イセカイ幻覚
ちくりと腕に痛みを感じた。やけに長引く痛みだった。
見ると、拳ほどの大きさのミツバチが止まっていた。尻の針を懸命に俺の腕に刺し、払おうとする間もなく力尽きてぽとりと地面に落ち、ひとりでにパキリと真っ二つになった。
真夏日だった。
少し歩けば汗がすぐに噴き出てくるほどの暑さだった。
俺は彼女(それは彼女だったか? それは果たして他人だったのか?)の別荘に遊びに来ていた。陸地に広がる森の、その奥まったところに樹々に囲まれた広場があり、ど真ん中にその洋館は立っていた。辺りには波の音が響き渡り、俺に割り当てられた個室からは海が見えた。入口を開け放たれている(常に、俺はそうしていた。)鳥かごが部屋に設けられ、その中から一羽の真っ白な小鳥が陽気に、楽しく、歌う声が聞こえる。机の上には乱雑に置かれた資料の類(なんだこれは?)、ああ、窓の外にはエメラルドグリーンの海があった。テラスに出れば、眼下に波が砕ける様が見えたのだ。
「小さなころに仲良くしていた子がいてですね、ある日を境に遊べなくなったんです」
冬の寒さが満ちる凍えるような室内で、暖炉に燃え盛る炎を眺める彼女が、思い出したようにそう語り始めた。
「お母さんとお父さんは、私に、その子は長い旅に出たんだよ、と言ってくれました。神様に愛されたあの子は、だからこそ神様が連れて行ってしまったんだって。私はその話を素直に信じました。そして神様が嫌いになりました。今思えばその言葉が嘘だとすぐに分かります。ですがそのころの私は意味が解っていませんでした。だから旅に出たと言われれば、神様が連れて行ってしまったのだと云われれば、すぐに信じたんです」
彼女が身を寄せてくる。
二つ結びの黒髪のもと、泣きぼくろの目立つ双眸で俺を見上げる。
「あの子は旅に出ました。だから私も、遅れてあの子を追いかけようと思っていました」
暗い茶色のボブのもと、黒く塗りつぶされた瞳が灰色へと変化し、怒りに燃えた視線が俺を刺し貫く。責められている。俺の罪を糾弾するように、俺の過去に堪え切れない怒りを見せ、笑顔を浮かべている。そうしてまた、暗い茶色の彼女が、手はだらんと茫然と、虚ろな視線で俺を見下ろし──悲しまないでくれ悔やまないでくれ泣かなくともいい恐れる必要はない自分を責めてはいけないきみの行いは正しい、きみがしたことは正しい、きみは正しく俺を罰した! 感謝を謝辞を、愚劣な俺如きを止めてくれたきみへ心の底から!!!
「良い旅にしましょうね」
大きな大きな草原で、どこまでもどこまでも緑が続いている。地平線の向こう側は青色だった。風が吹き抜けていく。ざああと草の波ができる。巨大な樹の陰で、彼女は──一糸纏わぬ彼女が、彼女ほどの大きさの白蛇が身を捩じらせ執拗なほどに蛇腹をこすりつけてくる。婉曲なカーブを描く白蛇の身体が拡大縮小を繰り返す。太ももに巻き付いてきて、縦長の瞳孔がすぐ目の前まできて、ちろりと出された赤い舌が俺の唇を舐めていった。
おいおい旅人さん。こんなところで盛ってるのかい?
おいおい旅人さん、こんなところで盛ってるのかい?
道行く人が俺たちを見、苦笑交じりにそう言った。二重に聞こえる音は視覚の中にまでやってきて浸食して文字として俺の視界に映り込んだ。音に合わせて同心円の波が視野の中でリズミカルに踊っている。レンガ造りのような家が立ち並ぶ通りのど真ん中で、晒しものだった。いや、進んで望んで晒しものになったのだ。好奇の目が次々と俺を刺していく。 違う! 違う違う違う!! こんなも、こんなもの、正しくなッい……!!!!
