化ケ屋敷(夜)
今日、大切な友人と大切な友人がケンカをしてしまった。
ミイちゃんとよしまさが口論に……ううん、口論じゃないや。ミイちゃんが一方的によしまさを叩きのめしてたんだ。腕っぷしじゃなくて言葉でだけど。
「どこでッ、これを見つけたの!?」
「……」
手も出そうだったな、あのときのミイちゃん、ほんとにすごい剣幕だったから。
発端はなんだったっけ、なにか、よしまさが……そうだ。よしまさがミイちゃんを呼び出したんだ。
『小比井、今から時間はあるか』
『え?』
放課後、よしまさがいきなりミイちゃんにそんなことを言った。
もちろん、近くにいた私はそのやり取りを聞いていた。なんなら聞き耳だってたててた。だってとても気になったし。それ私の前でも言えること? ってちょっと思ってたし……だいぶ思ってたかもしれないけど。
ううん、たぶん、私以外のクラスメイトも……よしまさや私たちと何にも関わりのない人たちも聞き耳を立ててたと思う。
その頃のよしまさは、ちょっと有名人だったから。
イヤな、ほんとに嫌な注目のされ方だったけど。
バカみたい。みんな、馬鹿だ。よしまさが人なんて殺すわけがないじゃん。なのにヒトゴロシで休んでたとか好き勝手言ってさ。一人ずつ問い詰めたかった、実際に問い詰めかけた。そしたら、当のよしまさに止められちゃった。『いいんだ』って言ってた。なにがいいの? ヒトゴロシと陰で卑怯なヤツラに言われてなんで言い返さないの? 叩きのめせばいいじゃん、言葉でも、暴力でもなんだってしてさ。そうじゃないと分からないよ、他人に平気な顔でひどいことをする人間なんて、痛い目に遭わせないと分かりっこないよ。
その頃の私はずっと不機嫌だったと思う。
だから、よしまさがミイちゃんを呼び出した時も不機嫌だった。もっと機嫌悪くなってた。
『あー。あるけど、なに? ここでは言えそうにないこと?』
ミイちゃんが横目でちらりと私に視線を送り、そんなことを尋ねる。
明らかに私を気遣っている様子だった。余計なお世話……でも、ごめんね。ミイちゃん、ただでさえ落ち込んでいるのに、そんなところに気を遣わせるようなことになっちゃって、よしまさも何でいま……ああもう! みんな、みんなが不幸に向かって進んでいる気がする。ダメなのに。私の大切な人たちに不幸になってほしくないのに、だからダメなのに。
『前、言っていただろ。きみの飼って……きみの仔猫の、首輪を見つけた』
ミイちゃんの飼っている仔猫。
さらわれてしまった、ミイちゃんの大切なペット。
ひょっとすると、もう……もしかして、よしまさがちょっと言葉に迷ってたのって、
『首輪、……………………』
ミイちゃんの沈黙は長かった。
何秒も黙って、瞳は揺れながらよしまさを見つめ続けていて、か細く、言った。
『だけ?』
よしまさはその問いかけに口をつぐんでいた。
言葉で答えずに、なのに沈黙がはっきりと答えていた。
『……ちょっと、きて』
ミイちゃんがよしまさの手を掴み、ずんずんと連れていく。
よしまさは黙って手を引っ張られてついていく。
心配になったから、私はその後を追いかけた。
『まさか動物殺しって……』
教室を出るときに、誰かがそんなことを口にしようとしていた。
『違う』
だから私は、そいつを睨みつけて、言葉を止めさせた。
それ以上の言葉を続けたら絶対に許さない、と怒りをぶつけた。特に仲良くもないクラスメイトで、この次の瞬間からは仲が悪くなるクラスメイトへ。
『い、いや、ただの予想じゃん……』
困惑と焦燥の顔。
そこまで怒る必要なくない?
表情がそう言っていた。予想を口にしただけ? そうかもしれないから、それを言っただけ? それがどれだけ相手を傷つけるのかも考えずに? その言葉が周りにどう浸透してしまうのかも考えずに?
もう嫌だ。顔も見たくない。
今の私は不機嫌だって分かってる。
だからさっさとこの場を離れよう。
気になるのは、ミイちゃんとよしまさだ。
きっとよくないことになる。
二人とも、傷ついてしまう。
ただでさえ傷ついているのに、もっと傷つく。
教室を出て、二人を追いかけようとしたけど、姿が見えなかった。
どこに行ったんだろう。たぶんだけど、ミイちゃんは人気のない場所で話したいはずだ、どこへ? 屋上? どこかの空き教室? 外? 体育館の周辺とか?
