繁華街にて
現在の時刻は午後八時の五分前。
巌義麻梨との待ち合わせ時刻は午後八時。
繁華街へ向かう通りの途上にある雑居ビル一階の前で延寿は待っていた。麻梨はまだ来ていない。西に燃えていた夕暮れはとうに地平線の奥に落ち、辺りに夜が広がり始めていた。
傘は持ってきていなかった。
予報を見たとき、午前零時を過ぎた辺りからの降水となっていた。そんな時間まで街をうろつくつもりはなかった。
延寿の視線の先。
繁華街とは逆側の方向から、薄闇の中誰かが歩道を駆けてくる。
巌義麻梨だろうか、と延寿は思い、
「……!?」
息を呑んだ。
電灯が照らしだすその誰かは、顔が覆われていた。
黄色く……麻で編んだような袋──ずた袋を、かぶっていた。ずた袋女、という単語が延寿の脳裏に浮かんだ。
ずた袋には三か所穴が空けられている──ちょうど両目と口に当たるだろう箇所に。そんなものを頭からすっぽりかぶっている圧倒的なほどの不審者が、コミカルにおーいと手を振りながらこちらへやって来ているではないか。
延寿はちらと周囲を見た。周りに人はいなかった。
ならば自分だ。アレは自分を目的として走ってきている。
どんどん近づいてくる。
近くになればなるほど、アレはずた袋をかぶっている変質者だった。ハイウエストのパンツにゆったりとしたシャツを着、上から爽やかな寒色のデニムシャツを羽織っている。なのに頭はずた袋。全身から溢れ出るお洒落感を鏖殺するようなワンポイントコーデ。もしかして、もしかしなくともこの人物は……
「巌義か」
延寿は推測を口にした。身体は小柄、ずた袋の下側からは二つ結びの髪先がかすかに見えている。
「はいっ。お待たせしてすみません」
麻の奥から聞こえた声は、巌義麻梨その人だった。
「どうしてずた袋を?」
当然の疑問を延寿は口にする。
「家にありましたので」
家にあったからのようだ。
「なぜここへかぶってきた」
「延寿さん驚くかなーって。驚くといいなあって」
楽しげな声がずた袋の向こう側から聞こえた。「驚きました?」「驚いたよ」「やったっ」
「今のきみは不審者だ」
「自覚してますっ」
「ずた袋女と間違われる。紛らわしいから取ってほしい」
「取ってください。これ呪われていて……私の手では取れないんですよ」
ずた袋をかぶった麻梨が、「どうぞ」と延寿へ頭を突き出す。
延寿はずた袋の先端を無言で掴み、引っ張った。あっさりと取れた。
「ずた袋女の正体は私でしたーっ」
にこりと、顔を上げて麻梨が延寿へ笑んだ。一切の真実が彼女の言葉にこもっていなかった。
「……行こう」
「ずた袋どうします?」
尋ねる麻梨へ、「俺が預かっておく。呪われたそれをきみがまたかぶるといけない」と延寿は言い、麻梨へ手を差し出した。こっちに渡してくれ、という手だった。
「延寿さんも冗談っぽいこと言うんですね」
珍しいものを聞けました、と嬉しそうに微笑んで麻梨は言い、「でもあげません。これは私のずた袋です」と妙な独占欲を示した。「……そもそもきみのものだものな」延寿は出した手を引っ込め、「街中ではかぶらないでほしい」と念を押す。
麻梨の分かりましたという言葉を聞くと、そのまま繁華街の方へと歩き出した。すぐに麻梨はその隣に並んだ。彼女はまたもや薄笑みを浮かべていた。
「持ってきた私が言うのもなんですけど、これなかなかお荷物ですね……」
ずた袋を片手に、麻梨がそのようにこぼした。
繁華街の中央通りは相変わらずの人の多さだった。
晴れの日の週末の午後八時過ぎともなれば、この街はいよいよ活気に満ちてくる。隣できょろきょろと辺りを楽しそうに警戒しつつついてくる麻梨と共に、延寿は道行く人の表情を見ていた。多様だった。身内に不幸があったのかと思うほどに昏い表情の者もいれば、この世には楽しいことしかないと確信しているようににこやかな者もいた。
