もさみ確保
次の日。
授業が終わり、放課後のこと。
延寿は化学実験室内で、備品の丸椅子に座り後輩の訪れを待っていた。パラパラと降ったり止んだりの雨天だった。薄暗く静かな室内には雨音が断続的に鳴り、遠い喧噪が短く響いては掻き消える。
電灯の光も心持ち薄暗く覚える室内に、無言で椅子に座り微動だにしない延寿の姿はさながら彫刻のようだった。
ふと、微かに近づいてくる足音を聞いた。
その足音は化学実験室の入り口扉(引き戸)の前で停止し、数秒の逡巡のあと、開かれた。
入室者は延寿の姿を認めると、静かに会釈した。
もさもさの髪は梅雨の湿気に助長され、常に翳る表情は緊張と若干の怯えが混じっている。制服は内側から押し出され、気怠そうに青のスカーフが乗っていた。
新入部員、もさみだった。大多数の他人は彼女を黒郷さんと呼ぶ。
「え、延寿先輩おひとりだけですか?」
黒郷は室内を見渡し、そのように問う。
「獅子舘さんは少し遅れる」
そうですかあ、と黒郷。会話は途切れた。
無言で気まずそうに、母とはぐれた子どものように不安げな表情できょろきょろと見回す黒郷へ、
「好きなところへ座るといい」
「は、はい……」
黒郷は入り口近くの椅子に座った。延寿からは遠いが、延寿が視界に入る位置取りだった。
「活動の開始は獅子舘さんが来てからとなる。それまでは好きにしておいてくれ」
「はい……」
会話は途切れた。
雨音が主張し始めた。
「黒郷さんは、部活後の時間はあるだろうか」
おもむろに延寿が訊ねる。
「じ、時間ですか? あ……ありは、します、けれど……え、まさかアタシ、なにかへんなことをしちゃったりとかっ……」
途端に怯えた様子を見せ始めた黒郷へ、延寿は「花蓮がきみに用がある」とだけ。
「花蓮先輩が……え、なんだろ」
花蓮の用とは、昨日の冬真の件である。
桐江汐音という女子生徒についてを尋ねるため、だ。延寿にも可能なことだが、怯えられている自身よりも花蓮が聞いたほうがスムーズに事が運ばれるだろう。そのような判断に至り、延寿は黙っていた。
手持ち無沙汰にもじもじする黒郷の背後の戸ががらりと勢いよく開けられる。「ひっ」黒郷が怯えて振り返った。
「来てたか、二人とも」
オカミス同好会の長である獅子舘椿姫だった。
いつものポニーテールに鋭い目つき。なぜだか、心なしか顔を綻ばせているようにも見えた。
「喜べ──オカミス同好会は部室をもらった」
部室ができた。
「異論はないな。あったところでそもそも私が認めないが……よし、なさそうだな。ならばさっそく行こう二人とも」
表面上は落ち着いているが中身が沸々と興奮している椿姫へ、なにかを言いたげな黒郷と、「獅子舘さん」なにかを言わんとする延寿。
「……」
椿姫はギロリと延寿を見返す。けれど言葉が発されない。
延寿は最初、椿姫のその行動が分からなかった。なぜそのような、と思った。そしてすぐに思い出した。思い返した。先日の言葉、要望と言うよりも命令に近いあの言葉を。
「……椿姫さん」
「なにか言いたい事でもあるのか?」
返答は早かった。部活動中、椿姫は名前以外の呼称を拒む。『椿姫さん』という呼び名以外を冷たく禁じている。そんな個人的な感情からくる規則の対象者は今のところもこれからも延寿一名に限られている。
「花蓮もここへ来ます。そんなには掛からないでしょうから、彼女が来るのを待ってからでもいいですか」
黒郷の言わんとしたいことも同じだったのだろう、延寿の視界の端にほっとした表情を浮かべる後輩が見えた。
「それは別にいいが……なぜ鷲巣が?」
「少し……用がありまして」
「その用とはなんだ? お前が言葉を濁すのは珍しい。興味が湧いたぞ」
興味を持たれてしまった。
「椿姫さんには無縁のことです」
「……無縁だと? その私には無縁となりうる用とはなんだと聞いているのだが。内緒話をしたいのならその存在をすら匂わせないのが礼儀だろう? お前は今、礼儀を失したんだ。あからさまに秘密ごとをチラつかされるのは私に酷だと思わないのか。私がとても気になって夜も眠れなくなったらどうする? 責任を取れるのか? いいのか? 絶対に責任を取るんだな? ならばよし」
「……恋愛沙汰です」
一人で勝手に進展していく椿姫に延寿は観念し、用事の内容を端的に述べた。
「ほお……?」
「へっ……?」
延寿の言葉に椿姫はもとより、黒郷も反応した。
恋愛だなんて初耳ですっ、となった。
室内にいる女子二人は俄然興味が湧いたのである。まさか延寿の口からそんな単語が出てくるとは、と。
「れ、ん、あ、い。由正、お前は今、そう言ったのだな?」
是正是正という鳴き声を日々発する延寿の口から恋愛に関する話題が出てくるなど、ペンギンが空を飛ぶほどにはありえない光景だと椿姫は思っていた。でも出てきた。ペンギン空飛んだ。すごい。
「はい。言いましたが」
「なんとまあ……なんと、まあ。お前が人を好きになる日が来るとは、嬉しいような……さびしいような。複雑だ」
本当に複雑そうに、半泣き半笑いで椿姫は言う。校内ではクールビューティで知られている椿姫の、それはそれは珍しい表情がにじみ出ていた。
「俺ではありません。俺の友達です」
「ああそう。そうか。お前の友達の話か。ああ……そうか」
どこかほっとしたように椿姫は言うと、「それなら良い。鷲巣を待とう」
そうして待つこととなり──
数秒、十数秒、数十秒、数分、十数分……時は過ぎゆく。
「来ないぞ」
頬杖をついて視線は時計を見上げ、椿姫。まだ花蓮は来ていない。
「ど、どうしたんでしょうか……」
不安そうに黒郷が言う。
そして自然な動作で花蓮と連絡を取ろうとスマホを取り出すために鞄に手を入れ、今その行為をすることの愚かさに気付き硬直した。或吾高校はそもそもスマホ持ち込み禁止だ。風紀委員に取り締まられる。どんな怖い風貌の生徒だろうとルール違反をしていれば注意を行い必要とあれば圧すらかける、それが風紀委員だった。そして今黒郷の周囲にいるのは、その恐ろしい風紀委員の元締めたる獅子舘椿姫と、或吾一冷徹な男だと密やかに囁かれている延寿由正の二人。或吾高校における怖い生徒ツートップである。
ボコボコにされる、と黒郷は身震いした。ぼっこぼこのぼっこぼこにされて是正ボックスに改心するまで収納される。
堂々とルールを破るだけの厚かましさも、愚直にルールを守り続けるだけの強靭さも黒郷にはなかった。中途半端に破り、中途半端に守る──大多数の生徒と同様に、黒郷亜沙美もまたその一人だった。
そんなひとり怯える黒郷の傍らで、延寿は思考していた。むろん、花蓮のことだった。すぐに来れると彼女は言っていた。だが来ていない。……なぜ、来ていない。
「……少し、見てきても良いですか」
延寿はそう言うやいなや、立ち上がる。
「私も行こう」
椿姫がその後に続き、ついていかないわけにはいかないだろうと黒郷もおどおどしつつその後ろに続いた。




