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雨後の晴れ。
連日の雨に泥土はぬかるみ、掘り返すのに向いている。
両親は二人して朝から出ており、俺は
──どこか、出かけるの?
ひとり、家にいた。
「屋敷へ行く」
きみが殺された屋敷へ。
「外に出ないように」という言葉は父からも母からも出てくることはなかった。外に出らずともよく、家に居らずともいい。自由が与えられているのだと、そう都合よく受け取っておこう。
理由があって他殺した子どもの、その〝理由〟を父も母も正当防衛だったのだと捉えている。信じている。息子の人間性は決して損なわれてはおらず、やむにやまれぬ事情ありきの殺人なのだと。今もなお己の行いを悔やみに悔やんでおり、気落ちしすっかり塞ぎ込んでおり自罰的ですらあるかわいそうな子ども。救うべき、傷ついた弱者なのである、と。
まったくもってその通りだ。
自他ともにそうであれと信じている。
あの犯罪者どもの周囲にも生活は存在したのだろうが、それはお互い様だ。くだらない理由でくだらなく人を殺したのなら、自分自身もくだらなく死ぬべきではないのか。知りもしない子どもにシャベルで殴打されて殺される……相応だ。
なにが起因だろうと関係ない、人を殺したワケに表面上いかなる響きを伴おうと、耳触りの良い文言が寄り添っていたとしても一切関係しない。すべてすべからず報いを受けろ。結果、他人を死に至らせたのだろう? お前も死ぬべきだ。
──だめな表情してる。いま鏡見てるんだから自分でもわかるよね?
「分からない。どんな表情だ」
──とにかくよくない眼つき。
「……はは」
──冗談言ったとかじゃないんだってば。いまの笑うところじゃ全然ない。
「気を付けるよ。ああ気を付ける。誰が見ても安堵できるような穏やかな顔つきを心がける」
──もー。
幻覚にすら呆れられる。
殺した者は殺されろ。道理とはそういうものでは。
正しさとは報いの説得力だ。罰の必要性を他殺者へ説いた諭旨ではないのか。故にあなたは天寿を待つことなく早急に死を享受しなければならない、という主文では。
「ごちゃごちゃ言っていても何にもならない」
自分に向けた戒めとして口にする。
忌々しく延々と繰り返される思考にはうんざりだ。あの女に注入された薬液に無駄な考えばかりをするようになる作用の毒でも入っていたのか。それか……元来俺はそういう人間だったという事実を、今ようやく気づけつつあるのか。
──……。
幻覚の沈黙に見送られて玄関ドアを開けると、幻覚が家の前にたたずんでいる。
陽射しが世界を光らしめている。目が焼けそうなほど眩く、眉間にしわが寄った。蒸し暑さが忌々しく身体にまとわりついてきた。不愉快な一日になる。昨日以前と同じように。
辿り着いた。
眼前には小路が続いている。
十四日前、ここから先の屋敷できみが殺された。
──……。
幻覚はやはり黙している。
自分自身に哀悼の意を表しているのだろうか。自分自身。幻覚に〝自分自身〟は無い。結局は俺の思考の投影であり、反射である。
まさか信じようとしているのか、俺は。
幻覚に、魂が、込められているのだと。
信じたとして? そうすれば、なんだ? 殺された過去が消えるとでも思っているのか、あのどうしようもない痛みがなくなるとでも。信じて、信じたことで在るのなら、生きているのだと信じたら生き返るのか。死者の生を願えば叶うのか。リスクも何も要求せず? 現実を見ていない阿呆な願いを同じぐらい阿呆な世界が叶えてくれるのだと……馬鹿々々しい。魂を語る言葉とは常に理性を無くしている者から発せられているのだと忘れてはいけない。俺はそうでありたくない。俺はそうでありたくは決してない。
