992C5H4N4925537381C5H5N51114
二人の不審者がここにいる。
他人の敷地に許しなくして立ち入った者たちだ。
「この屋敷は、〝曰く〟つきだと聞いています」
視線の先に屋敷の姿を見据え、不審者の一人──ユニさんがもう一人である俺へ言う。ゆっくりとした歩幅で、歩調を合わせ、足元の枝葉を踏みしめながら、俺たちは屋敷の敷地内を歩いている。無許可に。
「曰くつき……」
「ええ。月ヶ峰の通りによく行く喫茶店がありまして、そこのお爺ちゃん店主が話していました」
ちなみに風聞という店名です、とユニさんはにこりと付け加える。
「廃墟の文献調査を好んでいらっしゃるその店主さんは、とある廃墟フリークの方が運営しているページでこう書き始めています」
立ちどまり、俺を眺め見たのち、ユニさんは言う。
「月ヶ峰市の郊外に、とある一族が所有していた屋敷がある」
所有していた……なら今は?
「ああ、ひとつ訂正を。そのとある一族は、現在もきちんとこのお屋敷を所有していますよ。いったいいつの話をしているのでしょうね」
そう、ユニさんは苦笑に近い微笑みを浮かべた。
「とある一族とは、涯渡のことです。この辺り一帯の広大な土地を所有している、いわゆる大地主です。現在のご当主は確か、どこかの製薬会社に勤めていらっしゃると聞きました。月ヶ峰市内にも研究所があったような……」
俺の父親も、勤め先は製薬会社だ。詳しくは聞いたことがないが……同じところなのだろうか。そう、いくつも製薬系の研究所が集まっていたりするものなのか。
「涯渡家が住んでいるところは別のところ、だとは思います。この屋敷の中からは人の気配がしませんから。郊外で車が入用な場所のはずなのに、車が駐車されている様子でもありません」
時折訪れるだけの別荘のようなものではないでしょうか、とユニさん。
「だから好き勝手出入りしてもいい、というわけにはなりませんけどね……」
──ほんとだよ。
苦虫を嚙み潰したような口角できみが言う。
「それで、です。そのお爺ちゃん店主がノリにノって書いたページには、曰く、曰く、と言葉が続いていきます」
立ちどまったまま、湛えた笑みはそのままに、ユニさんが俺へ視線を向けた。にまにまとしている。言いたくてたまらないことを言わんとする、小さな子どものようだ。
「私はそこに、ひとつ〝曰く〟を付け足しましょう」
異常性をひとつ、屋敷に付加するのだという。
「曰く、この世の設計図が屋敷の地下にある」
この世の設計図。
「詳細がなければ、俺はその話を与太としてしか受け取れません」
この世とは、ずいぶん大きく出ている。
この世の設計図とは、その実在について語るとは、すなわちたわ言だ。具体性を突き詰めていけばともすれば現れるのかもしれないが、そのときは細分化されて換言された上での出現だろう。少なくとも『この世の設計図』などという十把一絡げの蒙昧な認識ではないはずだ。
「ええ。ええ。エンジュ、あなたはきっとそう言います」
俺の言葉に、なぜだかユニさんは嬉しそうに、そうして満足げに頷いてみせた。視界に佇むきみは、姉の上機嫌さにやや戸惑いを浮かべている。
「思い出話をいたします」
自らの放った世迷言の詳述無く、唐突にユニさんは切り出した。「昔話をしたい気分ですので」
「私が子どもの頃の話です。私は幼く、当然、妹のイオリも幼かったころのはなし。それは未来ではなく、ゆえに昔の、思い出のなかの話です。時間は順行しゆくものですからね」
彼女の茶色の虹彩がまっすぐに見つめてくる。
「私たち姉妹の生家は、隣の真昼ヶ丘市です。エンジュもご存じの通り、真昼ヶ丘市は長閑な街……目立った事件も記録に残っていない、平和な街」
その平和な街で起きた強盗事件の犯人たちが、あなたの妹を殺したんだ。
これを言ったところで、だろう。俺の不愉快をユニさんと共有する必要はない。
