運命の出逢い
「とーま、あたまだいじょうぶ?」
「大丈夫だよ! そこまでおかしなこと言ってねえだろ俺!」
いきなりメルヘンなこと言い出し始めたから、と花蓮は心配そうに眉尻を下げた。
「ったく……」と冬真は目をひとつ瞑り、瞑ったまま眉を顰めて、
「一年生の子だ。青色のスカーフをしていた」
「或吾の生徒なのか?」
延寿が尋ねると、冬真は「ああ」と頷く。
「気を付けなよとーま? よっちんの眼が光り始めてる。こいつまさか不純異性交遊に足を突っ込もうとしてないか、と風紀的な視線になってるよ。さながら猛禽類が哀れな獲物を狙うみたいにねえ。こうなったときのよっちんはもうほんとどうしようもないし」
うひひ、と花蓮がいつもの明るさに持ち直して言う。
そうは言われたものの、延寿にそのようなつもりはなかった。少なくとも、今は未だ。
「な、ならねえよ。まだ会って日が浅いし、あんまり会話したこともないんだ」
「いつ会ったの?」
「忌引き中だよ。ろくでもねえ兄貴の葬式が終わった後のな……」
そこまで遠くない過去を遠い目で見つめ、冬真が語り始める。
「お、過去エピ入る感じ?」と花蓮。
「ああ。心して聞いとけ」と冬真。
「あの日──昼間だったんだけどさ、通学路から折れて少し行くと公園あるだろ。俺、そこの公園のベンチに座ってボーっとしてたんだ」
「なんでそんな失職したサラリーマンみたいなことしてんの?」
「……まあ、家じゃあ親父とおふくろと親戚どもでどんよりとお通夜ムードだったしさ。少し散歩してくるわ、すぐ帰ってくるからってところで抜け出したんだよ。どんなクズでも、親父とおふくろにとっては二人しかいない息子のうちの一人だったんだってことだ」
「あー……そだね。ごめん」
「気にすんな。もう過ぎたことだよ……で、だ。俺が晴々しい空を見上げてボケーっとしてたときよ、女の子が来たんだ。或吾の制服を着た女の子が平日の昼間っから公園に入って来て、俺が座るベンチの隣にあるベンチに座ったの。『なんで?』と思った」
「隣に座ってくれなかったから?」
「ちげえわ! いきなり知らない子がベンチに座る自分の真隣に座って来たらそれはそれでこええだろっ……なんでこんな時間にここにいるんだろうな、っていうそこの『なんで?』だよ。俺は忌引きだからこんな時間にこんなところにいるけどさ、どうしてこの子は今こんなところに、ってな。学校をサボるような雰囲気の子にも見えなかったんだ、ちょっと暗めだけど真面目そうな表情で、真っ黒な髪をしててさ……まあそんなわけで、俺たちは知らない人間同士だからお互いに無関心にベンチに座ってた」
はあ、と冬真は息を吐き、吸った。
「そしたら、その子が泣き始めた」
「とーま……」
「冬真、何をした?」
「なんでお前ら二人そろって俺を疑いにかかるんだよ!? 何もしてねえよ! 一人で勝手に泣き始めたんだよ。俺だってそんときゃきょとんだったわ! 話進まねえからいちいち突っ込まないでくんねえかなあ!?」
ごめんごめん、と花蓮は笑い、延寿は微かに口元を緩ませる。
そんな二人を「たくよぉ……」と不満げに冬真は見やり、コホンと咳払いをして話を再開した。
「もちろんさ、何で泣いてんのか気になった。でも見ず知らずの人間が泣くに至るような理由を聞いてしまってもいいものかって思ったんだ。人が泣く理由なんて、ろくなものねえし……。でも気になって、その子をびっみょうに見てたんだ。まじまじと見るのも気持ちわりいだろうしさ。そしたらその子、ハンカチ持ってないみたいで、それでもどんどん泣き続けるもんだから、どんどん涙で手も服もぐっしゃぐしゃになっていって……俺、そのとき喪服着てたんだけどよ、ちょうどハンカチ持ってたんだ。真っ黒だけど。だから……思い切って聞いた」
「付き合ってください、って?」
