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いくら眺めていたところできみの肉体は動きださない。
──そんな真摯に裸を見られると恥ずかしいんだけどなあ。きみに見せたくない姿なのに。
雨粒の弾ける音が聞こえることを除けば、この廃れたガラス張りの空間は無音だ。
──さっきからずっと私の言葉無視し続けてるしい? こっちを見もしないしー……。
他殺体がみっつ転がり、きみが永遠に目を瞑り、ヒトゴロシが陰気に俯き、
──いくら見つめても、それは動き出さないよ。
存在しない幻覚の言葉を聞いている。
──死人は蘇らない。だから誰もが死にたくない。死後のあれこれというのは結局のところ気休めで、唯一の終着点となる〝何もない〟を怖くないように怖くないように、って色んな人が苦心して恐怖を封じ込めようとした挙句の涙ぐましい努力の賜物だよ。
分かっているじゃないか。幻覚のくせに。
──でも、あったらいいよね。
分かっていないな。やはり幻覚に過ぎないか。
──永遠に会えないと理解して、感情を無理矢理に納得させていた誰かがそこにいてくれたら、どれだけ嬉しいんだろう。私なら感情の処理ができなくなって、膝を折り曲げて俯いてしまうかな。涙を流す姿なんてみっともなくて見せられないのに、でも渦巻く感情の処理のしようが無くなってしまったから……無言で。両手で。顔を、覆うんだ。
……勝手に喋り続けていろ。
──きみは私を、きみの幻覚だと考えている。
いつまでもこの場にいるわけにはいかない。
警察すらまだ呼んでいないのだ。事態に収拾をつけなければ。早く。
──きみに由来する幻なのだと思っている。現実的な考え方だね、さすがさすが。
肉体から抜け出た魂が、生前と同様に振舞い、当人の人間性を保持し、生きている頃と寸分違わない言葉を発しているとでも? そんなわけないだろう。魂は無い。魂を語る言葉はすべて空虚だ。語られたとして確実に消え去る空虚を前に、俺にいったいどんな価値を見ろと云うんだ。
──それなら私の言葉は。私の振舞いは。私の思考の根源は。
……。
──いったい誰の頭から出てきているものだと思う?
……分かっているんだ。これが俺の未練であることだなんて。
──あははっ。いじわるな聞き方をしちゃったね。
これが俺の見ている幻覚だというのは明らかだ。先ほどあの女から注射された薬液の、ろくでもない成分に因る症状になるのだろう。煩わしい。
──怖い顔、してる。無理もないか。
これを消す方法があれば。
──あ。やっとこっち見たっ。
灰色の瞳。
真っ白な髪。
生気のある表情。
死人ではない。
「……」
現実でもない。
「……きみの仇は、もうとってしまった」
──仇はとったから、じゃあ俺はこれからどうすればいいんだろう、ってこと?
「成仏してくれ」
──ふふ。
これは笑みを浮かべた。
──い、や。
なら、勝手にするといい。
──ひねくれものさん。思っていないことを口にしない方が良いよ。どう足掻こうときみは優しい自分から逃げられない。
これが俺の幻覚なら、どうやり取りしようと茶番の範疇を出ない。真剣に言葉を交わせば交わすほどそれはそれは滑稽な風景になるだろう。いつの日か笑い声が聞こえてきそうだ。笑えばいい。ああ笑えばいい。自覚を伴おうと愚行はできる。阿呆の救いは笑われることだ。
ヂヂ!
雨粒弾ける中、耳に届いたのは遠く聞きなれた鳴き声。
「……」
──私じゃないよ。
チ!
聞こえる方向は、扉の向こうだ。
裸身の死体が血塗れで伏せている奥の、屋敷のなかへ通じているのだろう両開きの扉。必死に必死に、何かが呼びかけている。
両開きの扉に近づき、開い────た。すんなりと。鍵がかかっていない。
扉の奥には廊下が続いていた。窓から入る薄暗い光だけが光源となっている。
チチ。
白い小鳥がぱたぱたと、小さな翼を懸命に羽ばたかせていた。忙しげに俺の周囲を飛び回り、肩に止まった。
「ソウ……」
赤い嘴を開けて閉じて、小さく肩の上で飛び跳ねて、上機嫌なときにそうしていたように囀る。「ここにいたのか」こんなところに。こんな人のいない屋敷の中に。
──見つかったの? 良かった……。
これが安堵の表情を浮かべている。
きみはいったい何なのだろうか。俺の頭が、探していた迷い鳥と再会できた俺へ安堵の表情を浮かべて胸をなでおろすきみを視界に映し出させたのか。きみにそうあってほしかったから? 生きていたらその表情を浮かべたに違いないだろうからか?
