木又 人鬼と
「私、人の魂が見えるんだ」
正気の言葉ではなかった。
たった今夢を見始めたような唐突な恍惚を伴い、涯渡紗夜は滔々と過去を紡ぎ出した。
「──小さな頃のことでした」
世界を覆いつくす雨音の中、彼女の声は驚くほど澄んで聞こえた。
「夏が来る少しだけ前、珍しく晴れていた梅雨のどこかの日だったかなあ、って思うんだけどきみはどう思うかな、ねえ延寿くん? 分かんない? そりゃ分かんないかあ、そうだよね、ふふ、私のことだもの。きみには分かんないね。私はきみのことが分からないし、きみも私のことは分からない。他人の本意なんて分かりようがないし、親切な人が教えてくれたとしてもそれが本当かどうかはやっぱり分かりようがない。そんなものだよ、結局のところは、そんなもの……あ、私の退屈な感傷よりも続きの方が訊きたいかな? いいよ。なんでも話してあげる──だって、きみは私まで辿り着いた唯一の人だもん」
連日の雨は未だ止まず、いまもなお数多の水滴が暗雲から落ち続けている。
対面する少年と少女へと容赦なく降り注いでいる。
雨に打たれてしとどに濡れ、身体にはりつくブラウスを気にも留めず、濡れ羽色の艶やかな黒髪を首筋に張り付け、それでも涯渡の語りは止まらない。くすくすとした微笑は目元の泣きボクロにより艶が出され、さながら気の置けない友人との世間話に興じるように楽しげに彼女は自身の過去を開示する。
これでは、とても。
「祖父が……おじいちゃんが、死んだんだ」
とても、連続殺人鬼とそれを追い詰めた者の会話ではない。
「真っ白な病室で、みんな静かにだんまりだった。するとね、おじいちゃんの身体からすぅ、と虹色の靄みたいなものが抜け出たの。嘘じゃないんだよ? 本当に見たんだよ? それがね、それがとても、とてもとてもとても綺麗でね……私はその虹色を掴みたくて──どうやってでも掴み取りたくて、近寄ったの。でも靄はふわふわと浮かんで、窓を突き抜けて外へ出て行ってね、青空へと昇って行っちゃった。もらった風船をうっかり手放してしまったときみたいに寂しげに昇っていく靄を──魂を、手が掴んだの。大きな青空に相応しい、大きな手。ビルよりもずっと大きな手が現われて、その虹色を掴んじゃったんだよ。そして手は消えたの。もとから何もなかったみたいに、綺麗さっぱりとね。とられた、と私は思った。その大きな手に、綺麗なものをとられちゃったって。嫌な気分になった。私、すぐにあの大きな手が嫌いになった。欲張りな誰かの手だと思った……忘れられないんだ、私、その時に見た虹色の魂の、輝きが……忘れられなくなったんだ。あの梅雨の日に見て、どんな手を使ってでも欲しくなった魂が……だから」
どこまでも透き通った笑みを浮かべ、浮かべて。
涯渡紗夜は──月ヶ峰市内に住まう無辜の人々を殺しに殺した連続殺人鬼『案内人』は。
「きっとその時に私、人殺しになろうって決めたんだ」
彼女を追い詰めた者──延寿由正へと、
「延寿くん──きみは異世界に行きたがるような人には、見えなかったんだけどな」
柔和に細めた眼を向け、親しみに吊り上げられた口元を見せ。
明らかにサイズの合っていないぶかぶかの黒い雨合羽の袖をあげ、一振りの鋭利な刃物を突き付けて。
「でも、少し……ううん。とても、嬉しいな。きみの魂、とっても綺麗そうだったから。透き通って、孤高で、冷たくて、凍っていて……」
ころりと、小さく笑い。
からりと、晴れやかに笑い。
「きみの魂はちょっと本気であの大きな手に渡したくないなあ、って思うんだよ。ガイドとしてらしからぬ反逆心だけどね。ふふ、これって独占欲、みたいなものなのかな。こんな気持ちになるの初めてだから、よく分かんないんだけどね」
突き付けた刃物の切っ先を、首の一直線上に乗せ。
「きみにはようこそ、だなんて言わないよ。行ってらっしゃい、なんて言うわけがない」
恍惚の混じる笑みを浮かべ。
「きみだけは異世界へ行かせない。あの手に掴ませない」
視座に一抹の遠望を混じらせ。
「私はそう決めた。あのとき、そう決めた。それが夢でしかないのだとしても、私は決めたんだ」
そうして、人殺しに相応しい輝くような狂気に眼をきらめかせて。
「ガラスの瓶につめてコルクの蓋をして、私の部屋の、窓際にあるお気に入りの棚に飾って、一番見やすい位置に飾って、ことあるごとに見つめ続けてあげる。私が成人して大人になって、誰かと結婚して母親になって、孫ができておばあちゃんになって、もう何もかもをしてしまった後でも唯一残された〝私のしたいこと〟として……いつまでも、ね。そんな窮屈で退屈そうなのは嫌かな? でもごめんね、ここに来た時点できみに拒否権なんて……ないんだよ」
目の前の男を殺すための一歩を。
「きみの魂、私が大切に保管してあげる」
踏み込んだ。