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キミモ異世界イキタインデショ?  作者: 乃生一路
一章 旅人─Far away from here.─
21/166

から

 暗闇の底から這い上がろうとしているようだ。

 他人事のように、延寿はまずそのように感じた。


「────じゅ────」


 声が聞こえていた。

 叫びの断片だった。 


「──えんじ────!」


 目を開けた。

 灰色の瞳がすぐ目の前にあった。


「延寿!」


 伊織。沙花縞伊織だ。いつもパーカーをかぶり、自身の特異性をひた隠しにしている……。

 延寿は目と鼻の先にいる白髪灰眼の人物をそのように認めた。


「いお……り……」


 口の中が粘っこく、声が上手く発せられなかった。


「延寿っ……! 良かった。意識があった!」


 伊織が誰かへと叫ぶ。

 伊織以外に誰かいるようだった。

 場所は……変わらずの暗闇と、硬質の床。

 さっきまでいたビルの中、なのだろうか。

 辺りを見回す。無機質な部屋の中、天井から電灯の明かりが心細く振って来ていて、空の注射器が転がっていた。二本転がっていた。


「だ、大丈夫? 延寿くん」


 もう一人は、コツコツと音を響かせてすぐに駆け寄ってきた。

 

「はてわ……たり……」


 延寿の言葉は中断された。


「良かった。本当に良かった……!」


 言葉の最中に、思い切り抱き締められたからだった。

 もう一人である涯渡紗夜は涙をすら流し、延寿を抱き締めている。


「ずっと目をつぶったままだったから、心配だった……!」


 涯渡はそう言う。「救急車ももう私が呼んだわ。大丈夫。すぐに来るから。大丈夫だから」

 励ますように、そのような言葉を続けた。

 

「なにがどうなっているのか分かっていない表情だな」


 延寿の瞳を見下ろし、伊織が言う。

 口元には確かな安堵が窺えた。


「延寿、きみはクスリを飲まされ、更にはクスリを打たれたんだ。あそこにいる巌義麻梨──ずた袋女にね」


 顎で指す先へ視線をやると、執拗なまでに縄で胴体をぐるぐる巻きにされた巌義麻梨の姿があった。縄なんて何処に、という延寿の思考を表情から読んだのか、「この部屋の中に落ちてたんだよ」と紗夜が言う。「何の目的で置いてあったのか、考えたくもないけど」


「裸に直に縄を巻かれるなんて、さすがの私も今まで経験がありません」「うるさい黙れ」


 言葉を発した麻梨へ伊織が冷徹な眼差しを向け、強い命令口調で言うと、麻梨は黙「どうでしたか延寿さん。どうでしたか?」らなかった。「良かったでしょう? 素晴らしかったでしょう? 人生を対価に捧げても良いと思えるほどの絶景と快楽が得られましたでしょう?」「黙れって言ってるだろ!!」伊織が叫び、麻梨のもとへ近づく。


「待って伊織くん。暴力はいけないよ」


 涯渡が今にも蹴り飛ばそうとしている伊織を諫める。

 伊織は苛立たしい瞳で涯渡を一瞥すると、チッという舌打ちと共に大人しく麻梨から離れた。麻梨はその様子を悪びれもせず他人事のように眺めていた。

 

「……まあいい。まあいいさ。延寿は目を覚ました。ずた袋女は捕まえた。これでWWDW(クスリ)はもう出回らない。ひとまずこれからは街中でラリッた馬鹿を見ずに済む」


 自らを落ち着けるように口早に伊織が言う。


「伊織くん、でしたか。あなたは中々思考が短絡していますね」


 慇懃無礼な麻梨の言葉に、伊織は不愉快そうに眉を顰めた。

 ずんずんと麻梨へ近寄り、屈んでその髪を引っ掴んだ。


「なあお前、ずいぶんとお喋りが好きみたいだな。無理やり黙らせてやろうか?」


「伊織くん」涯渡が窘める。「分かってるよ」乱暴に伊織は言葉を返し、麻梨の髪を離した。「分かってる。こいつの言葉は端から無価値だ」


「そんな怖い顔をしないでほしいです。少し確認しただけなのに。私が旅人候補の皆様に渡しているチケットをいったい何処から持ってきているかについて考えが及んでいないようでしたから」

