られず
虚から目覚めると、ずた袋が目の前にいた。
後頭部に柔らかな感触がある。何かを枕に、仰向けになっているようだった。背中全体に硬質な感触があった。どこか、人工的な床の上に寝ている。
公園には床張りはされていなかった。
(なら、ここはどこだ?)
目の前にはやはり、穴を三つ空けたずた袋。
薄暗さを背景に、黙して見下ろされている。
「……巌義、か」
延寿は小さく問う。そうでなかったらどうしたものか、と考えていた。
「はい」
はい、だった。巌義麻梨その人らしい。
現状として、何処か人工的な部屋の中で彼女に膝枕をされている。何故だかずた袋をかぶってはいるが、まあ茶目っ気の一つなのだろうと延寿は把握した。こんな事態の中で茶目っ気を出されても困るけれども。
「延寿さんはガイドに……あれはきっと、スタンガンでしょうね。バチリとすっごい閃光が見えましたから。それで意識を失っている間に、あのずた袋の人の上と下と、真っ黒のスポーツバッグを持っていかれてしまいました……止めようとすら、私には出来ませんでした。怖くて……すみません」
「仕方ない。ガイドは異常だ。太刀打ちできる相手じゃなかった」
ずた袋の穴の奥の瞳が、依然として延寿を見下ろしている。
「ガイドは、人間なのでしょうか」
「人間であってほしいが……自信がなくなってきた」
「延寿さんでも自信を無くすんですね」
くすくすと、ずた袋が微笑む。「いつも自信たっぷりに見えるのに」
「……俺も、人間なんだ」
「知っていますよ。私も延寿さんも人間です。ガイドに運悪く遭遇して運良く生き延びた……運が悪いか良いのか分からない二人の人間です」
笑っているのだろうけれど、ずた袋をかぶっているために麻梨の表情の仔細が延寿には分からなかった。
そもそもなぜ、巌義麻梨は今ずた袋をかぶっているのだろう。
さきほど過ぎたはずの疑問が再び延寿の脳裏に現われた。
そしてもう一つ。
「ここは、どこだ」
場所である。
さっきいた公園ではなかった。
視線を周囲に巡らせる。麻梨と自身がいるこの場所だけ電灯に照らされており、あとは暗闇だった。空間としてはそこそこの広さらしい。ひんやりと身を包む冷たさがあった。
「大丈夫です。安全な場所ですよ。避難してきたんです。ガイドに出会って延寿さんが気絶させられてしまって、さらに不審者と遭遇してしまうといけませんから──それより延寿さん、喉渇きませんか?」
麻梨が言った。
「ああ……確かに」
喉の渇きはあった。
「はい。延寿さんの分の水です……飲ませてあげましょうか?」
「いや、いい。自分で飲める」
延寿は身体を起こし、「ありがとう」と差し出されたボトルを受け取った。飲みかけの水だった。喉の渇きのままに、延寿はボトルの中の水を素直に飲み干した。無味だった。麻梨はなおもずた袋をかぶっていた。
「この場所、秘密基地なんです。私の、秘密基地。お父さんが所有しているビルの、地下です。あの公園からもそんなに遠くありません」
「よく俺を運べたな」
「頑張りましたっ」
ぬん、と力こぶをつくるポーズを彼女がとる。ずた袋の奥に笑みを空想した。
「私のお父さん……産婦人科医なんですよ。お母さんはそこの病院の看護師さんです」
「そうなのか。初めて聞いた」
「はい。初めて言いましたから。場所は繁華街から少し外れたところです。名前は単純、『月ヶ峰産婦人科医院』です」
「ああ。知ってる」
月ヶ峰産婦人科医院。
そこは延寿の産まれた場所でもあった。ふとした昔話の際に、母親にそう聞いた。
「もともとはお母さんのお父さんが医院長をしていました。そこへお父さんが婿に入り、跡を継いだわけです」
「へえ」
巌義麻梨は医院の娘だった。
病院を営んでいる者の娘とはどういう環境なのか、延寿には見当がつかなかった。
「……話は変わりますが、延寿さん。うちの高校は不純異性交遊が禁止されていますね」
「されているな」
「男女交際までは禁止されていないのがせめてもの救いですが……延寿さんは、不純な交友が禁止されているから、みんなそんな行為は一切していないと思っていますか?」
麻梨の問いかけに、
「思っていないよ」
延寿は率直に本心を言った。
「それを聞いて安心しました。延寿さんの頭がお花畑ではないと知れました」
