故人と『遺族』
スケジュール帳には次々と未来の予定が記される。
明日は誰と何時に何処で会い、何をするのか。明後日はひねもす休息日であり、忙殺されていた時間に出来なかった何をする、だとか。再来週には久しく会っていなかった旧知の友人と会うのだ、とか。
ただ私は……私を含めて誰もが、だ。
スケジュール帳の上に自分がどんな病に罹るかなどは記せない。
細胞がいま現在どれだけ老いていて、分裂回数の限界まで後何回だとか、五感は来週にはどれほど衰えている、とか、体力は来年にはもう現在比でこのぐらい下がっている……だとか、記しようがない。
私たちは自分がいつ死ぬかなど判りようがないのだ。
だというのに、死は何処かの日時に勝手に予約されている。
父は、スケジュール帳に自らの死亡日を予め書き記しておいたのだろうか。
あの体の弱り具合から、覚悟はあったに違いない。だからこそ私たちに死後の立ち回りを聞かせた。私たちに必要なすべての手続きを終え、私たちにとって必要なすべてを伝え尽くして……地下のあれらを遺して、父は死んでいった。
「んー風が涼しいね。晴れてよかった」
紗夜とふたり、父を納骨した墓の前にいる。
死人を送る為の儀礼は済んでいる。納骨式は既に終わり、日常は戻ってきている。父親が恒久的に欠落した日々が私たちの目の前に続いている。
「私の一番したくないことって、さ」
何でもないような口調で、紗夜は言う。
「それからもずっと大切な人のお墓に花を供え続けることなのかも。今、ちょっとそう思った」
「そんなこと……誰だって嫌だろ」
「きみも?」
紗夜が私の顔を覗き込む。意外という表情ではなく、からかう調子が多分に含まれている業腹ものの顔だ。「槐くん。涙出そう? いいんだよ?」
紗夜が私に両手を向ける。胸を貸してあげるよ、と云いたいのだろう。
「必要ない」
「そっか。必要なときがあったら言ってね。私の胸は無期限にきみへ開かれていることを忘れないで」
「……」
言い返す気が湧かず、頬を撫でる風のみに意識が向いていた。湿りに湿った鬱陶しい風だ。視界の端には翼を広げて飛び去る名も知らない小さく白い鳥がいた。
「私、死体を遺したくないな」
空は青い。
「最期は、行方不明になりたいな」
いつか聞いた紗夜の望み以外に聞こえるのは、枝葉の擦れる音だけ。そよ風になびく黒髪を、紗夜が片手で触れている。
「長生きしたいね」
紗夜が困ったように眉尻をさげ、私を見ていた。
「長生きするんだ」
私の手帳はやがて限りの無い頁を持つだろう。
その祝福されるであろう結実の日が何時になるのか、未だ私は予定に記せずにいる。
「家に戻ろう」
父の墓を見つめる紗夜の横顔へ声をかける。そうでもしなければ義姉は何日もここに立ち尽くすように思えたからだ。「父さんにはここでいつでも会える」
「きみはそんなこと言わないよ」
即答だった。
墓を見つめる紗夜から。父の墓から視線を外さず。
義姉の口の端は歪み吊り上がっていた。きっと今の私の発言に含まれる何かが途轍もなく愉快だったのだろう。「きみは死ぬことをこの世からの完全な消滅と考えてる。きみのなかでお父さんはもうどこにもいない」
「なのに」
紗夜が視線を墓から私へ移す。「きみは」
哀惜が笑みのような歪みを浮かべさせることもあるらしい、と私は義姉の表情から学んだ。
「『ここでいつでも会える』だなんて、言うんだ?」
真っ向から義姉の視線を受ける。
平常心が揺らぎ、消化できない感情が矛先を探しているのなら、その獲物になるぐらいの協力はしてやろう。
「思ってもいない慰めを口にするなんて……きみはやっぱり優しい人間だね。他人を慰めるために自分の信条を枉げられるぐらい優しい」
「死んだ人間をいつまでも引きずるな、と言った方がよかったか?」
死人に未練を抱くな。