ふと、延寿は袖口を引っ張られた。麻梨だった。
「延寿さんあれ。防犯カメラです」
そう言った麻梨の指さす先、電柱の半ばほど。
確かにこちらを見下ろすレンズがあった。
「注意して見てみると、防犯カメラって意外とあるんですよね。月ヶ峰の中でもこの繁華街周辺はあんまり治安がよろしくありませんし。嘆かわしいです」
はあ、と芝居めいた嘆息をし、麻梨は続ける。
「けれども路地裏には死角が多いです。表通りに比べて裏通りも路地裏も防犯カメラの数は遥かに少ない。だから、ずた袋の女がいるのはそこしかありません」
「詳しいな」
延寿の一瞥に、「地元民ですから」と麻梨。そういう意味でなら延寿も地元民だ。しかし延寿は防犯カメラを気にするような散歩をしたことがない。
「そこ、入っていきましょう」
麻梨が指す先は、ビルとビルの間の細い道だった。
延寿は同意し、流れる人の波から外れ、ビルの合間へと入っていく。
「ただしここからは身の安全は保証できかねます。何度でも言いますが、この街は治安が悪いです」
にやりと小悪魔じみた笑みを浮かべて、麻梨はそう言った。
「ずっと住んでいる。分かっているよ」
淡白に答えると、延寿たちはビルの合間を歩き出した。
室外機がごうごうと唸っている。飲み捨てられた空き缶が律儀に直立していた。何故だか置いてある所々が欠けたプランターを覗きこむと、中身は空っぽだった。表通りの薄汚い華やかさに比べると静かなものだった。
「うええ。誰かあそこに吐いちゃってますよぉ……」
とん、と眉を顰めた麻梨が身体を寄せてきた。
腕に麻梨の肩が当たる。延寿はそんな彼女と気付かない程度に少し距離を開けると、周囲を見回した。誰もいなかった。
「道行く人は、私たちのことをどう見たのでしょうか」
「どう、とは」
「若い青年と若い女の子のセットです。カで始まってルで終わるあれに見えたのでは? 延寿さん分かります? 知ってます? ちなみにカルテルではありませんよ。カンフルでもカテルでもカロメルでもカーティルでもありません」
むふふ、と目を細めて愉しげな様子の麻理が言う。
「カップル、か」
「その通り。不純異性交遊予備軍の別称です。そんな風に見られた二人組が路地裏へ続く道に入って行った……ああ、青春だわ、となったのではないでしょうか」
「不毛な憶測だよ。例えそう映ったとしても実際は違う」
「はー。やっぱり延寿さんは正しいことしか言いませんね」
やれやれと肩を竦めると、麻梨は「こっちに曲がってみましょう」と延寿の手を引いた。指さす先にはやはり誰もいない。設置されてそのまま忘れ去られたみたいに孤立している自販機の明かりが煌々と照らしている。表の喧騒もずいぶんと遠くなった。
「あ、今さっき私が言った正しいというのは、客観的に見てその通りである、という正しさです。事柄の本質だけを延寿さんは淡々と言ってくる」
とん、と麻梨は延寿よりも一歩前にでるとくるりと振り返り。
「相手の望む答えは、きっと別にあるというのに」
そのように微笑んだ。薄い笑みだ、と延寿は感じた。笑っていないのだろう、とも。
「もう少し、ずた袋女を探してみましょう──今この瞬間においても、どこかには必ずいますから」
その後、延寿と麻梨は路地裏を歩き回った。
出会ったのは酔っ払いの群れと、道路の端でうずくまる酔っ払いと、酔っ払いを介抱する者と、「ああ!? てめえこの前のッ!? お、お女連れだとぉ!? 軟弱物がァ!!」リーゼントヘアと「ここで会ったが百年目だ!」坊主と「兄貴! やったりましょうぜ!!」角刈りだった。
「い、良いんですか、あの元気の良さそうな三人組の方を無視してしまっても……ほら、喧嘩の準備万端だった彼らが呆然と私たちのことを見てますよ? 『いやお前、無視すんのかい……』という眼で見てきていますよ?」
「今の目的はずた袋女を探すこと。あの三人の相手をしていると時間の無駄になる」