「……お前が作っているんじゃないのか」

「私のような一介の高校生に、人の頭脳を破壊する麻薬をどう作れと? 製法なんて知りませんよ。誰が作っているのかも知りません。届くだけです」


 届くだけ、と麻梨は言う。

 その会話を聞いていた延寿は公衆トイレにいたもう一人のずた袋女を思い浮かべた。

 巌義麻梨の裏には誰かがいる。当の巌義自身はそれを知らず、ただ仲介人として動いていただけだった。ならば、あのトイレにいた女だろうか。あの女が、元凶か。だが元凶だったとしても、あのとき女はガイドに首を刎ねられた……人間が、首を刎ねられて生きているはずがない。


「それはどこに届くんだよ?」


 会話は続いていく。

 聞き洩らさぬように、延寿は黙り聞いていた。


「私のスマホにメッセージが届くのです。何時何分何秒に何処どこの場所にこのような入れ物にいれて置いておく。必要か不要かだけを返せ──という旨のメッセージが」

「あなたのスマホ、見させてもらうよ」


 紗夜の言葉に、麻梨は「私の服のポケットに入っていますよ」と素直な返答。「ロックはかけていません。『NEST』のアプリを起動すれば、その相手も登録してあります。あてにはならないでしょうが」


 紗夜と伊織が綺麗に畳まれていた麻梨の服を漁り、スマートフォンを取り出し、スリープを解除していた。


「俺にも見させてくれ」


 延寿が言う。舌は回り始めてきた。意識もはっきりとしてきた。


「大人しく寝てろよ、と言いたいところだけど……仕方ないな。お前はことの被害者だものな。知る権利があるし」


 伊織が苦笑を浮かべて肩を竦めると、延寿の傍へとやってきてぺたんと床に座った。紗夜もまた二人の傍に膝をついている。


 伊織の華奢で白い手がスマートフォンの画面を操作していき、『NEST』と記された簡素なアイコンをタップした。画面に『NEST』という文字が表示され、アプリが起動する。

 個人の名前や企業名が並んでいるトークルームの中に、『女神』という名称があった。


「まさか、これか」


 あのずた袋女は、女神、と呼んで欲しがっていた。


「それだ」


 延寿は言う。「神を自称するなんて、ずいぶんと図に乗ったヤツだな」伊織が悪態を吐き、トークの履歴を表示した。そこには麻梨の言葉通りの、細かい日時と場所と入れ物が明示してあり、『必要? 不要?』という疑問がいずれの文末にもあった。


「重要な証拠だよ。この履歴が残っていれば、発信した人間もきっと分かる」

「そういうものなの?」


 伊織の言葉に、紗夜が尋ねる。「僕には無理だけど、警察なら特定できるさ」と伊織。


「それはあなた達にあげますよ。存分にお役に立ててください」


 麻梨が言う。薄笑いを浮かべていた。余裕のある笑みだ。

 事態にまるでまだ逆転が残っていると信じているかのような……あるいは、ただ全てを諦めているだけだろうか。どちらともつかなかった。


「お前の許可がなくとも勝手に持っていくつもりだったよ」


 伊織が冷たい一瞥をし、吐き捨てる。


「それ、私が持っててもいいかな?」


 麻梨のスマホを指し、紗夜が言う。「別にいいよ」と伊織は答えると、そのまま紗夜へ手渡した。「ありがと」受け取り、紗夜はそれを自らの服のポケットの中に入れた。


「……そろそろ、ここを出る用意をしよう。救急車ももう来るはずだから」

「にしては随分と遅いな。本当に呼んだのか」


 伊織のぶっきらぼうな問いに、紗夜は「呼んだよ」と単調に返していた。

 

「延寿くん。どう? もしも身体が動きそうならね……その、ね……」


 紗夜が気まずそうに頬を赤らめ、視線を泳がせた。


「さっき普通に抱き着いてたくせになんだよ今さら」


 伊織がつまらなそうに言うと、延寿の方を向き、「服着ろってことだよ。けど無理はしなくていいからな。無理なら無理って言えよ。僕が手伝ってやる」と灰色の瞳に微かな笑みを含んだ。


 自覚はしていたが、延寿は裸だった。

 横たわる身体の上には伊織が羽織っていた小さな黒いパーカーがかけられているのみだった。


「大丈夫だ。動く」


 延寿が答えると、


「それなら……はい」


 紗夜が顔を背けつつ、延寿が着用していた衣類を手渡した。綺麗に畳まれていた。

 未だ気だるさの残る手足を動かし、延寿は服を着終わった。その間紗夜は顔を背け、伊織は「ガタイ良いな、お前」と感心したように眺め、麻梨が薄笑いを浮かべていた。


 立ち上がると若干ふらついたものの、歩けないことはなかった。

 延寿の身体にかけられていたパーカーを伊織は羽織ると、


「倒れそうになったら僕の方へ寄りかかれよ。支えるからさ」


 延寿の傍へと近寄り、そう言った。


「大丈夫なのか。きみの身体では俺といっしょに倒れそうに思うが」

「よし分かった。お前がふらついても僕は助けない。勝手に倒れて頭を打って気絶しろ」


 いじけた声音だった。


「まあまあ伊織くん。今のは延寿くんの言い方が悪いけど、心配しているだけだよ」


 紗夜の言葉に「分かってる。イラっときただけ」と伊織はハアとため息を吐いた。「延寿、お前ももう少し言葉を選べよ」と延寿をジト目で見上げた。「そんなだと敵が増えるだけだぞ」


