『さかしら人』と屋敷の地下
「白猫にも黒猫にも逢わなかったねー」
ちょっと期待したのになあ、と紗夜が言う。
私たちは屋敷へ歩き着いていた。玄関扉を私が開け、エントランスホールの中にいる。シャンデリアに見下ろされ、立ち止まり二人で会話をしている。
「傘を失くしたりもしていないし」
お父さんはそろそろ亡くしちゃうけど、と紗夜がひとり笑う。笑みというより歪みに近い。彼女の不謹慎な冗談は彼女自身を不愉快にさせただけらしい。
「人の名前とかも忘れたりしていないし……いないよね? 私、人の名前憶えるの得意だもん」
「俺はどんな名前だった?」
私が問いかけると、紗夜はにっっっこりと重厚な笑みを浮かべる。彼女の口から正解は出てこないのだろうな、と私は確信した。
「エンジュヨシマサくん」
なぜ出てくる。そんな含みのある笑みを浮かべておいて。そこはわざと間違うところじゃないのか。
「槐くんは私の名前、きちんと憶えているよね?」
「ハテワタリサヤ、だ」
途端、紗夜が不機嫌に眉をひそめる。
「誰、その女。私の知らない女の名前をきみの口から出さないでよ」
「きみだよ」
うん、と紗夜。あたり、と彼女は言う。よくわかったね、と義姉は表情を歪ませ、撫でてあげると、私の頭に手を伸ばす。頭をずらし、向けられた手をかわす。
「けっ。傷心のお姉ちゃんのささやかな願いすら叶えさせてくれないのかなあ、この弟くんは」
唇を尖らせ、平生のにこやかな彼女らしからぬ悪相を浮かべる。
「傷心なら寝ろ」
今の紗夜にはゆっくりとした精神の休養が必要だ。肉親の喪失が彼女につける傷の深さは私には想像しかできないが、現状の情緒の不安定さから鑑みると寝た方が良い。
「悪夢みたらどうするの? どう責任取ってくれるの?」
「知るか」
話を聞くぐらいしか私にはできないのだろう。
「けっっっ。もし悪夢見たら泣きながら槐くんの部屋に突撃しよっと。うろたえるがいい」
紗夜に必要なのは時間の経過だ。
「お嬢様、由正様」
声をかけられた方を向くと、上分さんがいた。いつもの古めかしいエプロンドレス姿で、にこり、とはしておらずどこか私たちを憐れむような表情で、その手には一通の封筒を持っている。いかにも手紙手紙した長方形の真っ白な封筒だ。見たところ封蝋すらされている。
「旦那様から、お二人に渡すように言われています」
「え、はい」
差し出された封筒を紗夜が受け取る。不思議そうな顔だ。その封筒の理由を、彼女も知らない。「あ。封蝋されてる。涯渡の印だ。なんだか貴族みたい」そんなことを呟いている。
「こちらをお使いください」
「ありがとうございます」
次いで紗夜に手渡されたのは、翼の意匠が施されている銀のペーパーナイフだった。準備の良いものだ。
「内容をご確認頂いたら、後はお二人の判断に任せる、とのことです」
では、と上分さんはそれ以上の説明を放棄し、私たち二人の傍から離れて早々に屋敷の奥へと歩き去った。伝えるべきことだけを言われた通りに伝えきった、とばかりに。
「……どういうことだろ」
取り残された紗夜が、同じく取り残された私へ首を傾げる。
「開けてみてくれ」
そうでなければ何も事情を理解できない。
「きみが開けなよ。いまとても指図されたくない気分なの」
とたんに不機嫌を滲ませた紗夜に封筒とペーパーナイフを押し付けられる。反抗心がそこはかとなく湧いてきたがそれでは何も進まない。ただ、タイミングが悪いだけだ。
本当に……どうしてこんなタイミングに、父は私たちへ封筒を寄越した。自身が死ぬ寸前にあるというそのときに、なぜ。意図が分からない。
「早く」
紗夜に急かされる。「分かっている」封筒にペーパーナイフの刃先を押し当てる。封蝋されており更には糊付けまで隙間なくされている。厳重すぎる。差し込む場所がない。
「……使い方、これで合っているのか」
「す、と差し込んですす、と切ればいいよ」
「きみがしてみてくれ」
「しょうがないなあ。かわいい弟くんの頼みだから断るわけにもいかないしなあ」
吐き出したい言葉が一瞬で山積したが、どうにか抑えて紗夜へ封筒とペーパーナイフを返した。
「こう、すっとすれば刃先がすーと入るからそこからすすす、でこんな風に切れるの」
器用に紗夜が封を開けていく。開け切ったあと、彼女は自身のポケットにペーパーナイフを入れた。