いないな、と延寿は周囲を見回す。
雑居ビルの地下へと続く薄暗い階段を覗き込み、ビルの隙間へ視線を送り、ガラス越しに明かりの点る店内を見た。それらしき人物はいなかった。
「あの三人組なら、ずた袋女についても知っているのでは? 私は学校内であんな特徴的なリーゼントヘアを見たことありませんから、きっとロ高の人たちですよ。見た目同じぐらいですし」
「ああ……そうか。そうかもしれない」
麻梨の言葉に延寿は踵を返し、「ここにいてほしい」と麻梨へ言い残すとまだ同じ場所に佇んでいる三人組のところへと行き、何かを会話し、若干キレさせて、またすぐに戻って来た。「知らないらしい」
「そ、そうですか……知らないのなら、まあ、はい……」
麻梨はまたもや置いてけぼりをくらっている三人組へ憐れみの視線を送ると、すぐに延寿と共に歩き出そうとし──「待て」延寿が手で制した。
「ど、どうされ……」
「こっちを見ている」
延寿は側方、ビルとビルの隙間になっている路を見ていた。
十数メートル先にその人物はいた。
先ほど見たときはいなかった。いつからいたのか。自身があの三人組と会話し、戻って来た辺りだろうか。「……フードを、かぶった」
その人物は目深にフードを被っていた。
そして小柄だ。暗色のパーカー姿のために夜闇に紛れており、かろうじてポケットに両手を突っ込んでいる姿が薄く見えた。
なによりも──灰色の瞳が特徴的な輝きを夜に浮かべていた。
「まさか、『案内人』!?」
息を呑み、麻梨が気圧されたように後じさる。
「いいや、恐らく違う……イオリ」
延寿が呼びかける。
つい最近、雨降りの繁華街で一度だけ出会った人物から聞いた名だった。フードの人物は呼ばれた名前へ対して何も返さず、灰色の瞳を只管延寿と麻梨へ注いでいる。
ガイドは黒髪の黒眼だ。
伊織は白髪の灰眼──見た目からしてガイドと違う。
「し、知り合いの方ですか?」
「一度だけ会った」
「ではなぜ、延寿さんは無視されているのですか?」
「聞こえなかったのかもしれない。沙花縞伊織、きみの名前だろう?」
延寿が再び呼びかける。
「…………気安く僕の名を呼ぶな」
冷たく言われ、フードの人物は延寿たちに背中を見せて歩き去って行った。
「……延寿さん、もしかしてあの方に嫌われているんですか?」
おそるおそると、麻梨が尋ねた。
「かもしれない」
あの人物は確かに沙花縞伊織その人だ。フードを目深にかぶっているという『案内人』との類似はあるものの、ガイドが放っていた圧迫感と身の凍るような殺意が皆無だった。外見の違いもある。
少し怒っているように見えた理由は見当もつかなかった。
「あの子、一人で大丈夫なのでしょうか」
「次に会ったら早く帰るように言おうか。この前も三人組に絡まれていた」
「絡まれてって……ということは延寿さんがあの子を助けたんですか?」
「……三対一は正しくない」
「それはそれはっ」
まあ、と麻梨は瞳を輝かせると、「立派な行いです。同じ風紀委員として誇らしいっ。そんな延寿さんの行動を褒めてくれる人は現時点ではきっといないでしょうから私が褒めますっ。褒めて、その上で飲み物をオゴります!」と延寿の返答を聞かずに道端の自販機へと歩み寄って行った。「何が飲みたいですか?」
「……いや、遠慮する」
「いいですいいです遠慮せずとも。本当のことを言えばただ私の喉が渇いただけですから、ついでに延寿さんにも何か飲み物を上げようと思っただけですから。何もないなら私がランダムに選んじゃいますよ。今のところ候補はこの『水』です。味気ないですっ、何か私に要求した方がいいですっ」
「……なら、水で」
「え。ほ、本当に水でいいんですか? ありますよ、コーラとかコーヒーとかココアとか」
「いいんだ。水も嫌いじゃない」
「それならまあ、延寿さんが良いというのなら……」