ずた袋の奥には今、笑みがあるのだろうか。延寿はそんなことを思った。
「規則だからと抑制しても、人間、そう簡単に『はいそうですか』と従ってはくれません。不純異性交遊だってそうです。隠れて付き合っている方々はたくさんいます──私たちのように」
「事実に沿っていない」
「はいすみません。最後の言葉は嘘です。はい。延寿さんの訂正の早さにちょっとだけむかっとしました」
言葉の内容的に不機嫌そうな表情を浮かべているのだろうが、延寿には見えなかった。ずた袋のせいだ。
「カップルの交際の過程にはセックスがあります」
「……ああ」
「セックスにはゴムが伴います。いわゆる近藤さんの夢ですね。近藤'sドリームです。それは常にであるのだと、延寿さんはそう思いますか?」
「……そうだな」
「はいざんねん不正解っ。それは延寿さんの認識の間違いでーすっ」
身を寄せてきた麻梨の指が、延寿の額にペケをなぞった。ずた袋の奥に見える瞳が笑っていた。
「燃え上がる性欲と勢いは、ゴム不要説を何故だか打ち出すのです」
「……理性的ではない」
「性欲なんてそんなものです。本能に従って獣のように腰を振るんです。避妊を行わないということは、そのときの状況次第ではデキます」
「だな……」
「高校生の妊娠は、世間的に冷たく見られます」
「ああ」
「なら、手段の一つとしてあるのは中絶です」
「……」
「月ヶ峰産婦人科医院は、そんな高校生たちへ救いの手を差し伸べます。この頃はWWDWというお手軽に手に入るおクスリもありまして、より一層、避妊を行わないカップルも出てくることでしょうね。カップル以前の関係性でも、その場限りで致しましてデキる可能性だって大いにある。彼らは旅先のテンションで盛り、命を生み出すのです。神秘的ですね。神秘的で──幻滅してしまうほど平凡です」
彼女はどうしてそんな話を俺にするのか。延寿は考えていた。
この彼女の秘密基地とやらのビルの地下の一室で。
寒々しく暗いこの部屋の中で、俺を相手にして。なぜそのような話をするのか。
ちり、と嫌な予感が脳を過ぎた。
「だから延寿さんも、もしも彼女さんができて、もしも『今日は大丈夫な日だから』という言葉に騙されて中に出してしまって。もしも彼女さんがデキてしまっても……遠慮なくお申し付けくださいね。お金は頂きますが、処置は確実です。同意書も、必ずしも両者から頂くわけではないスタンスでしているんです。事情は色々とあるでしょうから」
ずた袋の穴そのものがにんまりと歪んだ。
笑ったのだ。ずた袋に空けられた穴の奥の瞳ではなく、穴そのものが。あり得ない話だ、と延寿は思った。頭の中がボーっとしているような気がした。気のせいだろうか、と思った。
「或吾高校の人間も、何人か知っていますよ。みんな女子生徒です。どうしようどうしよう、と悩んでいるところへ、私が逃げ道を示しました」
「……クスリをやっていたのか」
頭の中が急激に冴えてきていた。気のせいだろうか、と思う。気のせいかもしれない。今ならどんな難問だろうと解ける。それほどには冴えている。今ならどんな問題でも、どんな賢人の知恵だろうと難なく手が届くはずだ。それ以上にだっていける。そうに違いない。そうに「っ……」「延寿さん、どうされましたか?」「いや……」なんだ、今の、全能感は。気分の、高揚は。
「必ずしもクスリだけとは限りませんよ。もっとも、これから増えるかもしれませんが。クスリで、イセカイのように新しく賑やかな感触を頭に刻み込める、WWDWで」
ずた袋の穴が笑っている。とても魅力的な笑みだ。今すぐ抱き締めたところで、彼女は一切の拒絶をしないだろうことは確信している。それができる人間なのだと、俺は俺を認めている。「ッ……!!」「延寿さん?」「なんでも、ない……」おかしい。明らかにおかしい。思考がやけに高揚している。ずた袋の穴だってそうだ。笑うのはその奥にある目だ。ずた袋の穴は笑わない。いや、いや待てよ? そんな些末なこと、どうだっていいはずだろう。全能感。高揚。浮遊感。頭の中が、騒々しく、なる。
「──私は、旅人になりたいと思っていました。ここから遠く離れた、どこかへ」
激しい音が聞こえた。歓声だ。大衆が俺を囃し立てている。何処かに潜んでいたのだ。そして機を見て出てきて、一斉に声をあげた……幻聴だ。幻聴だ!
