父と『子』
暗雲に敷き詰められた、陰鬱な空だ。
春先の、暖かくなり始めた三月に、今にも雨が降りそうな空のもと、私と紗夜は市内の病院へ来ていた。入院している父を見舞いに来たのだ。白く清潔な部屋のなか、枯れ木のような父の姿と対面するために……ヒトの末期の憐憫を味わうために、私たちは父の病室の前にいる。ビニールに入れた黒い傘を片手に。
「……開けるよ」
「ああ」
紗夜が扉を開けると、意識があるだけの死骸が上半身を起こしていた。
父の痩せ衰えた姿を見た瞬間に私は恐怖した。あれが、死なのだ。誰も避け得ない。誰も逃れられない。誰もがやがてあれに喰われる。恐ろしい。私は恐ろしい。ひどく恐ろしい。私も、必ず。いつかは、あれが、私を。
あれは私を決して逃さない。逃がしてはくれない。あれが私の意識を喰い尽くす。必ず。このままでは……必ず……。
「……ッ」
歯の根が合わない。
指が、手が、震えている。
いくら強がり、蔑み、冷笑しようとも、いざ死を前にした私は臆病な生者として怯えている。〝怖いもの〟を直視した為に、恐怖に呑まれ切っている。なんとも憐れなものだ。なんという無様な姿だ……! 生来の臆病者め!
「由正」
父が怯える私へ声をかける。手術を恐れる子をあやそうとする親のように。温かに、柔らかに。見舞うは私の側だというのに。
「きみの恐怖は、誰もが持つものだ。私の姿を見て怖くなってしまったのだろう? 怖がらせてしまってすまない」
「……」
「二人とも、傘を置いて。こっちへ」
入り口のドア近くに傘を立てかけ、私と紗夜は父へ近づく。
押し黙る臆病者の頭を、父が細枝のような指で触れ、枯葉のように薄い手のひらで撫でた。遠からずの死人が私に触れている。死に触れられているようで、人間の体温を感じられない。頭に生じる感触は冷えている。一向に怯えが止まらない自らが忌々しい。
「紗夜」
氏が、義姉の名を呼ぶ。「もっと近くへおいで」
紗夜が呼ばれる。浮かべている表情の如何を、俯いている臆病者は当然のように見ることができない。深く沈んだ声色から、義姉がひどく心を痛めているのだと推測するしかできない。
「きみたちは二人で生きていく」
真隣りから聞こえる義姉の嗚咽に、私は共鳴できずにいる。
怯え俯く私は、義姉ほどの情を義父に抱くことはできない。抱くほどの時間を用意してもらえず、父との別れが迫り来た。「私からのお願いが、ひとつあるんだ」
「お互いに手を取り合い、助け合って生きてくれないだろうか」
紗夜、と父が問う。「うん」と彼女が答える。
由正、と父に問われる。「分かった」と私は答える。
見上げた先に父と目が合い、その笑みに込められた父の親愛から、目を逸らさずに応えられたことに私は安堵を覚えた。死にゆく者に、誰がわざわざ不安を与える必要がある。
「それなら、私も安心だ」
今日の会話が今生の別れになるだろうことを、父は察していた。だからこのようにも、紗夜と私の将来を案じた。我が子二人が手を取り合うように願ったのだ。私は紗夜ほどの情を父に抱けなかった。だが、情の度合いによらずとも、父の願いを尊重し、実現させることは可能だ。私にとって不都合が生じなければ、私はそのように努めよう。紗夜と私の目的が違えない限りは、涯渡氏の二人の子は互いに手を取り、助け合い続ける。
「私達、長生きする」
紗夜が、ぐしゃぐしゃの声で父へ宣言する。「お父さんの数兆倍は生きてみせる」
「それはもはや永遠に等しいね」
父は微笑ましく、我が子を慈しむ。「地球の寿命が、先に来るんじゃないかな」
「それでも生きる。ハビタブルゾーンにある惑星まで宇宙船飛ばす」
「宇宙空間そのものの寿命が来てしまうかもしれないよ」
「なら別の世界に行く」
「パラレルワールド、それとも異世界かな。でも、その世界にも寿命があるかもしれないね」
「もっと別の世界に行く」
もはや売り言葉に買い言葉の様相で、紗夜は意地を張っている。あそこまで子ども子どもしている彼女は初めてだ。強情に、どうやってでも生き延びようとしている。永遠を生きる者は、すなわちあまりに多くの死を目にする。それらに巻き込まれずにいられるものなのだろうか。時空間すら消滅するかもしれない。その涯には何が待ち構えている。それは死と、どう違う。
「それなら私は、あの世できみたちが来ないことに安心し続けていようかな」
そう、父は微笑む。
あの世、というものに私は否定的だ。無常の風が一度意識を吹き消していけば、個の生命が灯ることは以後ないだろう。だからこそ死は恐ろしい。私が永遠にいなくなる。
「きみたちのお母さんと、いっしょにお茶でも飲みながら」
病室の窓から外へ、遠い曇り空へ、父は視線を向けた。その眼に湛えられている穏やかな寂寥に、私は微かな安堵を見た。死を受容している父の、その理由の一旦を見たように思えた。今もなお愛情を向けている死者の存在は、生き抜いた者にとって死を受け容れ、ましてや期待する理由の一つとなるらしい。死後の再会とは果たされるものなのだろうか……私は、そう思えない。だが、
