。
相変わらずフードに表情が隠れているため、いったいどんな顔で放った言葉なのか延寿には分からなかった。ただ、その声の調子からすこぶる不機嫌っぽい、というのはかろうじて分かった。
「偶々だ。ぐうぜん、目に入った」
延寿は淡々と答える。歩みは止めない。
「僕の姿がか?」
問われる。
「ああそうだ。きみは困っていただろう? だからだ」
「別に。困っていなかった」
不要な手助けだったとばかりに吐き捨てられ、延寿は微かに眉を顰めた。なにも助けたことを無下にされて機嫌を悪くしたのではなく、明らかに困っていたのにそれを認めない頑なさに少しばかりの怪訝を覚えたのだ。この状況で天邪鬼になったところで無意味だ。
「まあ、いい。名前だって、言いたくなければ名乗らなくていい」
延寿はひとつ目を瞑り、相も変わらず視線を合わせようとしない同行者へ、ともすれば冷ややかともとれるほどはっきりとした口調で、
「きみはもう家へ帰れ」
そう言った。返答は当然のようにない。
「また一人でうろついて、また妙なのに絡まれたくなければ……いつも誰かが都合よく助けてくれるわけじゃない。みんながみんな、きみの為に人生の時間を浪費するような善人ばかりだとは思わないことだ」
延寿にとってその言葉は、ただ正論を言っただけ、だった。悪意も敵意も込めていない。そうだと考えていることを口に出しただけだ。
チッ、という音を延寿は聞いた。舌打ちだった。
同行者が立ち止まり、延寿もまた立ち止まる。
傘は相変わらず、同行者の上を主に差している。延寿はそういう人間だった。
すると同行者は勢いよく顔を上げた。その拍子にフードの位置が半端にズレて、煩わしかったのか両の手でフードを放った。真っ白な耳にかかるほどのショートヘアと、灰色の瞳があった。
延寿が今までに見たことのない色合いの人間だった。
髪も瞳も肌も、漂白されたみたいに色素が薄かった。
そんな特異な双眸が怒りに燃えながら延寿を下から射抜いていた。見るからに、それはもうすごく怒っていた。
「いちいちうるさいな……お前は僕の保護者か?」
「きみのような子どもを持った覚えはない。子を持つような年齢でもない」
睨みつけられても全く委縮せず、目の前の人物が持つ色の特異さに言及する様子もなく、延寿は淡々と答える。その視線は、ようやく目が合った同行者へと向けられている。片時も視線を背けずに真っ向から見下ろしている。その瞳は見る者へ冷酷さすら覚えさせる。だというのにその片手は同行者が雨に濡れぬようにしっかりと頭上へ差されている。
「僕だってお前みたいな親なんていらない」
「そうか。なら、この不毛な会話は早々に締めようか。きみの本当の親が今も心配している。早く家へ帰れ」
延寿の発した『本当の親』という単語は、きっと同行者にとっては地雷だったのだろう。見つめてくる灰色の瞳がはっきりと歪んだ。それは嘲笑だった。
「僕を心配する人間なんていない。だから、そう……心配いらないさ。僕が好き勝手しようと、どう動いて、どんな目に遭おうと……どうだって、良いんだ……」
自暴自棄な笑みに、延寿は「早く家へ帰れ」と再三言った。
「は? お、お前、今の僕の言葉を聞いてなかったのか。誰も僕を心配なんて」「帰れ」
同行者の言葉を遮って延寿は言う。
同行者は黙った。沈黙し、睨みつけてくる。「お前……!」怒っている。かけてほしい言葉がきっと別にあったのだろう。延寿がそれをかけるような人間ではなかっただけで。
「帰る家はあるのだろう?」
「あるけどさっ」
「なら早く歩みをその帰る家へと向けることだ。こんな夜の街にいるよりも遥かに安全な場所へとな。俺も、もう帰る」
本当に今にも踵を返して帰宅を始めようとする延寿へ、同行者は、
「僕がどう行動しようと僕の勝手だろ」
と、そう反抗した。