──つらいなら、帰ってもいいんだよ。
「それ、俺に言っているのか」
──うん。そんな顔してた。
「いつもと同じ表情だと思うが」
──じゃあ、ずっときみはつらいんだよ。
「……」
自分可愛さの、幻覚からの慰めか。無様にもほどがある。
──もうずっと、つらい思いをし続けているね。
ここで幻に慰め続けられることで事態がどう進む。
二本ついている足を交互に動かし、あの白い仔猫を埋めたところへ行くんだ。 そうして掘り起こし、首輪を確認する。
──起こってしまった不幸は、すべてがきみのせいじゃないんだ。
もう喋らないでくれ。
陽射しが忌々しい。世の眩さが癇に障る。
太陽に焼かれつつ目的の小路に入り、逸れて、木陰の下へ辿り着く。
埋められた憐れな小動物の墓を暴き、いま足元には、溶けている途上の子猫。
汚れた体毛に微かに残る白色のみが、もともと白かったであろう事実を遺している。小さな首輪が崩れた肉の中に埋まっている。屈み、拾い上げようとして、
「なにをしているんですか」
声をかけられた。聞いたことのある声。
そんなかけられるはずのない場所でかけられた声に振り返ると、
「……あなたこそ、ここで何をしているんですか」
ここで会うはずのない人物がいた。
「ユニさん」
サカシマユニ。つい最近からの家庭教師。
「妹が、ここで不幸に遭ったみたいで。少し、見に行こうとここに来ました」
妹が。
ここで。
「……不幸に、遭った」
亡くなった。
「はい……」
つい十四日前、ここできみが殺された。
今に至るまでに同じ場所で続けて二人も死ぬだろうか。無くはないだろうが……もっと〝それらしい〟回答がある。
ああきっと……その不幸の詳細を俺は知っている。
どんなことが起こったのかを知っている。どうなったのかを知っている。どうしたのかを憶えている。きみには姉がいたのか。
「よく出歩く子で、最近は特に……心待ちにしているようにすら、私には見えました。イオリは生まれつき……その、髪や目の色が特徴的なので」
イオリ。きみの名前だ。
サカシマ。きみの口から聞いたことのない苗字だ。
「サカシマ……イオリ……」
──うん。きみはお姉ちゃんと知り合いだったんだね。
ユニさんに並び立つきみが頷く。
それがきみの本名か。……幻覚の。
「イオリの目的は、あなただったんですね」
銀縁眼鏡の奥の、茶色の瞳が俺を見据える。寂しさに、哀しみの滲む表情で、なおも浮かべようとする笑みをもってユニさんは俺を見ている。
姉妹と聞くと、その表情、顔つきが似ている……ようにも、見えてくる。
「私がここにいる理由は答えました。次はあなたですよ、由正」
声音は咎めている風でもなく、むしろ心配の色が濃い。「なぜこんなところに。この時間に? 散歩をするにしては、もっと良い場所がありますよ」
「……殺された仔猫を、ここに埋めました」
きみと。「イオリ、さんと」
「それは……動物殺しの?」
俺の視線の先をユニさんも眺めて、納得したようだ。彼女の表情に色濃いのは同情と憐憫だった。
「おそらく、はい。首輪をつけていたことを思い出して、せめて飼い主に首輪だけでも戻せたら、と思って」
「……確かに、その考えと行動はヒトの美徳にあたるのかもしれませんが」
ユニさんは複雑そうに視線を斜めにそらし、口をつぐんだ。ひどく丁重に言葉を選んでいるようだった。「なぜ、」
再び視線は俺へ戻された。
「なぜ、あなたがそこまでするのですか」
純粋な疑問のように、俺には映った。
ただ分からなかったから聞いているのだ。……そのように、俺には読み取れた。
「最初に行動を起こそうとしたのは、イオリさんです」
「……イオリ、でいいですよ」