「大学に通うために私は月ヶ峰に一人暮らしをしていますが、イオリは真昼ヶ丘市の家に住んでいます。公共の交通機関を使えばそう遠くもない月ヶ峰に、幼いイオリと私は二人でよく遊びに来ていました。小学生の頃のことをイオリは憶えているでしょうか」
──そりゃ憶えてるよ。つい数年前だもん。
きみが答える。
俺がいま知った情報に、俺の幻覚のきみが知っていたふうに応えている。
「たまに遠出をして古星町にまで行ったりもしました、あそこは海も山もあって、真昼ヶ丘市よりもさらに長閑なところです。エンジュは行ったことがありますか?」
「……いえ」
「あそこには隕石が有名な博物館があります。宇宙の不可解さに興味があるのなら行ってみてはどうです? それとも私と行ってみますか?」
ふふ、とユニさんは微笑む。
「すべてが落ち着いた後に、考えてみます」
「ええ。考えてみておいてください。免許はもっていますから」
楽しみです、とユニさん。
すべてが落ち着いた後、と俺は言った。何もかもを時が流し去り、精神の平穏が戻ってきたときだ。空白と共存できるようになった時期だ。いつになるのだろう。
「子供たちだけで出かけることに両親は渋面をつくっていました。知らない人にはついていくな、人のいないところをうろつくな……散々言われましたよ」
きみは両親の言いつけを守り、ついていかなかった。
どういう経緯かは分からないが、連れ去られたのだ。
「心残りがあるとすれば、月ヶ峰の電波塔……あそこにイオリは興味があるようでした。次に登れたらと考えていたら、私の受験勉強で二人で出かける機会も中々取れなくなってしまって、そうして私は月ヶ峰に一人暮らしを始めて……」
名残惜しそうに、ユニさんは後悔をにじませる。
「……」
その後悔は既に遂げられている。
──実は登ってたんだよねえ、由正、きみと。
きみがにやついている。
「登りました、俺……イオリと」
俺の言葉にユニさんは驚いたように一瞬目を見開くと、すぐに破顔し「よかった。私が叶えられずとも、あなたが叶えてくれていたんですね」満面に笑みを浮かべる。
「妹があなたを気に入る理由もわかります。真昼ヶ丘市から来ていたのも、あなたに会うためなのでしょうね」
──姉妹って好みも似るのかなあ。
きみの声。
「それでは、古びた話を」
森の中を風が吹き抜け、湿った土の匂いがすぎていく。枝葉がざわめき、涼し気な空気のなか、ユニさんは静かに俺の眼を見ている。
「思い出話と区別するものなんですか」
「はい。思い出というには古すぎて、共有ができないお話です」
──何言ってるの?
太陽を雲が覆ったらしく、ただでさえ暗がりの森がさらに薄暗くなった。
「私には、父がいました」
──誰だって、じゃないかな。それに私たちのお父さん生きてるよ。私が死んで今日にいたるまでに死んじゃったりしていなければ、だけど。
きみが怪訝そうに眉をひそめる。
「魂を厭悪し、神を軽蔑し、死に怯臆する……そのような父親が」
──……お父さん、そんなだったっけ。お姉ちゃんにはそう見えて……いやそんな、別にうちって宗教とかそういうの無かったし、いたって普通のサラリーマンだったのに。
きみが首を傾げている。
起こっていない出来事をユニさんは話しているのか……違うな、違う。違う。俺の猜疑を、きみが反映しているだけだ。
「父は運命論的な考え全てに不愉快さを示します。神の存在を常に摺り潰したがっていて、魂が彼の現実に少しでも介入してくると露骨に苛立つような人です」
「ずいぶん、……」
言って、いいものだろうか。
他人の、他人の親族、父親に対して、明確な侮蔑ととれるこの言葉を。それにさきほどの子を想い心配する彼女の両親像と少しズレているように思う。
「そうです、エンジュ」
逡巡する俺の姿に、ユニさんは察したように笑みを深める。
「あなたの目が述べるとおり、私の父は狭量な人です」
──……誰の話?