「……すまない。感謝の気持ちはあるんだ。きみにも、会長にも」


 延寿は言うと、伊織は「べ、別に気にしてはいない。どうだっていいんだよ結局のところはっ」と言ってそっぽを向いた。「気にしないで」と紗夜は笑った。

 

「……」


 延寿はふと、背後を向いた。

 麻梨がこちらを見つめ続けていた。

 薄い笑みだった。彼女の笑みはいつも薄い。


「……巌義麻梨」


 足を止め、延寿が言う。

 傍にいた二人もまた、歩みを止めた。


 少し、疑問に思ったことがあった。


「きみはなぜ、クスリに手を出したんだ」


 だから尋ねた。


「旅人になりたかったのです」


 さっきも彼女はそう言っていた。

 旅人になりたかった。ここから遠く離れた場所へ行きたかった。

 なぜだ、と思った。

 イセカイに手を出したのが旅人になりたかったのなら。

 ならばなぜ、彼女は旅人になりたかったのか。


「それは、誰かが保証してくれていたのか。WWDWを使ったら旅人に為れるのだと、きみに言ったのか」

「延寿さん……延寿さん? ふふ」


 延寿の問いには答えず、麻梨はやはり薄笑った。


「それが破滅へ向かうと分かり切っている選択肢だとしても、時と場合次第では、途方もなく魅力的な提案に見えてくるものなんですよ」

「……きみの身に何かあったのか」


 無遠慮だとしても、それが彼女の心の傷に触れる問いとなるかもしれないと分かっていても、延寿は麻梨へと尋ねた。  

 心の傷が歪みの原因ならば、是正の為にはそれを知る必要があると考えていた。たとえそれが相手の心の傷を掴み広げる行為だったとしても。それが彼の正しさだった。冷たく人間味のない、あくまでも主観的な本質だった。


「いいえ、なにも。何も。何も。なさ過ぎたんです。私には何もなさ過ぎた。なにも起こらな過ぎた。平和な日々に、優しい家族。良い友人に、充実した毎日、目の前に続いているのは両親の病院を継ぎ、婿をとるというレール──ああまったく。まったくなんて素晴らしい現実でしょうか。私は飽き飽きしていました。退屈で退屈でしょうがなかった。このままこんな日々が続くと考えると、恐ろしくて仕方がなかった。平穏と安定が私の精神を削り続けました。幸せな、幸せな日々、なんて幸せな日々……」


 贅沢なヤツだ、と伊織の小さな毒吐きが聞こえた。


「イセカイを初めて飲んだとき、私は大きな衝撃を受けました。世界が塗り替えられたのです。そして塗り替えられる一瞬の刹那、私の物語が白紙に戻った実感がありました。真っ白な頁に、幻想の絵筆が色彩を描き始めました。それが。それがとても鮮やかで、とても綺麗で……停滞何てどこにもなくて、私の恐れていた平穏も安定も消え失せて……本当に、ただ、綺麗で……灰色なんてなくて、無彩なんてなくて……私の眼の前には、あの子の笑みが蘇って……」


 延寿を含めた三人は、個人差はあれど微かな驚きを見せた。

 

「私は旅人になりたかった。長い旅に出たあの子のように」


 麻梨の薄笑いが消えていた。

 ぐずるように表情を歪め、両の瞳からは涙すら落ちていた。広い世界を夢見る瞳は燻っていた。何が燃えているのだろうか。願望か、狂気か。


「今ではないどこかへ。ここではない遥か遠くへ行きたかった。それが叶ったのだと思うと……私は、今までにないくらいに満たされる自分を知りました」


 それが彼女の本心なのだ。

 常人ならば願う平穏と安寧を恐れた。

 常人ならば厭う破滅と崩壊を欲した。


「ある澄み渡って晴れた日に、草原に佇む一本の樹の影に眠る心地を体験できます。街中で目覚め、道行く人々と理解不能な会話をすることだってできる。巨大な樹の根元の穴倉を覗くことも、幻想的なカーテンが揺らめく雪原で大の字になることも、ピンク色のクリームを吹き出す火口で甘味に塗れることだってできる。世界が再創造されるのです。私の認識する退屈な現実は瓦解し、旅先の光景が次々と現れて体験できるのです。私はそれが楽しかった。本当に本当に楽しかった。周りの人にも望む人はいました。だから分け与えました。みんなで楽しい旅の最中、理性なんて放り捨てて肉体的な快楽を貪りました。なにもかもが楽しかった。すべてが新鮮だった」