「きみは刃物の扱いが上手いんだな」
「手先が器用だからね。包丁だってささっと何だって切れる。我ながら良いお嫁さんになれそう。見直した?」
「殺人鬼に向いている」
「ふふ。槐くんは私が今凶器になり得るものを持ってるってこと忘れてるね」
物騒なことを言いつつも特に刺してくる素振りは無く、紗夜は封筒の中から一葉の手紙を取り出し、先に目を通した。
「ふむふむ。お父さんの筆跡だ」
「何が書いてあるんだ?」
「見てみなよ」
紗夜が差し出してきた手紙を受け取る。何の変哲もない、一枚の便せんだ。そうして記されているのは、ただ、一文だけ。
『屋敷の地下へ、向かいなさい』
屋敷。地下。
真っ先に思い浮かんだのはあの塔だ。以前、紗夜とともに入ろうとして、マスターキーが鍵穴を通らなかったどこかへの入口。あるいはどこかからの出口。
「私たち、どうやらこのお屋敷内のすべてを見る権利を手に入れられたみたい」
同様に思い至っていた紗夜が言う。「あの塔に入る許可を、お父さんが下した。『まだ早い』『まだ早い』って言ってたお父さんが」
「どうしてこのタイミングなんだ」
父は何を考えて、自分が先の短い状況で私たちに……先が短い、からなのか。
「見てから考えようよ。すぐに見られるものがあるのに見ないでここでごちゃごちゃ言ってても何にもならないでしょ? 行動の順番間違えてるよ」
「……ああ、そうだな。その通りだ」
紗夜に正論で突き刺され言い返したい山々があるが、だとして何になるのか。彼女の精神が依然揺さぶられているという前提があるのなら、何を言ったとしても無駄だ。
「考える前提になる証拠を揃えてもいないのに結論を出そうとするのは早計だよ、槐くん。それとも不十分な見解を述べる浅薄な自分を許せるタイプ? 何か言えればそれでいいの? 世の中の全てが直感的に答えを出せる単純なものとでも思ってる?」
にしてもしつこい。
「今のきみは深呼吸したほうがいい。その様子だと俺以外にも噛みつき始める」
それでいいのか、という私に、紗夜は眉をひそめた。表面上彼女は優等生然としようとしている。今の自分の言動にどれほど余裕がないのか彼女も自覚済みだろう。
「ふんぎぎ……」
返ってきたのは人間の言葉ではなかったが、ひとしきり唸った後にハア、スウと数度の深呼吸が聞こえてきたため落ち着こうという気にはなってくれたらしい。
「行こう」
「弟が姉に指図しないでよ」
なってくれていないのかもしれない。
「ふん」
鼻を鳴らし、紗夜が先立って歩き始めた────「槐くんの今の言葉はさ」かと思えば数歩も行かずに立ち止まった。私が隣を通り過ぎてもなお歩みを止めたままだ。歩き続ければいいものを。仕方なしに私も足を止めざるを得なくなった。
「俺には噛みついてかまわない、という認識でよろしい?」
一向に歩み始める様子を見せず、にこりと義姉が微笑む。
「いいわけないだろ」
「うん。ありがと。私の心が不安定になったとき……そんなことって早々ないんだけどさ。そうなっちゃったときは心の広い槐くんに遠慮なく噛みつかせてもらうね」
私の返答のときだけ耳が聞こえなくなっていたのだろうか。
「噛みつくのって、甘えてるようなものなんだよ。信頼している相手の包容力の恩恵に与ろうとしている、はた迷惑な甘え方」
「自覚があるのなら抑えてくれないか」
「お姉ちゃんだって甘えたいときがあるんだ。ねえ、私たちは手を取り合ってこれから生きていくんだよ? お互いに甘えて甘えさせても必要なんじゃない?」
笑みを向けてくる義姉に望むのは、その二本の足をもう一度動かし始めて塔へ向かうことだけだ。「早く塔へ行こう」だから言う。紗夜の精神は一時の雨にぬかるんでいる。時が過ぎれば乾くだろうから、いま、私がそのぬかるみに足を取られるわけにもいかない。
「私、もう少し心が強いかと思ってた」
「俺もだよ。きみは興味ない人間に全く関心をもたないのに、心を許した相手の不幸にはとことん弱いな」
「誰だってそうでしょ。なに私が特例みたいに言ってるのかな」
不愉快に表情を歪めると紗夜はようやく歩き出し、私の歩みもまた再開された。
「立ち止まってごちゃごちゃ言う私を置いていこうとしないだけ、きみは優しいよ」
背中に、義姉の声がする。
「置いていこうものなら、きみが背中からペーパーナイフで刺してきそうだったからな」