きみの表情はもはや、深い疑いの中にある。
ユニさんは誰の話をしている? 父? 彼女の父とは。彼女の口から出ている〝父〟とは……誰を、指している。
──少なくとも、私の知るお父さんじゃない。
きみは言い、より深い角度に首を傾げた。「エンジュ」
「どこを、視ていますか」
……。
「さきほどから、です。あなたの視線がなにかを捉えている瞬間があります。確たる存在が、まるで何もないところにあるかのように」
ユニさんに言うべきではない。
「誰かいるような気がしました」
「イオリですか?」
曰くつきの場所に相応しい怪談に落とし込もうとして、即座にユニさんに言及される。それは……そうか。いまこの場所において、いちばん幽霊になりそうなのはきみだ。いちばん無念がありそうなのはきみだ。
──……言わないほうが、きっといいよ。なんだかそんな気がする。
きみの声が聞こえる。死人の言葉が。
そのような人間をまともとは、とてもじゃないが言えないだろう。まともであるフリをさせてもらう。
「妹は死に、あなたの悪夢になってしまった」
沈黙していると、ユニさんは得心がいったと俺が向けていた視線の先を見た。「誰も、いませんね。悪夢は当事者にしか見えないのでしょうか」
「……無理もありません。無理もないです」
首を微かに左右に振り、ユニさんは眉尻をさげて俺を見る。
「痛みは当人にしか分かりません。恐怖は蝕まれる者にしか実感をもたらさないのです。他人が理解できるものではありません、他人は解釈し、寄り添うことしかできません。愚かな恐れだと、怯えだとしても、自身ですら自らの恐怖を嘲笑していようと……それでも確かに、本人は心の底から恐れていたのです」
不安に満ちて、気遣う声音で……憐れむように。哀しむように。
「何も見えていませんよ」
「ですが……」
「それよりも、古びた話の続きを聞きたいです」
なおも心配そうに俺を見つめ、苦痛を湛えたように表情を歪めると、「それでは」とユニさんは言葉を続けた。言葉に応えるように気持ちが切り替わり、その眼差しから憐憫は消え去っていた。
「父を、初めて見た瞬間を覚えています」
彼女の視界は過去を見る。
「記憶の中に、なおも鮮明に焼き付いている」
その眼には喜びがあった。
「父の眼は、輝いていました」
その眼は遠い日の輝きを見ていた。
「否定し、嫌悪し……それをもってしてなお、憧れていた理外を発見できた戸惑いに。驚きに。満たされた心がその眼を深々と輝かせていました」
ユニさんの眼は見開かれ、およそらしからぬ興奮が表出していた。
「私の意識の始まりは、一人の少年に満ちた喜びからでした」
その過去は、思い出、古びたお話はあまりにも彼女を満たすのだろう。そう理解できるほどにユニさんの表情は満ち足りている。
ただ、彼女の話そのものは不安定だ。現に父を、少年と呼んだ。まるで同い年であるかのように言い表したのだ。
彼女の口から発されているのは歪んだ物語なのだと、そう念頭に置いておいたほうがいいだろう。いま、俺に見えている、
──お姉ちゃん大丈夫かな……もしかして精神的に……大丈夫かなあ……。
不安そうなきみの佇む現実のように歪んでいる。
「エンジュ」
ゆっくりとユニさんが近づいてくる。
そうして俺の手をそっととり、両手で祈るように挟み込んだ。
「屋敷の地下に、向かいませんか」
その顔に微笑みはなく、真剣だ。
「なんだか、急ですね……この世の設計図を見に行くんですか」
そもそもが行けるものなのだろうか。
俺達には前提がある。この屋敷は他人様の土地で、いまの俺たちの立場は不法侵入者だ。罪を反省するどころか、地下へ向かう? ユニさんはまるで自分の場所のように、この屋敷を、屋敷の地下を捉えてはいないか。
「はい。この世の設計図を見に行きます。そうしてあなたの視ているその悪夢を、終わらせる手助けをしたいです」