「誰も心配しないからか? きみは誰にも自身の安否を憂慮されないから帰らない。そう言うのか?」
「あ、ああ……いやそれは違うっ。僕は勝手に動いているだけだ。誰かに心配してほしいとか、そういう無責任な構ってちゃんとは違う」
「違わない」
はっきりとそう、延寿は言い切った。
「違わないだろう? 俺の目に映るきみの姿は、その〝無責任な構ってちゃん〟だ」
それが正しい言葉だと信じる為に、延寿はそのような言葉を口にする。その突き放すような正論と押しつけがましい言葉が為に、彼の周囲に敵は多い。
今もまた、灰色の瞳の同行者に救いの手すら差し伸べず、温かみなく斬って捨てた。
ただ。
「それに……誰も自分を心配しない、はきっときみの思い込みだ」
「……」
「今夜出会った縁、というだけのものだが……俺はきみの安否を心配している。この街が今とても物騒なのは知っているだろう? 例の殺人鬼のせいで……だから無事に家へ帰ってくれれば、と思っている。もし帰路が不安なら、途中まで同行したって良い」
彼がごく希に垣間見せる思いやりの理解者もまた、僅かだが存在はするのである。
同行者は目を丸くしきょとんと延寿を見つめると、
「っ……ばかばかしいな」
すぐにそう吐き捨てて「分かったよ。帰るよ」と延寿から離れた。「一人で……」「ついてこなくていい!!」
一人で大丈夫か、と言おうとした延寿には激しい拒絶が返された。
「それなら……ほら、傘。持って行け。濡れるぞ」
同行していた者の腕を掴み、延寿はその手を無理に押し開いて傘を握らせる。小さく、白く、華奢な手だった。
「よ、余計なお世話だ。僕には必要ないっ」
振り払って傘を捨てようとする手を延寿は掴み、両手で傘を握らせた。無理やりだった。同行者は非力で、圧するのは易かった。
「見る限り、きみの方が俺よりも風邪をひきやすそうな見た目をしている」
「……いらないお世話だよ。この傘、きっと帰ってこないぞ」
「別にいい」
「はっ。それはそれは。ずいぶんとものが潤っている家庭にいるんだな、お前」
皮肉を吐きつつも同行者は素直に傘を握り、全身がずぶ濡れになりつつある延寿を見上げ、
「……伊織」
「イオリ……?」
「名前だよ。僕の名前だ。沙花縞伊織。お前のお望みの名前だよ、聞けて良かっただろ」
そう吐き捨てるように言葉をぶつけると、伊織は背を向け走り去った。街灯と店舗から漏れ出る明かりに煌々と光る通りを、傘を差して行き交う大勢の他人の間へとその姿は消えて行った。
「……イオリか」
知らない名前だった。
延寿の記憶する名前の群れの中に同じ名は見当たらなかった。
走り去る後姿を見つめた後、延寿は緩やかに歩き出す。傘を差さずに堂々とずぶ濡れで歩く彼を、道行く人々は奇異なものを見るかのように眺めた。
帰路、幸いにも殺人鬼に出遭わなかった。
元より延寿は異世界への願望はない。娯楽として楽しみこそすれ、本心から行きたいと願っている人間も少ないだろう。なのに『案内人』は異世界へと無理やり招待しようとし、凶刃を振り下ろす。
(……無意味で、自分勝手な行為だ)
それは無意味であり。
それは自分本位極まりない。
浮かび上がった感情は苛立たしさだった。
『案内人』の殺人は歪んだ善意の表出だ。愚か極まりない。延寿はもう何度もしたようにそう結論した。
(沙花縞、伊織……)
無事に帰れることを、ただ祈るのみである。
無事に帰れることを。無事に帰れることを。無事に帰れることを──そう、何度も。何度も。繰り返して、繰り返し、くり返し、繰り返シ、クリカエシ、々、ノマ、ノマ……「……」螺旋を描いて地の底へ墜ちゆく思考を自覚した。疲労による無意味な単語の不必要な連続……延寿は自らをそう診断した。気にしすぎるほどのことではない。
思考は徐々に記憶の上映となり、さきほどの人物──伊織との出会いの場へと遷移する。