さきほど紗夜がポケットにペーパーナイフを入れているのを見たばかりだ。彼女が衝動的な行動をとるような人間とは思えないから冗談ではあるが。
「きみを刺す理由がないよ」
どうやら理由ができたら私は刺されるらしい。
エントランスホールから外へ出て、屋敷の外壁を周り塔の前まできた。相変わらず、その必要性が窺えない建造物だ。父に尋ねたことも勿論あるが、返ってきたのは「入れないのならまだ早いんだよ」とだけ。
「ここでしょ」
紗夜が指さす先に、塔の白色の長方形の端末のようなものが取り付けてある。下から手を差し込める隙間はあるが……、端末に手を近づけてみる。
「……」
無反応だ。
「普通、その隙間に差し込むものじゃない?」
「可能性をひとつずつ検証していっているんだ。気が早いな」
私の視線は白い端末を向いたままだったため言い返された紗夜の表情こそ見ていないが、脇腹に生じた感触を考えるに叩くほどの苛立ちは起こったようだ。
次に、隙間に手を差し込む。
「……」
ピピ、という電子音が鳴り、ガチャリと鍵の回る音。
認証されたのだ。指紋か……生体認証の類なのか。
「わ。開いた。すごいね。私もできるのかな」
紗夜が白い端末に手を差し込む。
ピピ、と音がする。鍵が回る。鍵が閉まった。
「閉まっちゃった……」
「開いている間に手をかざすとしまるのだろうな」
もう一度、私の手を差し込む。
認証の電子音。鍵が開いた。
「入ろう」
「槐くん、お先にどうぞ」
言われ、扉のノブを握り、開ける。外開きの扉が開けられ、中は暗闇……すぐに、電灯がつけられた。自動のようだ。正円の部屋は、何も物らしい物が置かれていない。床はコンクリートで固められており、天井も三メートルほどだろうか。思っていたよりも低い。塔がすべて空洞というわけでもないようだ。そうして床の中央には……、
「なにかある? 槐くんの背中で私何も見えない」
「なにもない」
「え、なにもないの?」
「嘘だ」
「……」
思い切り背中を押され、塔の中へと数歩入った。次いで紗夜も入ってきて扉が閉められた。
「うわー……うわあ? 階段?」
塔の内側をひとしきり眺めまわした後、紗夜の視線が中央で止まる。
床の中央に階段があった。同じくコンクリートで無骨に仕上げられており、周囲に柵らしきものは無い。床に、ただ階段があり、何処かへ下りている。
ガチャリ、と背後で鍵の閉まる音がした。時間が経つと自動で閉まる仕組みのようだ。
「……」
下りないという選択肢は無い。
「俺が先に降りる」
「う、うん……なにか出てきたらなるべく持ちこたえてね。私の逃げる時間を稼いで」
「善処する」
階段を下りる。手すりはない。上下左右がコンクリート造り。下りた先に扉が見える。そこまで遠くはなく、せいぜい二十段弱ほどだ。屋敷の地下室……なのだろうか。
「家の中と同じ扉だ」
背後から紗夜の声が聞こえる。数段後ろの方からついてきているようだ。
「開けるぞ」
扉の前まで下り、ノブを握る。感触からして鍵はかかっていない。
「開けて。周囲の安全確認もお願い」
「了解した」
扉を開くと右側に空間が延びていた。前方と左側は行き止まりだ。
「なにかある?」
「化け物がいる」
「えぇっ……!?」
「嘘だ。廊下がある」
「……」
化け物はいない。
背中に蹴りを入れてくる義姉はいるが。
「ほんとに廊下しかないんだよね?」
「ああ」
扉を開いた先には屋敷内の廊下と全く同じ廊下が延びており、敷かれている絨毯の模様も同じだ。天井には電灯が煌々と輝いており、左右には扉がそれぞれついている。最奥にあるのは両開きの扉。それもまた屋敷内にあるものと同じ意匠だ。扉の数は三つ。三部屋。
「ほんとに廊下だ。また嘘だったらどうしてやろうかと思ってたけど……」
ぴたりと私の背中に張り付き、紗夜が言う。
「ひとつずつ開けていこう」
「うん……」
まず一つ目。一番手前、右手側の扉。何の変哲もない屋敷の扉だ。
ノブを握る。鍵がかかっていない。
「開ける」
「お願い」
短く紗夜と言葉を交わし、扉を開けた。
空間が広がっている。
奥行きが二十メートルほどはあるだろうか。
天井には電灯が眩いほどに光り輝き、地下とは思えないほどに明るい。廊下や塔の内側の電灯とは光量が明らかに違う。部屋の内装も、壁は真っ白で、床は灰色。ビニル床か、あるいはリノリウムなのか……屋敷の一室というよりも病院や研究所等の無菌空間のよう。