真っ直ぐに、茶色の瞳が俺を見据える。
声色に一切のお道化が無く、冗談の欠片もなく、ただただ真剣そのもので、懇願すら見える様子で俺を誘おうとする。
「いったい……どうやって」
「それは……」
言ったものか。言わないほうがいいのではないか。
ユニさんの逡巡からそのような思考が受け取れる。下げられた眉尻が気弱に、どう言えばいいのかを思い巡らせている。
「きっと……ものごとは、素直に伝えたほうがいいです」
悩んだ結果、彼女が選んだのは誠実だったようだ。
「どのような言葉で誘えば、あなたが正しくない道に足を踏み入れてくれるのだろうとずっと考えていました」
正しくない道、と彼女は言う。
「イオリを、生き返らせたくありませんか」
死人は。
「私の大事な妹を、あなたの大切なイオリを……ともに、ともに生き返らせませんか」
死人は死んでいるから死人だ。それが正しい。それ以外は正しくない。ゆえにユニさんは正しくない道だと云った。死人が生き返る現象が、どうして正しくあるのだろうか。死者の蘇る理論が、なぜ歪んでいないと云えるのか。
「私が、あなたの望みを叶えます」
死人は生き返らない。
望みを叶える、などという甘い響きは悪魔的だ。非現実的だ。
「その提案を信じられる根拠が、屋敷の地下にあるのだと……あなたは、そう言うんですか」
尋ねる。
「はい。エンジュに信じてもらえるだけの根拠が、屋敷の地下にあります」
答える。
「悪魔のような誘惑ですね」
嘲る。
「はい。悪魔のような提案をしています」
認める。
「死人は生き返りません」
否定する。
「いいえ。死者は生き返ります」
否定する。
「どうやって。設計図から復元でもするんですか」
問いかける。
「はい。設計図から、復元を行います」
答える。「疑問が尽きないようなら、いま、出したいだけ出してしまってください。そのすべてに答えるのが、私からあなたに示す誠意です」
ユニさんは言う。
その両手は依然、祈るように俺の手を挟み込んでいる。かすかに汗ばみ、彼女とて緊張しているのだと伝わってくる。
彼女は祈っている。
彼女こそが祈っているのだ。
俺以上に身体を強張らせ、何かの成就を祈っている。妹を生き返らせることか。その切迫さは、果たしてそれだけに由来するものなのか。
そう思えないのは、なぜだ。
「あなたは本当に、イオリを生き返らせたいんですか」
ユニさんの目的が見えない。
いや、見えている。見えてはいる……どう言えばいいのか。あくまで直感という憶測に過ぎないのだが、
「当然です。大切な妹なのですから」
「目的はそれだけですか」
口にし、疑念を明確に再認識した。
それだけなのか。嘘は吐いていないのだろう。だが、すべてを伝えてはいないのではないか。
「……それだけ。それだけ、とは」
祈りの眼が、俺を真っ直ぐに凝視する。「エンジュは、私がイオリを生き返らせる以外の目的を抱えている、と考えるのですか?」
「……なんとなく、ですが」
肯定する。
あなたを疑っている、と認める。
「…………」
沈黙。長考。
なおも、茶色の虹彩は俺から視線を外さない。
「……………………ものごとは素直に伝えるべき、ことです」
そう言うと、ユニさんは俺から視線を外し、何もないであろうところを見た。その視線の先には偶然なのか、きみがいる。
「目の前に」
再びユニさんの視線が俺に戻る。
眉をひそめ、思考を巡らせ、逡巡のなかにいる。躊躇と決断の狭間に迷っている。
「……目の前に可能性があり、それを掴める機会があるとしたなら、エンジュはどうしますか」
「……俺は、すぐには飛びつかない」
今のあなたに対するこの態度がそうだ。
「扉を開ければすべてが……あなたの望むすべてがあるかもしれません。なのにあなたは扉を開けず、踵を返そうというのですか」
