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『ヒトの認識というのは、なかなかどうして、正しくあってくれないものです』
雨は昨日から降り続いており、一向に止む気配が無い。
もう、6月13日だ。すでに梅雨入りしているのかもしれない。『記憶では確かにこう思っていた、こう憶えていたはずなのに、実際のところは違っていたりする』
「少し、頭が重いな……雨が降っているからか」
リビングでソファに座り、いつものようにノートパソコンを睨んでいる父の背中がひとりぼやいていた。「それとも、目の使い過ぎか」目薬を取り出し、さしている。「両方だな」どうやら答えを得たようだ。『すぐ昨日のことなのに、もうすでに事実を取り違えてしまっていたりもする』
「出かけるのか」
俺の存在に気づいたようで、肩越しに父は振り返ると、そう問いかけてきた。ノートパソコンの画面には『認識と記憶違い、その原因────涯渡榊樹』という文字が見え、画面の左上で学者然とした誰かが先ほどからずっとこちらに向かって話しかけている。『そのことに当の本人は、なかなか気づけない』ノートパソコンの向こうで涯渡……さかき、と呼ぶのだろうか。そのような誰かが、喋っている。
涯渡という特徴的な苗字には聞き覚えがあった。俺が通う中学の生徒会長がそんな苗字だ。生徒会長挨拶の時に愛想の良い笑顔ではきはきと喋っていた姿が記憶に残っている。
「……どうした?」
父が不思議そうな表情を浮かべていた。「ぼんやりとして。寝ぼけているのか」
「いや……少し考え事をしてた。少し、散歩してくる」
「そうか。傘を持って行くようにな。見て分かっているとは思うが」
うん、と答え、スマホをポケットに入れ上着を羽織って傘を持ち、俺は玄関から外へ出た。『どうかお気をつけて。あなたも例外ではありません』動画の誰かは、まだ喋っていた。無関係な事柄は頭の中に留まらない。
灰色の街が、視界に広がっている。
広げた傘には瞬く間に雨粒が弾ける。
雨。
雨。
雨。
駅前広場。
きみが待っている筈の場所には小さな羽根が落ちていた。
一枚どころではない。二枚、三枚、四枚……十は軽く超えている。抜け落ちた、とは言わないだろう。毟り取られたのだ。この、白い、小さな羽根は……。
何者かに。
何者かが。
「……」
きみはどこに行ってしまったのだろう?
屋敷だろうか。仔猫の亡骸を見に、一人で屋敷に行ってしまったのだろうか。待ち切れずに? 時刻こそ決めていなかったが、昨日と同じ時間に来た。そうすればいつものようにきみがいるだろうと考えて……もしいなくとも、そのときは俺が待つと考えた上で……「……」しばらく、待とう。
雨は止まず、勢いも弱まらない。
行き交う人々はみんな傘を広げ、曇った表情を浮かべている。きみはこない。広場の時計は進み続け、長針が一周した。
「……」
俺たちは互いに連絡手段を持たなかった。
ふらりと街に出て、偶然に出会う。歩けば逢えるものなのだと思っていた。来れないのなら、来れない理由があるのだろう。
「……なにかあったのか」
雨に打たれて、風邪をひいてしまったのかもしれない。
それなら快方を祈り、俺は……「行くか」屋敷に向かおう。掘り起こし、首輪を確認する。忌々しい動物殺しのもたらした結末を見に。
先日と同じ方法で、屋敷へ向かう。
雨のもと、月ヶ峰の外れまでバスで行き。
降りたのちに、灰色の景色をずいぶんと歩き。
人気のない工場廃墟付近の道を更に進み、森の中へ入る小径の入口を……見つけ。「……」見、つ。み。見つけ。け、て。
小路の真ん中に黒い帽子が落ちている。見たことのある。
何かを引きずった跡がある。地面はえぐれていて、まるで誰かが必死で、逃げようとして必死で地面を掴み、指で、死に物狂いで掴み、引きずられることに抗ったかのように。指まで残して。
人差し指。中指だろうか。薬指か。一本。二本。三本。四本。五本。六本。あまりに抵抗し、地面を掴むものだから、切断したのだろうか。切断したのか。切断を? 小さな指だ。俺の指よりも小さい。切られてさらに小さくなっている。痛くないわけがない。こうまでされて。苦痛が生じなかったわけがない。