「ど け よ」
自分の声がひどく間延びして聞こえた。
エコーがかかってブラーがかかって響いてぼかされて文字が何故視覚的に視えるのか不思議なものだ。なぜ自分が彼女を白蛇を認識彼女が白蛇拒絶しようとしているのかも曖昧で不可思議で「ふ……あ」太ももに感じる非人間的な蛇皮と聞こえる微かな人間的な呻き声。「延寿、さ……!」白蛇に名を呼ばれる。縋るような声だ。甘えるような声だ。身体全体でしなだれかかってきて、先ほどからずっと体温を感じる。冷ややかな蛇の身体に似つかわしくない、人肌の温もりに、俺たちを見る街の人々が喝采をあげた。ふうううううううう!! いいよいいよ! 蛇好きなのかな!? 蛇淫だ! ナイススケベ! 黙っていろよ……! 何がナイススケベだ! 「どけ。いわ よ し」やはりの間延び。「麻梨……が、良いです。麻梨じゃなきゃやですっ……!」白蛇が身体をより密着させ巻き付けてくる。俺の背中へ、腕へ、脚へ、身体全体に巻き付いてくる。蛇皮がこすりつけられ、赤い舌がまたもや俺の口を舐めていく不愉快な感触。顔、蛇の顔。蛇の眼。縦長の爬虫類の瞳孔。俺を見つめる。ぱかりと口を開け、毒牙が見える。身体の身動きが取れない。牙が俺の口内に侵入し、舌に痛みが走った。貪るように蛆が這う様な感触を口内に覚えた。不愉快であり心地よく気色悪い。辺りは雪が降っていた。遠く急峻な山肌を滑り落ちていくのは滑落者だ。岩にぶつかり散り散りバラバラ「赤」色を「まき散らし」音。視覚が今度は聴覚に干渉して聞こえる。「もう。延寿さんはもう。もうもうもう」牛のように白蛇は憤慨している。興奮している様子だった。蛇も彼女もクスリを「も」ならば俺もクスリをしかしなぜ誰がそれを「ふふふふふふふ」笑む。二つの蛇の瞳が俺を真っ直ぐ見つめそして「延寿さん。きっと初めてですよね? そうですよね?」そのまま溶けてしまおうとばかりに「正しい正しいあなたの初めては、正しくない正しくないオクスリによるレイプです、ふふふふ」強く強く強く強く強く強く身体を巻き付け全身を重点的に俺の全身を「ま て」────呑み込まれた。よくやった! よくやった! ご卒業おめでとう!! ご卒業おめでッとうッッッ!!! コンぐらっちゅ隷書ん!! きみこそ真の蛇婚だ! 歓声。民衆の歓声。皆殺しにしたい気分で周囲を眺めまわすと、皆が感涙し、一斉に弾け飛び血霧となった。死ねと願ったから死んだのだろうと確信できた。死んでよかったとも思う。いや違う。ただ一人。ただ一人だけが死んでいない。冷たい瞳で俺を見ている。刺し貫くような瞳で俺を。何でそんな目で俺を見る? きみは何様だ? 今すぐ、今すぐ、死、ね、じゃない。この。これは。幻覚。ゲンカク。ふ、ざ、け、ル、ナ……!!!!!
「巌義!」
「ひん」
声が通る。
怯んだ白蛇はなおも身体を密着させてぎりぎりと離れない。白蛇の顔は獣みたいに表情を歪ませ、普段の端整な表情と涼しげな目つきが快楽とも苦痛ともつかない醜い表情へと変わり果てて更には涎までも垂らしている。絞め殺したい程に不細工な顔貌だっ た じゃない。「止めろ。今すぐ離れろ」「離れて、ほしいの、なら、離せば、っ、いいじゃ、ない、です、かぁ」声が甘ったるい。耳障りだ。なん、でこんな暴力的な、思考に。理性を。理性を理性を理性を正しさを俺の正しさ信じている正しさを離してはいけない。「手が動かないんだ」「動かない、はず、あり、ぉ、ません」「だが動かない」蛇皮が強く強く俺の皮膚に主張する。「いいから離れろ!」「やです! もう、すぐ、です、もの」手が動かない。本当に動かないのだ。むず痒くなってくる。なにより憎く殺意を抱くのは俺だ。確かに現在に幸福と快楽を感じている俺自身だ。「私、延寿、さん、の、こと、が、ずっ、ぅと、気に、なってて」手が動く。「ヒ、ト、ゴ、ロ、シ、の、あ、な、た、を」動く! 「は、 な、 れ、 ろ」「エンジュ。キミはやっぱり……!」死んでいない一人がずっといる一人が瞳を「キラキラ」と輝かせて、る、が、関係ない! 今は、こいつを、彼女を、「俺、から……! 離れろ!!!」白蛇の両肩に手を置き掴み、思い切り引き剥がした。「いッ……つ」ばたりと床の上に白蛇は投げ出された。
「はあ……はあっ……!」
息が途端に荒くなる。思い出したように疲労感がこみ上げてくる。
白蛇は人の姿と認識できた。元から人間だったのだ。巌義は失神したのか放心したのか、床の上に倒れて振り乱した髪を散漫させ肩で息をしている。意識はない。だが死んではいない。はず。床の上。そして床の上だ。ここは、ビルの。そう、ビルの! ビルの地下の一室! 先ほどまでのは全てが、幻覚だ!
「よく、頑張ったね。ガンギマリ女の誘惑によく耐えた」
声。巌義は目の前で相変わらず動かない。では誰の声?
「だしてないからセーフだよ。もしもだしてたら、 ……ワタシはアナタを許しきれなかった」
「なにが あ゛ 」
ガツンと再び後頭部に衝撃が。
また。意識が。