「なにが待っているのかが不確定なら、それは俺の望む結果ではないかもしれない」
可能性があるからと飛びつき、最悪の結末になる。
それもひとつの可能性だろう。あらゆる可能性を想定するのなら、最悪の結末も含まれてしかるべきだ。目をそらしては決してならない。
……さきほどの猫と首輪においては、生じる不都合な可能性からは目をつむっていたというのに。
「……」
ユニさんが視線を左右に揺らす。
眉尻を下げ、気弱そうに……どうすれば目の前の頑固者を納得させられるのか、考えを巡らせている。「ものごとは……素直に……」こぼしている言葉の自覚もないようだ。俺の手を両手で覆い、彼女の祈りは続いている。
「あなたにはイオリを生き返らせる以外の目的がある」
だから、促す。
言いづらそうにするその様子から、彼女が目的のすべてを口にしてはいないのはもはや明白だ。「教えてもらえませんか」
「……エンジュは、運命を信じますか」
信じない。
「そんなものはありません」
すべての過去は、自身の意思と責任の上に成立する。それを運命などと呼び、自らの手中から緩やかに放棄しようとする考え方を俺は好ましく思わない。
「……はい。エンジュなら、そう言います」
知らず、俺は彼女の期待に応えたようだ。
彼女が知り、そうして俺の知らない……誰かへ向けられた期待に。
「古びた話の、続きをしてもいいですか」
彼女の言葉に頷く。
「私の前を、歩く人がいました」
俺の手を包む両手に、かすかに力が加わる。
「何も知らない私に、世界を……この世という箱庭を紹介し、案内してくれた人」
祈りは続いている。
誰かへと向けられた、恐らくは彼女の本心が。
「私の『案内人』」
案内人。
その人物が、彼女の根底にある誰かだ。
その誰かを語る彼女の表情は、どうしてか悲痛に歪みかけている。湛えられているのは哀しみか。となればその誰かはすでに、彼女にとっての欠落なのだろう。それも恒久的な死者、あるいは対話不可能な状態、状況にある者。
「彼は、寝る時間をすぎても起きていたがっていました。父の言葉に反抗し、ただ、いつまでも起きていたかっただけ。いつまでも」
そこで一呼吸、二呼吸、ユニさんは言葉を止める。
祈りはなおも続き、俺の眼をじっと見、俺からなにかを読み取ろうとしている。俺の反応のなかに何かを探している。
──お姉ちゃん、やっぱりおかしい気がする。
きみの声がする。
視線を向ける。
──あ。見ないほうが。ごめん。
視線をユニさんに戻す。
彼女の視線は、俺の見た先を、すなわちきみの立つ場所へ向けられていた。
「……イオリ。かわいそうな私の妹」
見えていないだろうきみを憐れむ。「本当に、気の毒な……」そこで言葉を断ち、目をつむる。開けると再び俺を見た。
「彼もまた、目的のために正しくない道を歩んでいました」
俺の、将来の姿のようなものか。
……いま、考えて自覚した。もうユニさんへの答えは決まっているようだ。
「何度も、倫理や道理、正しさ……およそヒトの善性とされる美徳が彼の足を止めました。それらが欠如している間にようやく、彼は歩みを進められたんです」
ろくでもない人間だ。
倫理、道理、正しさ。元来、欠如する期間のあってはならない。
ただ、いまのユニさんの表情、言葉、浮かべている哀しみを見るに、
「目的は叶わなかった」
俺の言葉に彼女の眼は僅かに見開かれ、微かに歯をくいしばった。過去を思い返し、その痛みまでも思い出したようだ。
最終的には叶わなかった。その案内人とやらはいなくなり、彼女だけが残っているのが現状。ユニさんの目的は、おそらくその案内人の目的に関係してくる。もしくは目的そのもの。
「……願いを叶える道中に少し疲れて、いまは休憩しているところなんです。長い……長い、休憩を」
彼女は視線を落とし、どことも知れない場所を見ている。彼女の視線の先には折れた枝のみがあった。