ユニさんは目を細めた。「由正。あなたとイオリは、決して悪い仲ではなさそうですから」少しの哀切の混じる表情で彼女は微笑む。
「ふふ、あの子は幸せだったみたい」
そうあってくれたのなら……そうであってほしくある。
「……イオリの、その考えを。行動が。俺には正しいように映った」
理不尽に殺された小さな生き物を弔う。必要なのはその達成だけで、生じるであろう他の結果は……副次的に捉えていた。悲しみに暮れる飼い主から恨み、呪いの言葉を吐かれるかもしれないという可能性を。
「あなたは自分の正しさを得る為に、その哀れな飼い主の心情を無視できるのですね」
──……なに、その言い方。
「いやな言い方をしているのは自覚しています。ですがあなたのその同情、憐憫、善良さは後付けのように、私には思えました」
「……自分が〝良い行動をできた〟と満足するための最も理由として、ですか」
「はい。飼い主からしてみれば、生存をほぼ絶望視していたのではありませんか。わだかまる哀しみを、少しずつ消していく段階だったのでは? そこをあなたが現れて、わざわざ『あなたの愛する仔猫は殺されてしまいました。これがその遺品です』と傷口を再び広げるような真似をする……それを残酷以外で言い表せますか?」
一面としてはそうだ。
俺はそこに目をつむり、自分にとって最も良い結果だけを見ている。つまりは仔猫を弔い、さらには飼い主の心情も幾分か救われるのだろう、という。
──言い返して、よしまさ。何も知らないままでいることだって残酷だよ。何が起きたかも分からない。どうしていなくなったのかも分からない。知らないところで、知らない理由で、ひとりで、孤独に死んで、死体すら見つからない……誰も知らないままこの世から痕跡が消えていく。ひどすぎるよ、そんなの……ひどすぎる。
「残酷だろうと、俺はその正しさを羨ましいと思った。俺もそうでありたいと考えた。だから行動に移す」
屈み、今度こそ首輪を拾い上げる。『SHIRO』という文字が見えた。
「飼い主の憎しみは増すでしょうね。なにせ、殺されてしまったのです。自分がとても、とてもとてもとても大切にしていた存在を……憎悪は、抑え難い感情ですから」
分かるとも。許せはしない。決して、許せない。だから俺はあいつらを皆殺しにした。
「何も知らないほうが残酷だ」
「まだ生きている、という幻想を抱き続けられるかもしれないのに?」
「待つ側はそうだろう。だが殺された側は? 誰にも見つからない、死すら認知されずに消えていくのを残酷とは言わないのか?」
「死者に意思はありませんよ。意識とともに消滅したのですから」
「……冷淡な考え方だな」
そうして現実的だ。「とても、冷たい考え方だ」
俺の言葉にユニさんは少しの間口をつぐみ、眉尻がさがった。不思議な表情だ。俺が言い返した他の言葉よりも、『冷たい考え方だ』という俺の言葉にこそ彼女は傷ついたように見えた。
「その首輪を渡したことで、あなたを不利益が襲うかもしれません」
「それでもいい」
罵声もなにも、可能性のひとつとして折り込んでいる。
「憎悪を抱いた飼い主が、どのような行動をとり始めるのかだって不明瞭です」
「感情は時間が鎮めてくれる」
「本当に? 時間が憎悪を増幅させる場合もあるのではありませんか? エンジュ、あなたは自分が見たい結果をしか見ていません」
「あなたも、自分が見ようとしている結末しか見ていない」
「エン……由正、売り言葉に買い言葉では何も進展しません」
「俺はあなたを納得させたいわけじゃない」
「私も……あなたを問い詰めたいわけではありません」
──嘘つき。「ただ、疑問に思っただけです。なぜあなたが自身の不利益を承知でそんなことをするのか、と」
ユニさんは俺の持つ首輪に視線をやり、茶色の虹彩を再び俺に向けた。