「はええよ! いきなりそんなこと言うのはダメだろ! まだっ……いや、なんでもない」
「ほほう、『まだ』ときましたか」
「なんでもねえって! 静かに聞け! シャラアップ!」
「ノーウェイ」と花蓮はにんまり笑顔を向ける。
「それどういう意味だよ」
「やなこった、だよ」
「ハッ。相手してらんねえ。勝手に喋るわ……」
溜め息を吐き、冬真は話を続け始めた。
その様子を花蓮がにまにまと微笑ましそうに見つめ、延寿はといえば黙って静かに聞いていた。
「『ハンカチいりますか?』と聞いたんだ。そしたら『ごめんなさい』って。『隣でこんなに泣いてしまってごめんなさい』って言われた。だから全然気にしてないって俺答えた。本当に気にしてなかったしな。『気にしないでください』ってったら、まあ……素直に受け取ってもらえたよ」
その時の光景を思い出したのか、冬真の口元が照れたように綻んだ。
「嬉しかったんだね」
「ああ!? ちげえわ嬉しくねえわばーかっ! はいこれ以上お前と会話しねえ! 俺の過去エピ続けます! いいな由正!?」
急に許可を求められた延寿の「構わない」という返答に、冬真は「よしきた」と話の再開。
「それでちょっとしたらその子が泣き止んできたから俺、思い切って聞いてみたんだよ。『どうして泣いているんですか』って……」
そこで言葉を切り、冬真がはあと息を吐いた。その視線は街の向こう側、山々の稜線へ向いていた。遠くにはもう、夕焼けが落ち始めていた。
「空を見ると泣きたくなる、だってさ」
感傷的だ、と延寿はふと思った。そんなことを口にするような人間は夢見がちで、脆く儚げで、感傷的な人間だ。
「その子は元々身体が弱いみたいなんだ。先天性の心疾患、みたいなのもあってさ……よく分からないけど、そういうのってあんまり激しい運動とか、できないんだろ」
先天性の虚弱による、後天的な感傷癖。
花蓮はさすがに茶化すことができないのか、真剣な表情で冬真を見ていた。語りの奥にある身体の弱い少女を見ているのだろう。延寿はいつもの鉄仮面だった。そこには何の同情も見られない。
「だから満足に外で遊ぶこともできなくて、窓の枠に切り取られた空ばかり見ていた。成長して身体は頑丈にはなってきたものの、やっぱり他の人に比べたら遥かに弱いみたいでよ……これまでもそうだったし、これからもそうなんだって。空を飛ぶ鳥が羨ましいって言ってた。自由にあんなに気持ちの良い空を泳げて、どこまでも飛んでいけるって広がりを実感できて……てな具合に。その日だって、元々体調悪くて大事をとって休まされていたみたいだけど、勝手に制服に着替えて、勝手に出てきたみたいなんだわな。『だからもう帰らなきゃ』って……そのまま、帰って行ったさ。ハンカチを洗濯して返そうか迷っていたみたいだから、俺そのままもらうよ、って返してもらった」
遠い目で、冬真は取り直すように息を吐いた。
遠くを見つめて目を細めたその視線の先に映るのは、去りゆく少女の後姿なのだろうか。
「そんで帰り際、だ。『ありがとう』って微笑まれたんだ。『あなただって悲しいことがあったのに』ってさ。俺が喪服着てたから身内の不幸があったと察したんだろうよ。少しも悲しんでねえのにな、ハハハッ…………まあ、その笑顔に、そのさ、うん……あれしたんだよ、あれ」
「一目惚れ、と」
「…………。…………おう」
以上がことの経緯だ、と冬真は言葉を締めた。
歩く三人に、沈黙が満ちた。どのような言葉を返そうか花蓮は思案している様子だった。延寿は黙ったままだ。
その中で冬真がふと前方に広がる街を眺めやり、
「あーあ………………ふと思ったんだけど、この街さ。薄暗くなったっていうか……濃ゆくなったよな、色っていうか、暗さがっていうか……」
独り言のように呟く。
暗くなりゆく街。現在としても、比喩としても。