「そのまま休んでいたいのではないですか」
その人は、と口にする。
なぜだか、彼女の表情を、そこに湛えられる期待、祈りに似た期待を見たら、そう言いたくなった。おかしな表現をするのなら、そう言わなければと思ったのだ。
束の間、俺は彼女に少女を見た。
ずっと宿題をし続けている子ども。底意地悪く愚かな誰かの遺した問いを、解きようのない問題をどうにかして解こうと試行錯誤し続ける気の毒な子どもだ。
「……その人は、休ませておいたほうがいい人間ではありませんか」
解かずとも良い。
そのような問題、放棄すればいいんだ。
ユニさんの心情を鑑みなければ、俺はその人物を〝そいつ〟と呼び、あらん限りの皮肉と痛罵でもって間接的直接的に嘲ったことだろう。
気に食わない。どこか気に食わないのだ。
その存在の痕跡に苛立ちが熾る。
「……」
彼女の俺を見る眼には、重い憐れみが湛えられている。
俺はいま、彼女の基準に沿えば救いようのないことを言ったらしい。
「そんなこと、言わないでください」
窘められる。「もう、言わないでください」強めに念を押される。未だ続く祈りの両手がこれまでで一番強めに抑え込んでくる。眉をひそめ、口をつぐみ、表情は不機嫌極まりない。嫌悪というよりも……拗ねているように見える。それもそうか。彼女にとって大切であろう人間を貶したのだ。その目的を叶えずともいいものだと判じた。許しがたいのは当然だろう。
不思議なものだ。いま俺は不愉快なことを吐いたというのに、まるで反省の気が起こらない。その彼女の案内人とやらの目的は、となれば何なのだろう。
「あなたの案内人の、その目的を教えてもらえますか」
遺した呪いの名を問いかける。
「不老不死です」
ばかばかしく、子どものような理想だ。
救いようのない平凡無思慮なものに過ぎなかった。
「私の目的は、これで全てです」
今一度尋ねます、とユニさん。
「あなたのイオリを、生き返らせませんか」
茶色の虹彩から視線を逸らし、灰色の瞳を見る。不安一色の双眸に見つめ返される。俺の目の前には可能性がある。扉を開ければ、そこには望むすべてがあるのかもしれない。
「……まずは、地下を見てみます」
生き返らせられるのだろうか。
真偽は疑わしい。いいや疑わしいどころではない。純然たる偽だ。
見て、それから判断する。彼女の空理と空論が屋敷の地下に広がっていたのなら、そのとききみの死を永遠のものとしよう。
「私は、あなたの期待に応えます」
ユニさんの眼からは湛えられていた沈痛さが消え去り、決意に満ちていた。
必ず成就させるという、強い、強い意志に漲っていた。両手は離され、彼女の祈りが終わった。
──あの……よしまさ。
恐る恐るの、きみの声が聞こえてくる。
──その、やめたほうが……いい、気がする。
瞳を右往左往させ、優しく言葉を選んでくれている。
──なんだかね、その、私ね、そんな気がしてならないんだ……。
俺を案じ、止めようとしてくれている。
──良い方向にいきっこないって、そう思うんだっ……それに私を生き返らせるって、きみにもう一度触れられるのはうれしいけど、でも、でもね、でもさっ。
自らの願いがあろうに、それを抑えてまで俺の行く末を考えてくれている。
──死んじゃったんだ、私、だからもう、仕方がないことなんだよ。
ならどうして、未練がましく俺の視界に佇んでいる。
「……」
──きみにこれ以上不幸になってほしくない。
……いいや、違う。違う。未練がましく考えているのは俺なのか。きみに非はない。非があるのなら俺にだけだ。死者に意識はなく、死人に言葉は無く、きみはこの世のどこにもいない。魂がある? ふざけるな。気の毒な未練と薬物の毒性が混ざり合った症状を魂の顕現と呼ぶのか?
──お願いだから、考え直してよ。
きみは幻だ。