を捕まえ
真っ黒のスポーツバッグを両手で抱え、延寿は急いでトイレから出た。手を洗う暇なんてなかった。
「巌義!」
ベンチの方向、麻梨が座って待っている方向へと叫ぶ。
いきなり大声で呼ばれ、麻梨はびくっと両手に持っている水の入ったボトルを取り落としそうになり何とか持ちこたえていた。「な、なんですか延寿さん。いきなりどうしたんですか」
「持っていてくれ!」
叫び、真っ黒のスポーツバッグを麻梨に向かって投げた。
「え、えっ?」
戸惑いつつも、麻梨は飛んできたスポーツバッグをどうにかキャッチしようとする意欲は見せた。スポーツバッグは砂の上に着地した。着地した拍子に中身が数袋飛び出た。バッグの中に、他の何も、入る隙間が無い程いっぱいに詰まっていたクスリの一部が出てきた。
「な、なんですかこれえ!?」
「イセカイだ!」
「いせかっ……クスリですか!?」
「ああそうだ。見張っていてほしい。俺はこれから──捕まえる」
延寿の視線は今出てきたばかりのトイレを見つめていた。
麻梨もまた延寿の視線の先を見つめた。「へあっ……!?」そして驚嘆した。
「ひょあああっーーー!!? 変態だ、変態だ!!」
トイレの中から、男子トイレの中から。
ずた袋をかぶった黒い下着姿のやけにスタイルの良い女が出てきたのだ。麻梨は飛び出さんばかりに目を見開き、すぐに事態を了解した。捕まえるとはつまり、アレを捕らえなければいけない、ということを。二本のボトルをずた袋の中に突っ込むと、麻梨は息を呑んで事態を見守ることにした。正しき男VSずた袋をかぶった変態の捕り物を──
「ひどぉくなあい? いきなり人を押しのけて、人のバッグをパクってくなんてさーあ?」
ずた袋女が不満を述べている。
内容は物取りにあった被害者のソレだ。内容だけならば。
「この世に不要なものが入っていた。だから処分するために貰い受けた」
延寿が返す。断定的で、有無を言わさぬ口調だった。
「〝この世〟だなんて! 大袈裟な言葉を使うのね。それに不要なものというのは酷い言い種だわ。必要としている方々もいぃっぱいいたのにいぃぃ」
「ソレの過剰摂取は大きな傷跡を残す。脳は縮小し、思考能力が削られる。錯乱と狂気に至る程の依存性もある。そんなものを必要だと感じるのなら、それは誰かに押し付けられた錯覚だ」
きみのような悪人に、という言葉を、延寿は視線に込めて睨みつけた。
女はその視線を受け、むすっと子どもが拗ねるように頬を膨らませ唇を尖らせた。
「ああたいくつ。今のあなたの言うこととぉ、てぇ、もぉ! たーいーくーつっ! 同じようなことばっかり! 凝り固まった利口さで退屈な聡明さをひけらかしてた人たちといっしょ! 知性がまったくないわ! さっさと返してそれ私のなのよ!」
まるで子どもの駄々だ、と延寿は心中で辟易した。大人が見せる駄々が、恐ろしく醜く見えた。
ずた袋女は麻梨が見張っている黒いスポーツバッグのもとへと、ふらふらふらふら、歩き出した。足取りが覚束ない。酔っぱらっているような、クスリを使っているかのような。
「待て」
「あんっ」
延寿は少しの逡巡の後、女を羽交い絞めすることにした。
両肩の下から腕を回して拘束する。甘ったるい香りがした。血のような生臭さが混じっていた。不愉快で生々しい臭いだった。
女はさほどの抵抗もせず、大人しく羽交い絞めにされている。
「手、洗ってないでしょ。なのに女の身体を触るなんて、マナーとしてないと思うわあ」
「後で洗う」
「ばっちい」
「黙ってろ」
「はあい、だまりまーす」
不気味なほど正直に、女は大人しくなった。
「巌義。警察へ電話をしてくれ」
延寿の言葉に、麻梨は「は、はい」とスマホを取り出し、画面を操作し始めた。
「あなたのが、私のお尻に当たってるわ」
「……」
「まともな殿方ならもう少しそれなりの反応を見せてくれるのだけれど。もしかしてあなた、ヘテロではない方なの? そうねえ、運命の相手が常に同属異性だとは限らないものねえ」
「……」
「胸、触ってもいいのよ。こっちだって」
身を捩じらせ、女が延寿を見上げる。縋るような、焦がれるような瞳だった。潤んですらいた。延寿は眉を顰めて無視をした。不愉快だった。
「ふふふ」
「……なに、笑っている」
「気付くの早いなあ、と思っちゃって。微笑ましくなったのよ。あなたやっぱり、見張られてるんだわ。特別視されている。喜ばしきことよ」
「なにを────」
言葉の途中だった。
そよ風が当たるのを延寿は顔全体で感じた。
ふと、視界が良くなった。
女の頭があった場所が消えたのだ。消えた?
「え、延寿さん!」
一瞬、理解できなかった。
なぜ女の頭が消えたのか。だがすぐに分かった。分かった瞬間に麻梨の叫び声が聞こえた。
「ガイドです!!」
ぼとりと、視界の隅に何かボール状のようなものが落っこちた。
刎ねられた首だ。女は突如現れたガイドに首を刎ね飛ばされたのだ。
女の身体を未だに羽交い絞めできているのがその何よりの証拠だ。首だけが無くなった。突如やって来た『案内人』が通り過ぎざまに刎ねていった。何の慈悲もなく。
視認できない速度で駆け抜け、今は公園の電灯の上に平然と佇むあの真っ黒なレインコート姿の何者かが、だ。
「ッ……!」
全身を這い上がる恐怖に、延寿は歯を食いしばった。
恐ろしかった。偶然、女が首を刎ねられた。それは運が良いことに自分ではなかっただけだった。いやそんなわけがあるわけない。人為的な偶然だ。また、見逃されたのだ。
女の首はない。切断面だけがある。
だが。
だが、だ。
首を刎ねられたというのに。
女の切断面から血が吹き出す気配がない。
血の通う生物ではないかのように、なにも噴出しない。まるで首を刎ね飛ばされたことに身体がまだ気づいていないかのように。
(なにがいったい、どうなっている)
延寿は錯乱する頭で、それでも視線はガイドを見続けていた。虚勢に近い潔さをもって睨みつけていた。
相変わらずの目深にかぶったフードのせいで表情が分からない。真っ黒なレインコートもそのままだ。風が出てきた。レインコートをはためかせ、電灯の上からアレはこちらを見下ろしている。
「き み゛ッ!?」
言いかけたところで、延寿は首筋にバチリと針で思い切り刺されたかのような途方もない衝撃を感じた。身体全体を電気が走ったかのような痺れに、意識が明滅した。
視界がぐるりと。
身体が傾いで。
刹那の視界に、弧を描いた歯が見えた。なにも視えなかった。
「延寿さん!!」
麻梨の金切り声が、聞こえ────