「……」
足に力を込め、地面を蹴る。
走るに邪魔な傘を投げ捨て、前へ進む。
なにかが引きずられた跡を辿る。髪の毛としか思えない束が落ちていた。思い切り引っ張られ、抜けたと思わしき。白い。白。綺麗な。その髪を綺麗だと。俺は。服。切れ端が。落ち。破られてい。引きずられた跡が続き。屋敷が目の前に。門は開かれていて。水たまりに、赤色が混ざり。黒色の軽自動車が乱暴に停車していて。玄関扉は閉じている。開かない。殴る。開かない。蹴る。開かない。身体をぶつける。開かない。割れた注射器が玄関の前に落ちている。用途の分からない注射器。いくつも。いくつも落ちている。踏み潰す。粉々になる。
「…………」
どこへ。
立ち止まる時間は無い。
入られる場所を。屋敷の中に入る道を開ける。
玄関扉から離れて外壁に沿って屋敷を回り込む。やがてガラス造りらしき建物が見えてきた。近くに庭園と思わしき泥土が雨に塗れており、一本のシャベルが突き立っている。引き抜く。ガラスの壁をたたき割ろうと……中に見える。ヒトが見える。人間がいる。三人いる。男男女。見知らぬ三人。全員が裸身。何かをしている。男と女が身体をこすりあっている。もう一人の男は何かに覆いかぶさっている。覆いかぶさられている何かがいる。ヒトの形をしている。小さな身体。何も身に纏っていない。「ッ……!」白。髪。指。切断面。「ァ」赤い。血。ぐったりと。きみが。まるで死ん「あぁぁ……!」でいるかのよ「ァぁあアアあああアアアアア────────ッッ!!!」シャベルを振り下ろす。罅。割れない。振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。罅が広がるばかりで割れない。割れない。忌々しい……! 中を見る。茫然と三人がこちらを見ている。眼はうつろ。夢を見ているかのよう。注射器が転がっている。室内を見る。扉が開いている。ガラス造りの部屋の外へ通じる扉が。回り込む。中の女が気づく。扉へ近づく。それよりも早く。速く扉へ近寄る。女が扉を閉めようとする。シャベルを突き出す。女の腕にめり込む。「いだぃぃ!」女が悲鳴を上げてしりもちをつく。扉を蹴り開ける。一人の男が逃げようとしている。足がふらつき立てないらしく。もたつき。四つん這いで。好都合だ。近寄る。ふくらはぎにシャベルを突き立てる。「あッ……!?」突き立て、「ひぎぁッ」突き立てる。血が噴き出す。振り返る。覆いかぶさっている男。茫然と俺を見ている。その下。少女。仰向け。白い髪の。灰色の瞳がぐるりと虚空を仰ぎ見て。生気のともっていない目が俺を見つめ。男は動けずにいる。少女との接合部から離れられずにいる。きょとんと、動けずにいる男のぼんやりとした目に両目にシャベルを真横に刃先を垂直に思い切り思い切り力を込め思い切り全力で突き出し突き立てた。「ぁっ? あ……あっ。あっ。あっ」両腕で掴みシャベルを押す。「あ」硬質な感触。推す。ねじる。「あ────あ」間抜けな声が男の口から洩れている。「あ」下半身を残して男の上半身が後ろに折れ倒れる。倒れる勢いでシャベルを更に深く突き立てる。「あ」「あっあっ」頭蓋骨を何度も、何度も何度も何度も何度も「あーあっあ、あっあっあっ」突き刺す。「あっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっ」顔の上半分が潰れても声は「あああああああああああああああああああああああああ!!」女の悲鳴。事態を完全に理解したらしく。振り返る。ぼろぼろと涙をこぼして女が「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!」悲鳴を「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」金切り声。耳に障る。だがどうやら動けないらしい。腕を抑えて悲鳴をあげるあの女「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」も。