廊下に女の子が一人いて、何かを考えている様子でぼんやりとしていた。
胸元には『巌義』の名札。巌義さん。麻梨ちゃん。クラスメイトだ。
『麻梨ちゃん。あの、ここをよしまさとミイちゃんが通って行かなかった?』
『へ? ああ、はい。行きました』
『どっちだった?』
『ええと、あちらです』
麻梨ちゃんが指したのは、階段。『下りていきました』下った。昇降口。外へ行ったのだろうか。
『あの、何かあったんですか? 二人ともただならない様子で、気になったのですが』
『分かんない。ごめんね、ありがと』
麻梨ちゃんに雑な返事と礼をして、私は二人を追いかけた。
階段を駆け下りても、二人の姿がなかった。
でも、人はいた。男の先生だ。名前は何だったっけ、えっと、化学の鳥兼せん……違った、鳥兼先生は高校の先生でしかも女性だ。え、高校。私は今中学生、中学二年生……、あれ。なんで高校の先生をもう知っているの?
『神岡先生』
そうだ。そうそう。中学の理科の先生。神岡先生。
何の変哲もない、ちょっと年老いたお爺ちゃん先生で、或亜中学の理科の先生。高校じゃない。だってここは中学校だし、私もよしまさもミイちゃんも中学生……だよね?
『エンジュと小比井を見ませんでしたか』
尋ねると、神岡先生は無言でゆっくりと、昇降口を指さした。なんで喋んないの?
人というよりも、そういう装置みたい。尋ねたら場所を指し示すだけの機械。舞台上の単なる装置。配役された人を望む方向へ向かわせるためだけの……考え過ぎかな。神岡先生は単に言葉を発する気になれなかっただけだよ、私もそういうときあるし。
『ありがとうございますっ』
とりあえずお礼を言って、急いで靴を履き替えて外に出る。二人とも速すぎない? ってちょっと思いながら。
周囲を見渡すと、二人の背中が見えた。でかいのとそこそこ小さめなの、二人分。
よしまさとミイちゃんだ。
方向は、……体育館?
『……!』
走って、全力で走って。
辿り着いたのは、体育館の真裏。
人気がなくて、路上からも植木で隠れている場所。
秘密の話をするにはぴったりの場所。
あ、でも、いま、工事の音で騒がしかったんだっけ……なにも聞こえない。気のせい? 私、なにか勘違いしてる?
二人はそこで立ちどまっていた。
睨み合っているみたいで私に気づかなかったから、植木に隠れた。
いよいよ雰囲気が危うくなってきたらすぐに飛び出そうと心に決めて。
『聞かれること、分かるよね?』
絞り出すような、ミイちゃんの声。
『どうして俺が持っているのか、だろ』
『分かってんならさっさと答えろよ』
怒ってる。ミイちゃん、めちゃくちゃ怒ってる。
『まずは、これを』
と、よしまさはポケットから取り出したそれをミイちゃんに差し出した。
それは、小さな首輪。
『ッ……!』
ミイちゃんは目を見開いて、よしまさの差し出した首輪を見つめる。
ぶんどるようによしまさの手から首輪を受け取り、その表面になにかを探している。
『……』
何かを呟くように口が動いていた。
聞こえなかったけど、短い二文字のように、見えた。
『ッッッ……!!』
首輪を手に持ったまま、ミイちゃんがよしまさの胸元を掴んだ。
『どこでッ、これを見つけたの!?』
叫び声。
悲痛だった。聞いたとたんに、聞いただけなのに、当事者じゃないのに……哀しくてどうしようもなくなった。どれだけの痛みがあんな叫び声を上げさせたんだろって考えたらもっと哀しくなった。
「月ヶ峰の郊外に屋敷がある。そこの森の中だ」
よしまさもよしまさだ。
なんで今のミイちゃんにそれを言うの。
そんな何でもない顔を……「……!」違う。違う違う。よしまさは何でもない顔なんてしていない。つらそうな顔だ。歯を食いしばっている。眉をひそめている。言いたくないことを言おうとしている。
伝えたくないことをそれでも伝えなきゃって思っている。
ミイちゃんが怒るって、とんでもなく怒って哀しむって分かってて、それでも言う。
頭固いから。自分がそう信じたら、それが正しいのならそうしなきゃって思ってしまう。
「じゃあなんでそこにいたわけ!?」
「迷い鳥を探していた」
「はあ!? 誰の!」
「俺のだ」
「そこまで行った理由は!? 郊外なんでしょ、遠いんだろ!? それに迷い鳥って、理由としてありえんの!? 目撃情報でもあった!?」
ミイちゃんの、たぶん、溜まりにたまった怒りが、まとめてよしまさにぶつけられている。
八つ当たりだよ、だけど、そうでもしなきゃミイちゃんはどうしようもなくなっていて、そうさせたのはよしまさなんだ。でもよしまさだって、悪意があってしてるわけじゃないってことは分かってる。
どっちも悪くないのに、傷だけが深まっている。
「目撃情報があったのはその近くだ。そこを探してもいなかったから、俺たちはもっと周囲を探した」
たち?