この言葉は当人の口からのみ発せられるのではないか。自らに向ける発破として……ああ、発破は他人からも行われるのか。発する機会を誤れば、こうして相手の心情を鑑みない残酷な言葉となるようだが。
「ッ……!」
現に、私の言葉は紗夜をより感情的にさせている。と思えば、義姉は息を深く吐きだし、大きく胸を膨らませ、また吐きだした。深呼吸をしている。
「……ごめんね。少し私いま、心の余裕がないみたい」
私が思っていたよりも、紗夜は自分を律せる人間であるらしい。
「こういう状況で……こんなときに。ある方がおかしいんだ」
紗夜と私とでは父と過ごした過去の重みが違う。父の死に受けるモノの度合いも当然違う。そのことを深く追及するつもりはない。必要以上に慰める予定もない。紗夜が噛みついてくる理由を理解しており、納得してもいる。
「だからきみが余裕のない振舞いをしても、俺は特に何も思っていないよ」
「……うん」
だから義姉が私へどう噛みつこうと何も気に病む必要はない。
「もう少しここにいたいか」
黙り込む紗夜へ言うと、「ううん」と首を横に振った。「帰ろ」
「ああ。分かった」
歩き出そうとすると、「だって」と紗夜の声が背中に届く。振り返ると、にやつく義姉の表情があった。まだ、平生の完璧なにやつきではなかった。
「様子を見に行かないといけないもんね、きみの大事なあの真っ白な女の子の」
地下室の少女は、いまも眠りについている。
「そうだな……俺の大事なあの子を見に行かないと」
「……」
すると紗夜は無言で屈み、石畳の上に落ちていた木の枝を拾い上げた。
その突端を、あろうことか私の方へ向ける。
「……なにを?」
「……ふんっ」
木の枝で突き刺されるも、所詮は細枝だ。私の身体を貫通することは当然あり得ず、ポキリと空虚な音を立てて折れ落ちた。
「刺してやったよ」
紗夜が言う。自慢気だ。
「刺されたらしいな……」
紗夜の様子が今おかしくとも、時間が彼女を平常へ戻す。
「私けっこう独占欲強いかも」
「強欲なだけだろ。欲しいものは何でも手に入れないと気が済まないわがままな人間なんだ」
「うふふ。もう一回刺してあげるっ」
紗夜がまたもや木の細枝を拾い上げ、私に突き刺し枝が折れ飛ぶ。
「バカなことをしてないで帰ろう」
「大切なあの子の様子が気になってしょうがないから?」
「その通り」
再三、枝で刺された。
枝は私の身を通らず、憐れにも折れ飛び地に落ちた。
「俺はあの子を目覚めさせるつもりだよ」
「そうして、なに? プロポーズでもするの?」
「話をしたい」
「本当は身体目当てでしょ」
「身体も、あの子の協力のもとに調べてみたい」
「うわ、ドへんたいだっ……!」
……誰も何も干渉しなければ、少女の眠りは永遠なのだろうか。静かに、安息の夢を見続けているのだろうか。
気の毒とは思うが、起きてもらおう。
願う私の為の永遠を自らの手で掴むため、私は少女の平穏な永遠を絶つ必要がある。永遠を望むような身の程知らずの目の前に現れてしまった不運を嘆いていただきたいものだ。
「タクシーで帰る? 途中までならバスでもいいけど」
「歩きでよくないか。そう遠くないだろう」
「そんなに私とお散歩デートしたいんだ?」
「タクシーで帰ろう。あるいはバスだ」
「タクシーデート、もしくはバスデートだね」
……もう何も言わずにおく。
私たちはバスに乗り、途中からは歩いて屋敷へ帰った。
「お手伝いさんたちにお暇を出そうと思うんだ」
「承知した」
「二つ返事だね。掃除するの私たちだけになるんだよ? 雑草だって刈らなきゃだし、料理だって自分たちで作ることになる。もちろん買い出しにも行かないといけない。お店までちょっと遠いから買って持って帰るのも大変だと思う。主に槐くんの苦労がとてつもなく増えるんだよ?」