ふくらはぎから血を流してのたうち回るあの男も。「あっ」こいつも。下半身の接合部はそのままで萎んでいる様子もない。生存本能というものだろうか。死に際のヒトに起こる生存本能のモデルケースではないだろうか。どうだろう? どうだ? どう思う? 「あっ」間の抜けた返答。あ、としか答えられないのは脳に深刻な損傷が入ったからなのだろう。それでもなお、男の股間はきみから離れようとしない。必死で必死で子種を残そうと「あっ」残そうと「あっ」残そうと「あっ」遺そうと「あー」して「あっ」い「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」る。耳障りだ。喉が潰れるだろうに。極限状況の人間が起こすパニックの典型的な状態なのか。あの無様さは。びくんびくんと男が震える。水揚げされた魚のようだ。「あっ」びくん「あっ」びくん「あっ」男の身体を掴み、引きずる。きみから引き離す。男の身体が動く。なおもきみから抜け出ようとしない。根本を掴む。引き抜く。びくんと男が跳ねる。体液が射出される。きみにかかる。きみは動かない。きみは動きださない。きみは生きてい「あっ」男の身体を蹴りつける。びくんと跳ねる。もう一度蹴りつける。「あっ」と鳴く。シャベルの取っ手を上から殴りつける。「あっ」鳴く。跳ねる。シャベルを引き抜く。「あっ」突き立てる。びくんと跳ねる。射出される。生存本能とはかくもたくましいものか。引き抜く。「あっ」突き立てる。鳴く。跳ねる。女ともう一人の男を向く。
「やめで!! やめでよ!! やめでよお!!!」
声の潰れた女が叫ぶ。
芋虫のようにのたうち回る男が「あーうー」と唸っている。
嗚咽と苦悶が彼らを苛んでいる。
「やめで! やめでっだら! やめでやめでやめでああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
泣き喚き、涙をこぼし、男も女も生きようとしている。死にたくないのだ。そうだ。死にたくないのだろう彼らは。怖いのだ。死ぬのが怖い。殺されるのが怖い。怖いものが怖い。怖い怖い怖い怖い。恐怖している。涙を流す。ぼろぼろぼろぼろと泣き続ける。死にたくない。死にたくない、と喚いて叫んで頭を覆って泣き続ける。自分が死にたくないから。自分が生き続けたいから。自分の都合で。彼らは結局のところ、自分のことをしか考えていない。どこまでいっても自分のことだ。自分が生きたいから無様を晒し、どんな手段を方法を用いてでも生きようとする。忌々しい。忌々しい醜悪さだ。醜い。生き汚い。死んでしまえばいい。生きようと周囲に迷惑をかけるのなら、さっさと死んで周りに贖え。愚かな。阿呆な。臆病者、がッ……!!! 足元を蹴りつける。「あっ」まだ鳴く。
「なにもしてないじゃん! あだじおんなだよ!? おんなだがらそのごになにもしでないじゃん!!!」
まだ喚く。まだ叫ぶ。泣きわめく。呻き泣く。
痛いのだろう。苦しいだろう。怖いんだろう。死ぬのが嫌なのだろう。だから絶痛絶苦を示すために涙を流している。ただ、その涙はそこで横たわって死んでいるきみのために流されてはいないようだ。それだけで殺す理由に余り有る。
「なにもしでない! なにもしでないいい! なにもしでないっだらああああああ!!」
何もしていない。確かに何もしていないのかもしれない。止めてもいない。助けようともしていない。振りかぶる。
「やぁだああああああああああ!!! しいにいだぁぐうなあああああああああ!!!」
振り下ろす。「いっ」もう一度振り下ろす。「い、い、い、い」逃げようともしていなかった。
「うーあーうー」
のたうち回る男に近寄る。ふくらはぎを掴みまだ呻いている。涙の跡が夥しい。振り上げ、「うー?」振り下ろす。「う」突き立てる。「ううううううう」呻き続ける。
きみに近寄る。
男の腹部にシャベルを突き立てる。もう鳴けなくなったようだ。
きみを見下ろす。