「……で、なに? そこで、シロを見つけたってこと?」
「……ああ」
「…………どういう、状態のシロを?」
「っ……」
言うべきか、言わざるべきか。
そのよしまさの逡巡が、答えになっていた。
「殺されて、いたんでしょ」
俯いたミイちゃんからはっきりと聞こえた。
押し殺したかすれ声が……動物殺し。動物殺し! ほんとに卑怯な、イヤなやつ……!
「シロは殺されたんだ」
「…………ああ。そう見える状態だった」
俯いているからミイちゃんには見えない。
よしまさの表情が、どんな眼で、どういう感情を湛えて言っているのか。
「……………………」
ぎゅう、とミイちゃんは首輪を握りしめている。
握りしめて、キッとよしまさを睨みつけて、また、叫んだ。
「なんで私に教えたんだよ……! なんで私にこれを持ってきたんだよ! これだけを! 持ってくるならシロを持ってきてよ! 連れてくるならシロも連れてきてよッ!!」
血のような叫びが止まらない。
溜め込んだ痛みがあふれ出ている。
「生きているシロを!」
その言葉は、よしまさを思い切り斬りつけたみたいに見えた。
呆然と、よしまさが口を開けたのだ。そうして何かを、どこかを一瞬だけ見た。ほんとに一瞬で、思わず見たように見えた。私もそこを見たけど、でも何もいなかった。ただ、砂利だけがあった。
すぐによしまさはミイちゃんに向き直って、ミイちゃんの怒りを真正面から浴びた。
「死んだって情報だけ持ってこられても、こんなものだけもってこられても……! お礼でも言われたかったわけ!? 『見つけてきてくれてありがとう』って! 『首輪だけ持ってきてくれてありがとう』って!!」
ミイちゃんはかきむしるように自分の顔を両手でつかんだ。
「死んだってだけ聞かされてもどうしようもないじゃん! 殺されたってだけ聞かされてもどうしょうもできないじゃん! 生きていてほしかったのに死んだってだけ聞かされてこんな遺品みたいに渡されてもさあ! じゃあ私はどうすればいいの!?」
かきむしる両手の間からよしまさを睨みつけている。
ミイちゃんの血色の叫びが止まない。
「なんでシロが殺されたの誰が殺したのいったい誰がッ……! 許せないゼッタイに許せない許せないッ……!! やり返してやる同じことを同じことを同じことを……!!!」
立っていられない、とミイちゃんは砂利に膝をつき、
「うっ……あぁぁ……! ううぁああああッ……ッ!!」
もう、だめだ。
私が耐えられない。
「っ……!」
立ち上がり、ミイちゃんのそばに駆け寄る。
「花蓮っ……?」
小さな首輪を抱きかかえるようにうずくまって泣き叫ぶミイちゃんを呆然と見下ろしていたよしまさが驚いた様子で私を見た。盗み聞きをしていてごめんなさい。勝手に聞いて勝手に泣いてしまってごめんなさい。私は当事者でも何でもないのに。
「ミイちゃんっ……」
うずくまって泣き叫ぶミイちゃんに近づいて、膝をついて、背中に手を当て、抱きしめた。
涙が止まってくれない。泣くべきなのは私じゃないのに、どうやったって止まらない。
「ああああああああぁあぁぁぁ────────!!」
ミイちゃんの気がおさまるまで近くにいようと決めた。
痛みと哀しみを少しでも、ほんの少しでも発散できるように。
「いつから……」
私に尋ねるよしまさの息は荒かった。
動悸がするのだろうか。聞いていた私ですら、心臓がバクバク鳴っている。涙だって出てきてしまっていた。
すべてを向けられたよしまさだって、傷を負ったはず、なのに……分からなくなる。
なにが、あなたをそこまでさせるのかが。
この結果が分からないはずがないのに、って。
「私はミイちゃんに傷ついてほしくない」
「っ……」
私の言葉によしまさが息を呑んだ。
残酷な言葉だ。