「あなたがそのような行動を採ろうとした経緯を、知りたいと思っただけです」
「理解はできましたか」
「ええ。それを正しいと、由正は考えたのですね」
──最初からそう言ってるのにさ。余計な言葉を付け足すから言い合いになるんだ。意外と意地っ張りなんだよ、お姉ちゃんって。
ユニさんはじっと俺を見つめると、ふ、と口を緩ませた。次いで頭を下げ、
「すみませんでした。私の言葉に、おそらく不愉快になったでしょうから」
謝ってきた。「すみませんでした」二度も。深々と頭を下げてまで。
「いえ……そこまで謝らなくとも」
「ここにいるのは、妹を殺された姉と……、きっと想い人を殺されてしまった男の子の二人です」
頭をさげ、視線を地面に垂直に向けつつ、ユニさんが言う。「気の毒で、哀れな二人組です。お互いに傷ついているのに言い争うのは……感情が不安定という観点から見れば合理的な帰結といえるのでしょうが、とても、哀しい行動です」眼鏡が落ちてしまわないように片手で抑えている。「もしよろしければ」
ユニさんが顔をあげ、
「少し、森林浴をしませんか」
にこりと提案した。
「フィトンチッド、というものを味わってみればいいんです。樹々にはそんな作用もあるのだと、以前に、……母から、聞きました」
「ここは他人の敷地内ですよ」
「そんなこと言われましても。私たちはもう入ってしまっています」
それを言われてしまえば、そうとしか言えない。
「迷い込んでしまいました、とでも言いましょう。そうですね、迷子になった小鳥みたいに、ふらふらとここへ私たちはやってきてしまったのです」
天を仰ぎ、樹々に視線を流し、ユニさんは言う。
「そう。やってきてしまった」
二度、繰り返し、ユニさんは変わらずの笑顔を浮かべていた。「やってきてしまったんだ」三度目の物言いは、
──普通に被害者の知り合いだから現場を見に来た、とかで良いんじゃないかな。
少し、きみに似ている。姉妹、だからか。
「歩きましょう」
ユニさんはひとり、小路へ戻ろうと先に歩き出し、「私たち二人、」立ち止まり、「イオリを亡くした哀しみを共有できる者たちとして、」振り返り、「歩き、」微笑み、「話し、」柔和に口元を笑ませ、「浸りたくなりました」
「少しばかりの思い出話と、古びたお話をしたくなりました」
ユニさんは俺を待っているようだ。じっと俺を見、微動だにしない。
俺が歩き出さない限りは、彼女が再び動きだすことはないようにすら思えた。
「どうしたのですか、エンジュ?」
「……どうして、俺をエンジュと呼ぶんですか」
気づいてはいる。ユニさんは俺を名で呼ぶときと、姓で呼ぶときがある。
「気持ちの問題です」
相変わらずの柔らかな笑みを浮かべ、ユニさんは言う。「不愉快なら、気を付けます」少しばかり、しゅんとなっているように見えた。
「いや、別に不愉快とかでは……少し、気になっただけです」
言葉の通り、気になっただけだ。
俺をどう呼ぼうと、何と呼ぼうとも構わない。
「これからはエンジュ、とだけ呼びますね」
「……はあ。分かり、ました」
エンジュ。延寿。苗字だ。
「由正、のほうがいいですか」
俺の気の無い返事が彼女を不安にさせてしまったのだろう、ユニさんは恐る恐ると尋ねてくる。
「いえ、正直なところ、どちらでもいいです」
俺の言葉に、ユニさんは「それならエンジュとお呼びします」満足そうに笑みを向けてくる。彼女はいまだ立ち止まり、俺が歩き出すのを待っている。
「歩きましょう、エンジュ」
ユニさんのところまでただ数歩ばかりのわずかな距離を歩くと、彼女の浮かべる笑みはさらに深々と……印象としてはどこか幼く、それでいてより幸せそうに感じられた。まるで、
──……お姉ちゃん、ご機嫌だね。
きみの浮かべる笑みのように映った。