「前に敷かれた道から逃れた場所へ、ずっと行きたいと願っていました。行くだけでいいのです。何処にも辿り着かなくとも。ただ私自身が旅人であり続けれられれば──この退屈極まりない空間から抜け出せれば、とそう思っていました。思い続けていました」
頭を抑えた。こめかみを押した。耳を塞いだ。
シンバルが思い切り鳴らされているようだった。何もかもが、殺人だって強姦だって自殺だって何だって今ならできる。俺にはそれができるだけの能がある。人を殺せば快楽で、人を犯せば法悦で、自らを殺せば絶頂だ。このまま理性を離してはならない。離してしまえば、それが最期だ。離すな。押し倒し、犯してしまえば。さぞかし気持ちが……理せイを。
「私以外にも旅人になりたい人はたくさんいたと、私はとっくに知っていたのです。彼ら彼女らは皆、現在に飽き飽きしていました。現実に飽きていたのです。非日常を求めていました。そこへ『案内人』が現われました。ガイドは異世界へ連れて行くと私たちに宣言しました。それはそれは甘い誘惑でした。アイスキャンディーよりもずっと甘い、毒混じりの誘惑……ガイドに殺されたがっている人は、延寿さんが思うよりもずっと多いですよ。圧倒的多数の前には規則だって塗り替えられます。ガイドに殺されるのだって、正しいことだと云えるのではないでしょうか。ガイドの殺人は善意の賜物です。アレは悪意で人を殺していない。私には分かります。私には分かるのです」
ずた袋。ずた袋だ。
最初から、正体を隠す気など彼女にはなかったのだ。
嫌な予感は当たっていた。認めようとしなかっただけ。頭の中がうるさい。視界が極彩に染まりゆく。ビビッドカラーの街並みが。薄汚いネオン街の嫌悪した色合いのように染まる。吐き気が起こる。最高の気分だ。馬鹿な考えを。理性を手放すな。手離すなと言っている。は、な、ス、ナ……!!
「ああ。ああッ……! 分かった。分かったぞ……!」
脂汗を浮かべつつ、延寿は言う。
腹の底から声を絞り出す。
視線はずた袋の女をもはや睨みつけている。
「これ はきみのせいだ 」
延寿の言葉を、ずた袋の女は、
「賑やかで、楽しい体験でしょう?」
一切否定しなかった。
弧を描いている全力の笑顔だった。
「ずた袋に、彼らは幻想を重ねるみたいなんですよね。顔の見えない相手を、まるで自分が好きな相手だと見えているらしいです。必死に腰を振る彼らの呼ぶ私の名前は、いつも私の名前ではありませんでした。悲しいものです」
「あの 水か ?」
「はい。延寿さんはやっぱりクソ真面目ですね。渡した水をあまりにも疑いなく飲むものだから、私、罪悪感が湧きましたもの。こんなに正直な人を騙して良いものだろうか、って! ふふふふふっ!」
ずた袋の女は高らかな笑みを発する。
「いったい、何の目的で」
「延寿さんは理性的で正しい人間ですっ」
ずた袋の女が身を寄せてくる。
「折れない正しさがあります」
すぐ目の前にまで来た。
耳にそっと口を近づけ、囁くように。
「だから、折ってみたくなったんです。そのときあなたは、どんな表情をするのか──気になったものですから」
吐息がかかった。恐ろしく甘ったるい誘いだった。
今手を彼女の身体に置き服を脱がそうとも、決して抵抗はしないだろう。そうできるだけの魅力が際限なく湧いていた。強引に服をはぎ取って力任せに圧し潰しても、何も抵抗をしない。気付けば四つん這いになり、視界の下にずた袋の女を組み伏せていた。
「今、延寿さんの視界に映る私は、どんな顔を浮かべていますか?」
ずた袋の女の、顔。顔?
「……それが私の顔だと、嬉しいですけど」
(この顔は────いいや。いいや待て。なぜ俺はこの顔を。この顔を……!?)
ガツン、と後頭部に衝撃を感じた。
感じたと思った時にはもう、延寿の意識は虚ろに溶けていった。