「いいさ。苦労しよう」
「……」
「どうした?」
「ううん。そうだね、苦労しよう。二人で苦労していくんだ」
道中、紗夜はどこか満足そうに笑っていた。
陽が暮れようとしている頃に屋敷へ辿り着き、紗夜は手続きをしないと、と父の書斎へこもった。父の遺したPCを用い、使用人たちへ暇を出す為の正式な書類を作成するとのこと。手伝おうかという私の言葉に、紗夜からは「いらない。涯渡家の当主は私だから、私がする。きみは地下室の大切な女の子を思う存分眺めていなよ」と返ってきた。なら、そうさせてもらおう。
紗がかかったような夕闇に、塔が薄ぼんやりと佇んでいる。
入口を解錠し、地下へ降りる。廊下を歩き、一番奥の部屋へ。
「……」
白くて灰色の少女は今も眠っている。
眠る顔は穏やかで、見ている夢は悪夢ではないらしい。
培養槽の後ろに伸びる配管からは絶え間なく液体が流れていて、それが彼女を生かしているのだろうか。あの液体は何だろう。原形質を溶け込ませたスープのようなものか。
「……」
きみはどうすれば目覚める。
条件があるのか、時間指定されているのか。
未熟者には早すぎる代物だから、時間を置かないといけないのか。現に私は何も知らない。この地下にある何ものも私の口では説明できない。
「……早いほうがいい。可能な限り」
眺めていたところで少女は目覚めない。
私は部屋の中を見て回り、地下室の他二部屋を見、塔を出た。途中蔵書室によってから部屋へと戻る。
自室の電灯をつけると紗夜がいた。
何を思ってか私のベッドに腰かけ、暗闇のなかにいた。
「追い出すための文面はできたのか」
私の底意地の悪い言葉に、紗夜は「うん。私仕事が早いから」と傲慢に返してきた。
「少しお話したくて」
「改まってどうしたんだ」
「ううん……特にどうした、とかはないんだけど、なんとなくかな……」
蔵書室から持ってきた数冊の本を机に置き、私は椅子に座る。
「勉強するの?」
「目を通しておくつもりなんだ」
「んー。見た限りだと、古めの本だね。あんまり古い本ばかり読んでると、カビくさいことしか言えなくなるよ?」
「構わないさ。カビすら生えていないのが現状だからな。次の休日には、月峰大の図書を利用させてもらう」
「あそれ面白そう。私もついていこうかな。後で目録見ておこうよ。お父さんのパソコンでさ。必要な資料の目途を立てておいたほうがスムーズだよ」
「確かにな……そうしよう」
会話は途切れ、私が手元の本を読み始めても、紗夜は依然としてベッドに腰かけている。何をするでもなく、ぼんやりと私を眺めている。
父の不在は、彼女を深く動揺させている。
もう何度も思ったことだが、改めて感じる。
「生き物は、どうして死ぬんだろうね」
紗夜の口から出るのは、幼児のような疑問だ。
「そういうものだからだろ」
「そういうものって?」
「あらゆる事物に永遠は適用されない、という前提のもとで世界は成立している」
「世界……ふふ、スケールの大きい単語を使うんだね。具体性をできる限り無くして、自分の言葉の逃げ道を作っているんだ」
「俺と口ゲンカするためにきたのか、きみは」
紗夜の言葉は図星だ。
私も分からない。
なぜ、私達が死ななければならないのか、その根本的な事由が理解できない。
「ううん。そんなつもりはないよ。書類作っているときにふと、今ごろ槐くんは地下室のあの綺麗な女の子を舐め回すように眺めつくしているんだろうなと考えてたらなんかムカついてきて、驚かそうと思って暗い部屋の中にいても槐くんは微動だにしなくて、なんか更にイラっときたの。それだけかな」
「そんなつもりあるだろ」
生物学的観点から、死が正しいからか。