「まあ、今が今だし。今この街が明るく見えているのはガイドぐらいなんじゃない?」
「ほんと、恐ろしいよなあ……」
「そんなことはいいんだよ、それでそれで、とーまは、聞いたの? その子の名前」
「聞いたよ──桐江汐音さんだ」
「おー抜け目ないねー?」
「うるせえ」
「とーま、あたしがもさみに聞いといてやろうかー? もさみは一年だから、同じ学年の子で桐江汐音さんって知らない? ってさーあ?」
「…………いや、いいんだよ。いいんだ」
「つよがんなくていーのに」
「世界の広さを実感したがっている子に、俺がしてやれる何があるってんだよ」
「いっしょに何処かへ行ったりすりゃいいじゃんか」
「身体が弱いんだぞ」
「そこはきちんと気遣いながら、だよ。もしかして、とーまは汐音ちゃんに対してそんな気遣いを煩わしく思うぐらいの想いしかないのかな?」
「んなわけねえだろ……ねえよたぶん。まだ分かんねえし。分かんねえから、踏み出せねえんだ。なにせ一目惚れだ。相手に接して、思ってたよりもずっと冷めてる自分を見てしまうかもしれないのがこええんだよ」
「そんなこと言ってたら一生接点出来ないんじゃない?」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
「最初に言ったでしょ、もさみに聞いとこうかって」
「…………頼む」
「はーい。おまかせー」
ぴし、と砕けた敬礼をし、花蓮がにこりと真っ白な歯を見せる。そしてくるりと延寿を向くと、
「じゃーよっちん。よろしくね?」
そんなことを言った。
俺がなにをすべきなんだ、と延寿は視線で問い、
「なにをだ」
言葉でも訊ねた。
「もさみ」
「もさみ?」
「うん。明日、もさみ捕まえといて。あたしがよっちんのところに行くまでどんな方法でも良いからそこに居させといて。ちょっと図書室寄ってからだけど、すぐ行けると思うから」
「ああそういうことか。分かった」
延寿の明日に、もさみ確保というタスクが入った。
「ま、とーまなら大丈夫だとあたしは思うよ。とーまは見た目だけならモテそうだし」
「それ以外がまるでダメみたいな言い方すんじゃねえ」
「よっちんだって、もっと愛想よくすればモテると思うんだよなー」
花蓮はにひひと延寿を見つめ、ややあって。
「やっぱよっちんはモテなくてもいーかなー。よっちんを好きになってもあんまり報われなさそーだしぃ。相手の女の子がかわいそうだよねー」
と口早に言うと、すぐに誤魔化すようにえへへとはにかんだ。
「言われてんなー由正。花蓮も言いやがるわあ」
にやにやと。まるでこれまでの仕返しとばかりににやついて冬真が言う。
「ま、いいのいいのいいんだよどーだっていいのこの話は。それよりとーま、あれの進捗どーよ?」
「あれか。あれなあ……いやまあ、暇だったからそこそこ進んだけど」
「よきよき。その調子で頑張りたまえよ。きみは私たちの中で一番手先が器用な人間なのだから。図書室を彩る為には、きみのそのお裁縫の腕前が必要なのだよ」
「偉そうに。急かすぐらいなら自分で作れよ」
「人には向き不向きがあるの。とーまのお裁縫の腕、ほんとうにすごいからね」
満更でもなさそうに冬真はハッと鼻で笑う。
冬真の手先の器用さは自他ともに認められていた。
裁縫、ぬいぐるみ、フェルト……およそ手芸の分野に入るものならなんでもござれだった。母親の影響だ、と当の本人はバツが悪そうに言う。兄からは女々しいだの陰気だのと散々バカにされてきたらしく、それがまた兄弟間の仲の悪さに繋がっていた。
「まあ、ぬいぐるみに関しちゃ任しとけよ」
「うん。任せた。そのお礼に、あたしとよっちんでとーまの恋のキューピッドになるからね」
「……ふん。期待しないで待っとくわ」
胸を張る花蓮に、冬真が僅かに笑む。
延寿は二人のやり取りを見守り、三人はそのまま帰路に就いた。