きみは裸で、仰向けに、ぐるりと瞳がうつろを向いている。身体じゅうに打痕がある。痣ができている。血が流れ出ている。胸部に噛み跡がある。突端が食いちぎられている。指が切断されている。髪が引っ張られて抜けている。下腹部は赤く。裂け。血が。体液が。流れ出て。流れ。
きみは、今、とてもみじめな姿をしている。
「ッ……!!」
そう、思った自分自身の頭を、脳を、ぐしゃぐしゃに潰してやりたくなった。この酷薄な思考を打ち出す脳を鷲掴んだものの、皮膚と頭蓋に阻まれ握り潰せなかった。皮膚に爪が食い込み、こめかみから額までを裂いただけだ。顔の上部から血が流れ始める。
「……」
両膝をつく。きみの姿がより近づく。きみの両目から流れ出ただろう涙の筋を見つける。怖かったはずだ。怖かったに違いない。怖く、恐ろしく、嫌だったに違いないんだ。
俺は、俺はこれからきみを思い返すとき、この姿でまず思い返すのか? 思い返さなければならないのか。今のきみの姿が最新の情報として、脳裏に記銘される。魂、などというものに刻まれる。この惨たらしきが最も新しく、更新されることは二度とないのか。そうか。そうか……。
事実が途方もない勢いで情動の一切を押し流していく。感情はもう空っぽでたまらなく虚しい気分だった。実感触として怒りも悲しみも消え失せて、今はひたすら虚しく、虚しい。自らの顔に血が流れている感触がする。血も流れている感覚がある。
「うー」
呻き。まだ生きていた。立ち上がり、男からシャベルを引き抜く。
「分からないことだらけだ」
何かを理解しようとする度に、新しい何かを理解する必要が出てくる。分からない。俺は分からない。彼らが生き続ける必要性が分からない。誰かの為になるのだろうか。少なくとも俺以外の誰かにとっては大切な人間なのだろうか。俺からきみを奪っておいて、彼らは誰かの大切な人間というカテゴリに居座るつもりか? なぜ? 分からない。男は地を這いずりながら、血の中を泳ぎながら。もがいてもがいて、逃げようとしている。「逃げるのか?」逃げるんじゃない。逃がさない。逃がすか。「逃げるな」叩きつける。「う、う、う?」びくびくと痙攣し、もう動かなくなった。最後の疑問形は、何に対しての疑問だ? 殺されることへのか? あるだろう。殺される理由はありすぎるほどにある。
シャベルは赤く、血濡れている。
柔らかな肉を突き、引き裂き、穿った感触が手に残る。叩き潰し、踏み潰し、原型を留めなくした感覚が残っている。
「……」
警察を呼ぼう。
彼らに、法に、裁いてもらう。
誘拐、強姦、殺人をした死骸たちと────皆殺しにしたヒトゴロシを。
「……」
再び、きみの傍に膝をついた。
シャベルは床に置き、着ていた上着を脱ぎ、きみの身体に覆わせた。きみの眼に手のひらで触れ、目を閉じてもらった。もうこれ以上、きみを辱める何ものもない。俺が近づけさせない。俺が……俺、が。「……っ」死んでしまった。きみが死んでしまった。きみは死にたくなかっただろうに。俺は死んでほしくなかったのに。
これは違う。決して違う。こんな……こんな終わり方は、
「……違う」
きみの死を天寿とは云わない。
「警察……」
そうだ。警察を呼ばなければならない。早く来てもらわなければ。裁かれる場所へ連れて行ってもらわなければ……持ってきていたスマホを取り出し、警察へ電話をしようとし────「ッ!?」首筋にするどい痛み。まるで何かが突き刺さったかのような。そうして何かを注入されるような「ああああああひゃっははあはは!! ざまあみろばぁぁぁあが!!! ひいぃっひひひひひ!!」女が生きていた。シャベルを手に取り、女の喉へ突き刺した。「ぃ」女の身体が痙攣し、やがて動かなくなった。
「……注射器」
首に注射器を刺され、いくらか中身の薬液を注入されてしまったようだ。「……」このことも警察に話した方がいいだろう。即効性があるものではないらしく、今こそ何とも、
──こんにちは。よしまさ。
「……どういう、ことだ」
声が聞こえた。聞こえないはずの声が。
──もう。来るの遅いよ。待ちくたびれたんだからねっ。
きみが俺の前に立っていた。
待つのに疲れたんだ、と少し怒った表情を浮かべて。