 落涙し、麻梨が幻覚から得た感動を語る。

「イカれてる」と伊織が呟いた。延寿は無言に同意した。イカれている。すっかりと彼女は歪んでしまっている。


「きみは間違っている」

 

 延寿ははっきりと言い切った。

 間違っている。そう、間違っているのだ。

 現実を捨て幻覚を見る。平穏を捨てて破滅に走る。

 周囲を巻き込む。薬物で崩壊を誘う。彼女は全てが間違っている。正しくない。正しい人間の行いじゃない。


「ふふ、延寿さん? あなたの押しつけがましいその正しさ、私は────大嫌い、です」


 麻梨は言う。薄笑いに戻っていた。


「法の下に裁かれ、是正しなければならない」

「ふふふふふ、偉そうなことを言って。私に犯されたくせに♥」


 ぶん殴ろうか、と云う伊織を、「待って」と紗夜が抑えた。彼女の表情もまた、不愉快の色が濃かった。


「……きみに是正の意志がなくとも、俺がきみを逃がさない」

「なんです? 延寿さんは私の人生に責任を持ってくれるのですか?」

「きみは正しさを求めなければならない。その歪んだ現実への認識を正し、真っ当な日々を歩めるように矯正されるべきだ。きみは尋常の人々とはズレている」

「そんなことばかり言うからあなたは嫌われるんですよ。あなたの正しさは、それはあなただけの正しさなのでしょうし。人には個々の軸があるんですよ。それを矯正しろと強制されて愉快に思う人がいるわけないじゃないですか──言ってしまえば良いんですよ延寿さん。そんな嘘で包んだ言葉ではなくあなたの本心を」

「……何をだ?」


 ひと際、麻梨の口の端が吊り上げられた。


「俺を無理やり犯して童貞を奪ったお前が憎くてたまらないんだ、って!」 


 嘲りの笑みだった。

 

「お前ッ──!!」


 伊織が激高する。「ま、待って伊織くん」「待てるか! あいつ、あの女、人をバカにしているんだぞ!? おい延寿!! お前も怒れよ! なんで黙って言われるがままなんだよ!!」


 今にも麻梨の顔を蹴り飛ばそうとする伊織の両肩に、延寿はそっと手を置いた。


「延寿!」

「すまない伊織。落ち着いていてほしい。俺の為に怒ってくれるのは嬉しく思うが」

「おま、ちょっ……!」 


 ぷんぷんの伊織を呆気なくどかし。

 延寿は嘲笑う麻梨の傍へ屈んだ。


「悪いが、きみの推測は誤りだ」

「それはなぜです?」

「怒るべきなのだろうけど、怒りが湧かない」

「ふふふふふ!」


 より一層、麻梨は笑った。薄笑いではない、彼女の真実の笑みだった。それほどまでに今、延寿は愉快なことを言ってのけたのだ。


「延寿さん、今の私の言葉はですね──真っ当で正しい人間なら、まず間違いなく怒りを抱く言葉なんですよ? それをあなたは怒りを覚えないと言った。確かに言いましたっ。それはつまり、延寿さんは今、自分自身を正しくない人間呼ばわりしたも同然なんです。他人に正しさを矯正するあなたが、ですよ。あなたは今自己否定したんですよ! やはりあなたは私と同類なんです! 私と同じ、正しくない側の人間なんです!」

「……だから、どうした?」

「へ……?」


 延寿の言葉に、麻梨の言葉が点になった。

 確かに今自分は相手に痛恨の言葉を放ったのに、少しも気にした様子がない反応に虚を衝かれたとばかりに。


「俺は常に正しくあろうとしている。あろうとしているんだ。俺は俺を自覚している。なろうとしているということはつまりはそうでないというのを自覚している。それでも俺は目指すんだ。どうやってでも正しさの人間であろうとしている──きみにも、俺と同じように努力してほしいだけだよ。己を是正し歪みを正すことは、万人が心得るべき生の一義的目標だ」