「……な、なにかあるの?」
屋敷の中に出現した実験室のような異質な空間。
そのなかに、もうひとつの異質があった。
「おもちゃがある」
「へ、また嘘? 叩くよ」
言葉と同時に叩かれる感触。「いや、今度は本当だ」
「……わ。本当におもちゃだ」
広く、大きな部屋には、たくさんのおもちゃがあった。
それらは建物の模型で、人間を模ったもので、匂いを発する果物と酷似したものもあれば、自力で動けない小さな車が散らばってる。整然とおもちゃが立ち並ぶ区画もあれば、大災害が起こったかのように、小さなビルが、木々が、小さな人が、無造作に転がっている一画もある。
「うーん……おもちゃというよりも、作りかけのジオラマ?」
ここにあるのは、いわゆる小型模型だった。世界を縮小し細分化した、見慣れたものたちの模造品だ。
「お父さん、こっそりジオラマ作ってたのかな」
「これを見るに、そうなんだろうな」
「でも、これってさ……」
紗夜が歩き出し、ひとつの転がっている建物を拾い上げる。「精巧過ぎない?」持っているのは月ヶ峰の電波塔だ。まともに見たことはないが、遠目に見た月ヶ峰電波塔の姿かたちに、それは酷似しているように見えた。
「これだって」
次に紗夜は、ある整然とした区画を指さした。
小さな木々が密集して森を形作っている。森には開けた箇所があり、そこには一軒の屋敷と、塔……「この屋敷だよね」「ああ……そう、みたいだな」涯渡の屋敷が縮小されてそこに存在していた。玄関扉の前には、なぜだか真っ黒な雨合羽のようなものを着た小さな人間が佇んでいる。
「どういうことなんだろ……凝り性だったのかな、お父さん……」
「そういう可能性もある」
「他に何か可能性があるの?」
「……分からない」
父は、この部屋の中に月ヶ峰市を再現しようとしていたのだろうか。
精巧なビルをつくり、電波塔をつくり、屋敷を……「言ってくれれば手伝ったのに」紗夜が不満そうに口を尖らせる。
「とりあえず、また後で考えよう」
「うーん……そだね、まだあと二部屋残ってるし」
紗夜と私はこのジオラマ空間を後にし、廊下の左手側の部屋に向かう。
ノブはやはりあっさりと回り、扉が開かれた。
「なにかある?」
「白い空間だ」
ぴったりと背中に張り付き、私を盾に使っている紗夜に言う。
目の前には部屋が……背後の廊下とは違う上下左右が真っ白で無機質な材質でできている空間があり、十メートルも行かない先に銀色の扉がついている。
「……屋敷の地下って実験室だったの?」
「……どうだろうな」
恐る恐るの紗夜の言葉に、何も呑み込めていない私の言葉。
空間に立ち入ると、壁際にはハンガーラックがあり、真っ白な作業服のようなものが数着かけられているのに気づいた。白衣も同様にかけられてある。衣類等を置くためらしい台が傍にあった。
「ますます実験室だね」
「だな……」
銀色の扉の真横にはスイッチがついており、それを押すと扉が両側にスライドした。数メートルもいかないうちに同じような銀色の扉がある、細い空間だ。左右には空気孔のようなものが規則的に配置されている。
「これ、見たことあるかも」
「……なんだ」
「エアロック……だったっけ。お父さんの会社のパンフレットに載ってた……ような……なんか名前があったような……」
自信なさげに言う紗夜の背後で、銀色の扉が自動で閉まった。
「うひゃあ」
紗夜の驚く声が風の音にかき消される。
両側から風が吹きつけられる。やはり空気孔だったようだ。
しばらく経つと風は止み、銀色の扉が開いた。ゴオオという何かの稼働音がかすかに聞こえる。扉の先に見える空間はやはり真っ白で、無機質。見たことのないような機械があり、作業台のようなものが複数見える。
「空調の音かな」
「恐らくは」
扉の先に出ると、涼しい空気が皮膚を撫でた。空調がきいているのか、聞こえる稼働音は空調か。空間が左右と奥に広がっている。さきほどのジオラマの部屋ほどの大きさに思える、見たことのない機械が占めている分狭く見えるが……「冷蔵庫みたいなのがあるよ」
紗夜が小走りに機械のひとつに近づき、「小皿だ」透明の窓越しに中においてある透明の小皿を眺めている。「これ、試薬ってものなのかな」棚に並んだ薬品を指さしている。