よしまさを責める言葉だ、これは。
続けないと。すぐに言葉を続かせないとよしまさが傷つく時間がそれだけ延びる。
「でも私は、あなたにだって傷ついてほしくない」
休んだ理由があった。
休むだけの何かがあった。
なのにいま、こうやってミイちゃんに事実を伝えようとしている。よしまさは絶対に動物殺しじゃない。でも見つけてしまったのだ、偶然、小さな仔猫の、……殺されたって分かるような姿を。
だから首輪だけを持って、それがミイちゃんの仔猫だって分かったから持ってきた。
それが正しいと、きっと思ってしまったから。
ならそうすべきだと考えてしまったから。
その結果が今だ。
じゃあ、伝えなければよかったの? ミイちゃんは何も知らずに、シロが殺されたことを知らずに生きていけばよかったのかな。疑念と哀しみを抱えたまま? 違う気がする。そうであったらいけない気がする。悪いのは動物殺しだ。それ以外が分からない。この状況を最も良く解決できる答えが出てこない。
「ごめんなさい」
涙が一向に止まらない。
泣きたいのはこの二人で、私ではないのに。
「私にはどうすべきだったのかが分からない────────────────夕暮れの歩道橋の上で大切な人が笑っている。私にはどうすべきだったのかが分からない。でも止めなきゃと思った。これ以上の死を重ねる前に、止めなきゃって。「きみは正しい」落ちていく彼は笑っている────────────────夕暮れの夢を見た。歩道橋の夢を見た。落ちていく彼の夢を見た。
「……」
ぐずぐずに泣いている自分がいる。
夢の内容は憶えていない。でも、とても……とても、哀しい夢を見ていた。
「────────ッ!!!」
なに!? なになになにめちゃくちゃびっくりしたんだけど!?
哀しみとかいろいろな余韻ふっとんじゃった……ここ、どこ?
「────────ッ!!!」
まだ叫んでる。そんなに叫ぶと喉潰れちゃわないかな。大丈夫かな、誰か分からないけど……あと、私も大丈夫かな。こんな知らないところにいて。ここはどこだろう。
寝起きのぼんやりした頭で室内を見渡すと、机があって、机の上の鍵が視界に入った。
205号室、と書かれているタグがついている。205号室かあ、そういえば空室だったなあ。…………? どういうこと? いま空室と思ったのはどうして? 自分のことなのに、自分の記憶が分からない。
寝起きだから。寝起きだからかも。うん。寝起きだからだ。
「────────ッ!!!」
まだ叫んでるなあ。よく聞いてみると、二人分だ。
綺麗に叫びが揃っている。まるでまったく同じ人が同じ状況で同じ感情で同じ原因で同じ悲鳴を上げているみたい。……まさかね。まずは、ここを出なきゃ。
あ、悲鳴が終わった。
誰が叫んでいるのかは分かんないけど、できれば遭遇したくないなあって。
「……はあ。よっちんのやつ、いま何してんのかな」
すやすや何だろうなあ、たぶん、いま真夜中だし。
外は暗くて、なんだかじめじめしてて、今にも雨が降りそうだ。
窓開いてるもん、扉だってちょっとだけ開いている。
「……あーあ」
どうして私、こんな投げやりな気分なんだろう。
やたら身体が熱いし、熱ありそう。あーやだなあ、じめじめしてるし、ここどこか分かんないし、暗いし、怖いし。やだやだ。それに今一番いやなのは、
「っ……」
涙が、ちっとも止まらない。
何かが哀しくてつらくて仕方がない。
誰かを突き落とした手の感触がずっと残っている。
誰かの笑みが視界に焼き付いている。
誰かの。
私の好きな人の。
私の大切な人の。
これ以上傷ついてほしくなかった人の。
「まずは、帰らなきゃ……」
立ち上がったときに、ふと思っちゃった。
「ふふっ……」
私は帰れるのかな、って。