「……延寿さん。あなた、私が思っていたよりもずっと頭がおかしいです」

「きみに出来ない筈はない。きみのその破滅的思想を、今すぐにでも是正する努力を始めるよう勧める」


 なおも続いている麻梨の薄笑いに、苦笑が微かに混じった。


「たぶん、延寿さんは一生正しくなれませんよ」

「例えそれが事実だろうと、目指す妨げとはならない」

「……頭のおかしいあなたがまともになろうと努力しているのだから、私にも同じ努力をしろと言うんですか。自分勝手すぎませんか」

「正しさこそ最たる目標だ」


 延寿が言うと、麻梨は……「ぷっ」吹き出し、「あはははっ」笑い出した。年相応の少女の笑顔だった。


「分かりました。分かりましたよ。あたまのおかしな延寿さんがそう言うのなら、それならご褒美くれたら努力だけはしてみてあげますよ」


 ご褒美と言われ、延寿は頭に疑問符を浮かべた。なんでそんなものを、と思った。


「オカミス同好会への招待とか、どうだろう。きみのような変人を獅子舘会長は歓迎してくれる。会の人数を増やせという指示にも応えられる」

「魅力的な提案ではありません。捕まってしまえば私は犯罪者として数えられるでしょうからその権利を行使できるかも定かではありませんし」


 ばっさりと言われた。「けれど、理由として使うだけの価値は見ました」


「延寿さん、私があなたに好意を持つのは、きっとあなたの頭がおかしいから親近感が湧くためなのだと確信しました。そんな頭のおかしなあなたが正しくなってしまえば、私だけ頭のおかしいままではあなたに好意を持つ理由がなくなってしまいます。だからそうなってしまわないように、頭のおかしなあなたがおかしくなくなると同時に、私も正しくなれるように努力をしちゃいます」


 麻梨は言う。笑い、言う。

 

「好きなままでい続けたいほどには、私はあなたに興味があるのです」


 そして。


「────ですが、すみません延寿さん」


 そして麻梨は。


「警察にはちょっと、捕まりたくないんですよ。だって独房の中って窮屈そうで、旅とはかけ離れていますし──ごめんなさい。だって今の私はまだ頭のおかしな私ですから」


 彼女が言い切る──瞬間。

 刹那とも云える極々短い時間に、麻梨の視線が自身から外されるのを延寿は見た。

 そして、見たと覚えた殆ど同時に。

  

 ブツン、と室内の電灯が一斉に消えた。


「────!?」


 採光窓すらない室内は完全な闇に包まれた。

 明るさに慣れていた延寿の視界は一切を映さなくなった。


「て、停電か!?」


 すぐ真後ろから伊織の声が聞こえた。そっと背中に当てられる手の感触があった。声の位置から伊織だと延寿は考えた。驚きのあまり思わず近くにいた延寿に触れてきたのだろう。


「きゃあっ!」

 

 叫び声が少し遠くで聞こえた。

 紗夜の声だった。


「な、なに、なんなのさっ!?」


 伊織の戸惑う声。やはり間近だ。


「い、今、誰かが身体を触って、ポケットに手を突っ込んできて、スマホがっ、それに押してきてっ……!」

「誰かにって、誰にだよっ!」

「分からないけど……!」


 声と声が絡み合い反響する。

 延寿の視界にはやはり何も映らない。


 ふと、そよ風が頬に触れた。

 触れたと思ったとき────


 タッタッタッタ、と誰かがすぐ傍から駆け出していき。

 ガチャリ、という音がし、すぐにバタンと何かが閉まった。


「今度はなんだよ!? もーっ!!」


 伊織の声。とても近い。


「え、延寿、どこだっ……てお前はここか。それなら涯渡さんはっ」

「わ、私は、ここだよっ」


 紗夜の声はやはり少し離れていた。


「そこだなっ。もう本当に何なんだよ暗いし何も見えないし──いや、そうだ! スマホだ、スマホがあった!」


 言うや否や伊織は自らのスマートフォンを取り出した。

 心もとない光りが伊織の顔を照らし出す。「ライトをオンにして、っと」カメラから光が照射され、より明るくなった。

 延寿の視界にスマートフォンで照らされた伊織と、同じくライトをオンにした紗夜の姿が映った。けれども──。


「に、が、し、たぁ……!!」


 ライトに照らされた場所に、巌義麻梨の姿は既になかった。

 すっぱりと縦に切られた縄のみが落ちていた。


「クソっ! あのガンギマリ女あああああああああああああああ!!」


 伊織のブチ切れた叫びが響いた。

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