トイレ女
作っていると明らかに分かる、女の声だった。
甘えるように耳朶にまとわりついてくる不愉快な声音。
「……きみがずた袋女か」
前を向いたまま延寿は問う。
まだ用を足し終わっておらず丸出しだった。危険な状況だ。心臓の鼓動がより早く、より強くなった。早く。早く終わらせて、早くしまわなければ──危険だ。
「旅人たちはみぃんな、そう呼んでいるみたいだわ」
「トリッパーズ……?」
足し終わった。
急いでチャックを上げ、延寿は後ろを振り返った。
個室だった。鍵は青色。解錠済みだ。
「イセカイを楽しんでいる方々のこと。言葉の通り、旅人たちよ」
「……きみがクスリを配っている」
「ええ。そう。その通り。私が彼らにイセカイを提供している。親鳥が雛たちに餌を与えるように慈悲深くね──なのに呼ばれるのは、ずた袋女。ひどいと思わない?」
気だるげで、やはり甘え縋ってくる声。
延寿はその声に、どうしようもないほどの不快感を覚えた。気色の悪い、相手に全体重を預けるような依存の声色。
「イセカイを提供しているのだから……ねえ? 私のことは、女神、とでも呼んでほしいのだけれど」
キィィ、とか細い軋み音。
個室トイレの扉が内側へと開かれゆく。
「あなたは、ある? イセカイに、興味、ある? それとも……あなたが興味あるのはもっと別のなにか、かしら」
ゆっくり。ゆっくりと。
女は延寿の反応を吟味するように注視しつつ、続ける。
「楽しいところよ。楽しくて、賑やかで、あっという間に時間が経つ……まあ、ちょこっとだけ寿命は縮んじゃうかもしれないけど」
「クスリなんてそんなもの、俺がするわけないだろ」
「ええ、ええ! 分かっています。あなたは寿命が延びるのではなくましてや縮むような行為だなんて、そういうのは拒むでしょ、きっと拒絶するに決まっているんだって、分かっている」
「さっきから何を言って……っ!?」
姿が見えた。ずた袋女の身体が延寿の瞳に映し出された。
「……あら、あら。あなたは……うん。やっぱり、猛禽みたいな目つき。私、あなたのその眼つき、だぁいすき。乾いていて、冷たくて、そして……」
延寿は目を見開いた。驚愕した。
予想していたのと違った。
女は、名の通りやはりずた袋を被っていた。麻で編まれた、薄汚い黄色があった。
身体……身体は、肌色が占めていた。全身を真っ黒なランジェリー姿……いずれも黒いブラジャーとショーツに、黒いハイソックスのみを身に着けた寒々しい肉体が佇んでいた。欲情を誘うことだけを目的としている恰好だった。
「ねえ、あなたには望みがありますか?」
「……」
唐突な問いに、延寿は怪訝な表情を浮かべる。
いきなり何をこいつは、言っているのか。
「だんまりだなんて、寂しいわ。淋しいわ。ずっと黙られるのって私、そういうの嫌い。きっとあるのに。あるのに。私なら、叶えられるわ。あなたの望み、願い、夢……言ってくれるのなら、なんでも……」
「ない」
断言し、目を丸くする女へ、延寿は続ける。「きみのような得体のしれないものに叶えられる願いは、決して良い結果をもたらさないだろうから」
女の雰囲気が一転して冷ややかになったように、そう感じた。
「…………ふうん、ご立派な考え方。でもねえ、ぼくぅ? あなたのその回答、つまんない答えだわ。あなたはきっとつまんない人間なのね。四角四面で、融通の利かない退屈な男が吐くような台詞を言っちゃって。いずれは自縄自縛で破滅しそうな哀れな男の言葉を並べちゃって」
延寿に半裸体を見られていても平然と、女は延寿を侮蔑する。
対する延寿も動揺を悟られまいと歯を食いしばり、女を真っ向から睨みつけた。
「クスリを配るのを止めろ」
「ねえ、ぼく? そんな言葉で止めてくれる人間が本当にいると思う? 人を殺さないでよ~という甘えん坊さんみたいな要求で殺人がなくなるわけないでしょう? 正当な、〝正しい〟理由があれば人は人を殺してしまうものなのよぉ? そのぐらいのことをあなたが知らないわけがないわ」
ふらりと女が一歩踏み出す。
両手には何も持っていない。
危害を加えられるようなものは何も。
大丈夫。大丈夫だ。『案内人』とは違う。
ガイドに殴り飛ばされた頬がうずく。痛みは引いたが、腫れは引いておらず青あざになっている。
あんな暴力的な殺意はない。足も動く。口だって震えない。延寿は自身に言い聞かせる。言い聞かせ、ずた袋女の方を見る。ずた袋には穴が三つ空けられ、上の二つの穴から瞳が延寿を覗いていた。身体は相変わらずの下着姿。そして足もとには和式の便器と、隅っこに置かれている真っ黒なスポーツバッグ。チャックは開けられている。
「舐めまわすように見るのねえ。やっぱり興味、あるぅ?」
女の言葉を相手にせず、個室の隅にあるスポーツバッグを見る。アレ以外に入れ物はない。あの中に入っている。WWDWが、入っている。
「────!」
延寿は女へ向かって一歩踏み出し。女を押しのけた。
あっさりと女はふらついた。
そして真っ黒なスポーツバッグを奪おうと手を伸ばし。
「ッ……!?!?!?」
────そして、目が合った。
スポーツバッグの中に入っているソレと。
泣きぼくろのある彼女の虚ろな双眸を延寿は見た。
「あらぁ? 見ちゃったぁ♥」
女の声が、喜色満面だろうことが分かる女の声が。
すぐ横からするのを延寿は聞いた。