「あまり、触らないほうがよくないか」
「そだね……眺めるだけにしておく」
他の機械も、よく分からないものだらけだった。
作業台らしき机に排気機能らしきものがついていたり、スタンドには空のフラスコが並び、電子顕微鏡や電子天秤が置いてある。ステンレスの棚には薬品らしきビンが多数置かれており、銀色のハサミやピンセット、メスのような刃物まである。
「実験室……なのかな」
「だろうな……」
「何の実験……?」
「分からない」
分からないことだらけだ。
さっきのジオラマ部屋も、この実験室も。その詳細も、その用途も……残る一室も、おそらくはそうなのだろう。
「槐くん笑ってる?」
「苦笑だ」
父は、何を目的としてこれらの部屋をつくり、私たちに閲覧する許可を与えたのか。これらが私たちのものとなるのか。私たちがこれから扱える設備だと。
「もう、出よう」
「ん……考えたいことは山ほどあるけど、あと一部屋あるもんね」
私たちは先ほどの空気の吹き出る通路(エアシャワー室、と紗夜は言っていた)から出て、廊下へと戻ってきた。
「さあてさて、最後の部屋だよ。そこで私たちの大冒険もようやくひと段落だね」
「ようやくおしまい、ではなく最後の部屋を見た後も冒険は続くのか」
「槐くんも、分かってるでしょ。今まで見てきた部屋、おもちゃ、設備、すべてが私たちのものになるんだよ?」
「分かっているさ」
分かっているとも。
父は、私たちにあれらの部屋を遺したのだ。
「冒険は終わらないよ。むしろ始まるかもしれないし」
そうして最後となる、あの両開きの扉を抜けた先にも何かを遺している。
「なんだか楽しくなってきちゃった」
「不気味さもあるけどな」
何を、遺してくれているのだろう。それを遺すことで、父は私たちに何を期待しているのだろうか。私たちに何をさせたいのか。
「開けて?」
にっこりと、紗夜が私へ笑む。
開ける以外はないだろう、という圧すらこもっている。
「最後ぐらいきみが開けないのか」
「譲ってあげる」
「はっ……」
鼻で笑い飛ばしてやり、扉に両手をかける。
開くと、まず、「っ……!?」私の眼に、私の脳に、認識に、意識に、
「これは……」
まっすぐに飛び込んできたのは────灰色の、二つの瞳。
やはり真っ白な空間だ。広さも、先の二部屋とそう変わらないように思える。だが無機質だったそれらの部屋とは異なり、この部屋には生命が揺蕩っていた。
「……」
部屋の中央には円筒の水槽……培養液、なのだろうか。無数の配管が延びている培養液に満たされた槽があり、その中に真っ白な少女がいる。真っ白の髪の、灰色の瞳の……少女は眼を開き、来訪者である私の眼を、真っ直ぐに見据えている。
「きみは……」
透明な壁の向こうから私を真っ直ぐに見据えるその双眸が、硬直する私へ向けてゆっくりと細められた。口元がかすかに綻び、浮かべる表情に嫌悪は無い。むしろ逆だ。好意そのものを形作った笑み……私を見、私を発見し、少女はさも嬉しそうに笑んだ。ようやく、ようやく見つけた、ようやくやって来た、とでも歓喜するかのように。こみ上げる喜びに、つい耐えきれなくなったとばかりに。
私の目の前には、覆しようのない未知が在った。
私の現実に、ありもしないものが映り込んできた。
笑みを浮かべる少女から目を離せずにいると、やがて彼女は静かに目をつむり、以後しばらくの間を眠りにつく。私と紗夜の目の前で未知の少女が目を覚ますのは、この十年後だ。
その十年を、私は未知に。
この屋敷にある地下室の解読に。
実験室に設置されたあらゆる機器類の習得に。
私の現実に理外の実在を証明した少女と意思疎通をはかる為に、ひたすらに費やした。
培養液に浸かる少女の見る夢を途絶えさせようと、そうして私の望みへの足掛かりにしようとした。好奇心が私を支配していた。少女を解明すれば、無謀に思えた夢すら叶うのでは、と。
「ひとまず戻ろう」
少女の出自と存在理由について紗夜と散々に会話し、私たちは目覚めない少女を背にして地下の部屋々々を後にした。巨大すぎる謎を抱え、地上に戻った。
外はいつの間にか雨が降っていた。
雨に濡れて、上分さんが彫像のように静かに立っていた。
「旦那様がお亡くなりになられました」
父が死んだ。
あの少女を私たちに遺して。