麻梨は硬貨を投入すると、『月ヶ峰の天然水』と単調な名称がラベリングされた水のボトルの下のボタンを押し、出てきたボトルを取り出すと、もう一度同じボタンを押した。
「きみは水で良いのか?」
「いいんです。嫌いじゃありませんから」
そう微笑むと、「はい」とボトルを延寿へと手渡した。「ありがとう」延寿の礼へ、「いいんですよ」と麻梨は目を細め「もっと感謝してくれても」更なる感謝を要求した。
「喉が乾いていた、実際助かったよ。ありがとう」
「延寿さんってやっぱりクソ真面目ですね」
要望通りに礼を言い、そんな言葉を返されて。「事実だな」と延寿は微かに口の端を上げ、そのままキャップを外し、ボトルに口を付けて傾けた。冷たい感触が乾いた口内を流れゆき、喉が鳴った。
「良い飲みっぷりです。延寿さんの笑っているところも見れました。今日はきっと良い日ですね」
楽しそうに、歌うように言うと、麻梨もまた両手で抱えるボトルに微かに口をつけた。喉を湿らすだけのような飲み方だった。
「喉も潤ったところで、よし、探してやりましょうずた袋の女を!」
気合十分と麻梨はぎゅうとずた袋を握りしめて宣言する。
「そうだな。なにか見つかると良いが」
延寿も答え、二人は再び路地裏を歩き始めた。
何も見つからなかった。
隠れ家的なバーの中に入ってずた袋女の目撃情報を尋ねて「知らないよ」と一蹴され。
路地の入り組んだところにうんこ座りでタバコを吸っていた不良集団に尋ねて「ああ!? んだてめえ女連れで俺ら彼女いない悲しく虚しい野郎どもを挑発しに来たのか!? おお!!? 今すぐ俺たちの目の前から消えやがれ! じゃないとみっともなく泣き始めてやるぞっオラァ!!」と凄まれ。
雑居ビルの地下へ続く階段に腰かけて何やらくっついてもぞもぞしているカップルに背後から尋ねて「消えろ」と男の方に吐き捨てられ。
色々探したが、結局何も見つかりはしなかった。
「はあ。収穫なし、ですね……」
がっくりと麻梨が肩を落とす。
彼女が手に持っているボトルの中身も、何時の間にやら半分以下に減っていた。延寿の持つボトルも同じぐらいの容量となっていた。
二人は今、路地裏を歩き回った末に繁華街が離れ、公園の中でベンチに座っていた。通り過ぎていく車のヘッドライトがちかりと過ぎ去った。
「延寿さん、私少しお花を摘みに行って来てもよろしいでしょうか」
公園の端にあるトイレを指さし、麻梨が言う。「ああ」延寿が短く答える。
「延寿さんはお花摘まれないんです? けっこうお水を飲まれていましたし、延寿さんも今がお花の摘み時なのでは?」
麻梨の言葉に、「きみの後に行くよ」と延寿。
そうですか、と麻梨はトイレの方向を見、不安げな瞳で延寿を一瞥すると「私がトイレから出たらいなかったり、とかはやめてくださいね」と言う。「するわけがない」と延寿はきっぱりとその可能性を否定した。
安堵したふうに息を吐くと麻梨はトイレへと行き、十数分後に戻って来た。
「夜の公園のトイレって不気味ですね──あ、お水は置いたままで良いですよ。私が責任を持って見張っておきます! 延寿さんのお水を持ち去ろうとする輩や、延寿さんのお水に何やら良からぬものを混入しようとする輩から私が死守します!」
気合を入れる麻梨へ、「じゃあ頼んだ」と延寿は麻梨の隣に水のボトルを置き、トイレへと向かう。男性のアイコンがある方へと入り、小便器の前に立った。電気は既に点いていた。臭気が漂っていた。あまり掃除はされていないようだった。
用を足す延寿の背後には個室トイレがあり、扉は現在閉まっていた。鍵の部分が赤色になり、閉まっていると主張している。
電気は延寿が来たときには点いていた。
個室には鍵がかかっている。
つまり、先客がいるということだ。
「お兄さん、イセカイに興味はない?」
そんな問いが。
すぐ背後から。
ガチャ、と鍵が解錠される音も、また。