ヒトという種の存続に、長きを生きて人として型落ちしたロートルはもはや必要ないとでも? 新しく生じた命の為に道を空けろと? ヒトが死ななければ消えず、増えてばかりではやがて世界が飽和するという懸念か? 誰の懸念だ。誰が正しいと決めた。時限を設けて可能性を剝奪するのが正しいのか。
正しさなどそんなもの、一面から見ただけの盲目的な決めつけだ。
なら私は、……私が正しく思う俺の廸を行く。他者から見て歪んでいようとも、私の眼前に真っ直ぐ延びていると映るのならば正しく歩めている。…………『他者から見て歪んでいようとも』? 誰の理解を求めている。誰の視線を考えている。不要。不要だ。必要ない。
「あーあ……」
ぽふ、と紗夜が仰向けにベッドへ倒れこんだ。
「暇なのか?」
「うるさいなー」
私の言葉に、紗夜は投げやりだ。「ねえ、槐くん」
「こっちにおいでよ」
仰向けの紗夜が視線だけをこちらへ向けて言う。
無防備に彼女は身体を投げ出していて、何に対する拒絶の意思も放棄しているように見えた。あるいは受容か。何があろうと受け入れる、という。
「おいで?」
もう一度、紗夜は言う。
今なら私が手に入るよ、とでも言いたげに。
「きみも、誰かに縋りつきたい気分になる時があるんだな」
私の返答は、彼女の望むものではなかったらしい。
紗夜からは無言の視線だけが返ってきた。
「……今日、ここで寝る」
か細く、紗夜の声。
「よく眠れるといいな」
「うん……」
言葉がまた途切れ、私のページをめくる音だけがする。
「槐くん」
「どうした」
「くそばか」
私を罵倒し、紗夜は満足そうに目を細めると、つぶった。「あの白くて綺麗な子とお幸せに」
そのまま静かになった。
どうやら本当に眠ったらしい。
「……」
本の続きのページをめくる。
それから何時間経っただろうか、紗夜は起き上がると、「お風呂……」と部屋を出て行った。出ていく間際に、「槐くん」
「なんだ」
「お幸せに」
多分に揶揄の調子を含んだ言葉を残していった。
自室にはページをめくる音だけがある。
お幸せに、とは。
死ななければいけない理由を考えていたが、生きなければいけない理由は何だろうか。幸せを追求するためか、永遠は時間の無制限さから試行回数は無限となり、机上ではあらゆる可能性が結実するだろう。幸せも、そうだ。叶う。
不老不死を望むのは、幸せになりたいから。
具体性を限りなく無くせば、私の望みもこのように表せる。
「……」
その言葉の、この願いのあまりに陳腐な響きに、私の思考から出てきたものとはいえ馬鹿々々しさにひとり笑みがこぼれてしまった。
「なに笑ってるの?」
「っ!?」
突然声を掛けられた。
見ると扉の隙間から紗夜が覗き込んでいる。
「扉、閉めてなかったんだけど。気づいてなかったでしょ」
確かに扉の閉まる音を聞いた記憶がない。「そんなに集中してたんだ」
「普通、あれで出て行ったものだと思うだろ。きみの行動が常軌を逸しているから考えが及ばなかったんだ」
「まだまだ未熟だね、槐くんは」
「早く風呂に行け」
「それにさ、常軌を逸したって結構な暴言だと思うんだけど……」
「事実だろ。風呂に行け。そして寝ろ」
しぶしぶといった様子で、隙間から覗き込んでいる紗夜は扉を閉め(今度は閉まるまで見届けた)去って行った。
鍵を閉めてやろうかと思ったが、まあさすがにもう眠るだろう。
「槐くんもお風呂入りなよ」
ページをめくっていると、しかしながら紗夜が携帯を片手にやってきた。髪は乾かし、パジャマ姿だ。
「分かった」
それだけ返すと、紗夜が「じゃあ、おやすみなさい」と言い、「おやすみ」と私も返す。そうして紗夜は私のベッドにもぐり込み、眠りはじめた。
「……」
芯から眠ったらしく、その後私が風呂から戻ってきても眠っていた。
床で眠るのも癪なので、自室の電灯だけ消し、私はサロンのソファで眠った。そのおかげで翌日は終日不調となった。義姉はときに常軌を逸する。