──ああ。それに。
チ。と聞こえる。ソウが鳴く声。近くで。ヂ。ヂ。チチ。ヂ! チチチ。ヂヂ。遠くからも。ヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂ。と。
──増えたんだね。
いくつも。大量に。
「……!」
扉の向こう。廊下の奥から迫りくる白色の群れに、扉を閉めた。
背中で扉を押し、向こう側の何か達が開けられないようにした。ヂヂヂヂヂヂヂヂヂと背中から音が聞こえる。扉を叩く何かの衝撃がある。しばらく押さえていると、音も衝撃も止んだ。
肩に乗っている一羽は威嚇することも怒った様子もなく、始終きょとんとした様子で俺を見つめていた。何をしているのだろう、という純粋な疑問を湛えているようにすら見えた。
──そんなに驚くことある? 確かに増えたは増えていたけどさ……。
「……なんだ、今のは」
さっきまで聞こえていた膨大な鳴き声が、今は一切聞こえない。
すべてが消えてしまったかのようだ。まさか……「今のも、幻なのか」これの姿を一瞥し、肩に乗るソウへ再び視線を向ける。チチチ。いる。
「……」
俺が知るソウは一羽だけだ。二羽以上ソウがいるとするのなら、はっきりと異常な事態が起こっていることに他ならない。
……もう一度、扉を開けてみよう。確認するんだ。たった今起こっていたのはいったい何なのかを、正確に。
──開けるの?
扉を、もう一度開けた。
相変わらずの廊下が続き、窓には……数羽ほど、数にして四……いや、五羽か。五羽の白い小鳥が落ちている。近づく。血を流している。
──え。死んじゃった? いまの一瞬で? どうして?
ぴくりとも動かないその様子から、既に死骸なのだと分かった。触れる。感触がある。実体として存在しているのか。ただ、やはり動かなかった。肩に乗っているソウは何の反応も示さない。
──なんで死んじゃったの?
俺も分からない。
何が起きて、何が起こって、どうしてこうなったのかが、何も分からない。それにさっき見えた小鳥は廊下を覆い尽くすほどだった。何十ではなく、何百羽もいたのだ。
──あ。戻るんだ。
きみの肉体だけがある部屋に戻り、扉を閉めて、目を瞑る。なにが起こっている。これも幻覚なのか。あの小鳥の群れは。じゃあどうして五羽、死骸で残っている。あれは現実なのか。だが実体の感触があった。感触……。
──何が起こったんだろうね。怖いね……。
これに感触はあるのか。
「……きみは、触れるのか」
──幻覚に触れられると思う?
にこりとこれの表情が綻ぶ。
──いいよ。触れてみて。好きなところを。
「……」
佇むこれに手を伸ばす。その手に当たるところへ触れようとして、通り抜けた。幻覚は憐れむように微笑を浮かべている。きみはいない。触れられない。当然の事実がゆるぎない確固たるものであると再確認しただけだった。
──でも、よしまさ。やっとだね。探していた迷い鳥ちゃんは見つかって、探し続けていたきみもようやくハッピーエンドだ。
「……」
これが死んでしまった時点で、俺のハッピーエンドはもうこないよ。
「……そうだ。警察に連絡を」
静かに肩に乗っていたソウが飛び立ち、俺の手の中にもぐりこんできた。そうして噛まれた。
──うわ。痛そ。
また翼を広げて小さな身体で羽搏いたかと思えば。
チ。
小さく、短く鳴いて、ぽとりと床に落ちた。
時間切れになってしまった、とばかりに呆気なく動かなくなった。電池の切れた玩具のように唐突な終わり方だ。
──え。ど、どうして?
分からない。時間切れ、という言葉だけが脳裏に反響し続けている。
ソウを拾い上げ、ポケットに入れる。包む布がなく窮屈な場所で申し訳ないが、こんな知りもしない血濡れた場所よりも、持ち帰り、家で埋葬したかった。
──でもなんでたくさんいたんだろうね。クローンとか、かな。
警察に通報をする為にスマホを取り出した。
──身体の欠片からでも、その人の身体は造れるのかな。
外を見る。雨が降っている。
──身体さえ造れれば、あとは魂を込めるだけ。ハードウェアを動かすためにはソフトウェアが必要だもの。
「人間にとってのソフトウェアは神経系が成立させている意識を指している。包括すれば魂と呼称できるのかもしれないが、その呼び方が正しいようには思えない」
魂に設定されたパラメータが身体の動作を決定するのか? だとしてその魂の設計者はならば誰だ? 神か? また、神さまとやらが出張ってくるのか。引っ込んでろ。魂などという不可解を許容するから神の生じる余地が生まれるんだ。
──それなら、ヒトの身体だけを、その神経系というものまで完璧に復元できたらその人が戻って来るんじゃない? 魂いらずで済むね。
「完璧に、できていればな。ほんの少し高度な電子回路を未だに再現できていないのが現状だ」
きみはにこやかに、幻覚だ。
──身体の欠片がたくさんあって、そのひとつひとつから一人分の肉体を培養して、そのすべてに魂を込めれば……同じ人がたくさんできるのかな。
「一人いればじゅうぶんだ」
2以上でも。0以下でもなく。1でさえあってくれれば。多くは望まない。身に余る望みは不幸しかもたらさない。……雨は止みそうにないらしい。少々濡れることになるだろうが、今更だ。
──どこに行くの?
「傘を取って来るだけだよ」
俺は傘をどこに投げ捨てていたか。
ああそうだ、きみの欠片が……きみの指が落ちている場所の近くだったな。