「母には挨拶が遅れ……いや、できないかもしれません」
父は死後に母と逢いたがっている。
その事実に向けて、私がどう思うかなど何一つ必要無いのだ。
「俺も、長生きしようと思っていますから」
私の冗句に、父は心底楽し気に笑う。
怯えは尚も止まない。心臓は早鐘のように鼓動している。冗談ではあるが本心だ。私は、父ほどに……自らの死を期待するほどに愛情を抱いている誰かが、どうにもいないらしい。実父も義父も、実母も義母も、そこに分類されない。我がことながら身勝手で薄情なものだ。かと云ってあなた方に非はない、私の冷淡さの責は私にのみ課せられる。私が薄情であることは、あなた方の在り様を何ら糾弾しない。
「いっしょに長生きしようね」
紗夜に言われる。
「ああ。長生きしよう」
私は答える。長く、永く生きてみせよう。私の言動は私のみを罰する。それでもなお、私は望みを掴む。生じる可能性のある、あらゆる苦痛の悪因となり、叶った末に苦果に焼かれ続けようともだ。
その後、私たちは父と会話した。
父の口からは、自らの死後について語られた。私たちは未成年であるから、後見人として信頼のおける知人を選んだこと。その人は延寿守、という名前であるということ。
「槐くんの元の苗字といっしょだ」
「漢字が違う」
「鬼じゃない方のエンジュ。長生きの方のエンジュだね。きみにぴったりなんじゃないかな」
その延寿という人物に頼りたいときに存分に頼れ、ということ。しかしもし不正行為があったのならいつでも解任していいということ。その為の手続きの方法。家族葬でいいか、という質問。いいよ、と答える紗夜。納骨する場所。遺産の相続に関すること。対象は私達二人のみであるということ。遺産の具体的な額は書面で確認してほしいということ。習い事をこれからも続けるかは紗夜が決めなさい、という言葉。じゃあ止める、と答える紗夜。清身さんと上分さんといったお手伝いさん達の今後についても、私たちに一任するということ。今まで支援を行っていた養護施設との今後の関わりについては、私達二人の意思に沿ってほしいということ……諸々の事柄だ。いずれもすべて、文書として残してくれている、ということ。最初から最後まで二人ともよく読んで理解しておくように、と念を押された。
「そろそろ、雨が降りそうだ」
別れの時がきた。
「傘を、忘れないようにね」
帰り際の私たちへ、父は微笑む。
言われ、私と紗夜は各々の傘を手に取った。
「ドアのすぐ近くなのに忘れたりなんかしないよ」
心配性だなあ、と紗夜が父へ子の笑みを向ける。
「ヒトの認識というのは、なかなかどうして、正しくあってくれないものだよ。持っていた傘を失くしたことにすら気付かないことだってあるし、思い出そうとした人名がまたもや意識の奥に沈んでしまうこともあり得るんだ」
「私も槐くんも、まだ若いもん。ぴちぴちつるつるの脳みそしてるし」
ね、と紗夜が私を覗き込む。
つるつるの脳は誇ることじゃないだろ、と私は答える。言われてみれば確かに、と紗夜が笑う。父がその光景に笑みを湛え、それに、と言葉を継ぐ。
「帰り際に、道端で雨に濡れている白い、あるいは黒い猫がいないとも限らないだろう? その子たちの雨宿りの場所にする為にも、由正はその黒い傘を、紗夜は赤い傘を持っている必要がある」
「槐くんが猫ちゃんに傘を渡したら、私の傘に入ってもいいよ」
俺が猫に傘を渡す前提で紗夜は鷹揚に笑う。
「窮屈そうだ。それなら俺は雨に打たれる」
「照れちゃって」
紗夜が言う。父が笑う。私は黙る。家族の光景。今にしかない。これからは存在しない。家族三人の風景。
「それじゃあ。またね、お父さん」
「失礼します」
私が言うと、紗夜がじっと私を見た。何を求められているのかを、私は察している。「……お父さん。また」私は父へ、そのように言う。紗夜が満足そうに微笑む。父が笑みを携える。
「さようなら。紗夜、由正。私の最も愛する、大事な大事な二人の子たち……また、会おう」
そうして紗夜と私は、父の病室を出た。
途端に、紗夜が小さく首を振り、赤い傘を落として顔を両手で覆い、その場にうずくまった。しばらく、しばらく、義姉はうずくまり、私はその傍に佇んでいた。廊下を歩いていた看護師の方が仰天して近寄ってきたが、私と紗夜が出てきたであろう病室を見て察したのか、一枚のタオルを持ってきてくれて、返さなくても大丈夫だからねと言い置いて、立ち去って行った。
「ごめんね。じゃあ、行こっか」
「……ああ」
私たちは病院を出た。
外は雨が降っていた。
来た時と同じように、私たちは近くの駅に向かって電車に乗り、そこから屋敷まで歩いて帰るつもりだ。
「私の背中に翼が生えていてくれていたらなあ」
空を見上げ、紗夜が言う。
私の返答を欲していない、それは独り言のようだ。
「昇っていく魂を、手に入れることができるのに」
私たちは歩き、歩いて、屋敷へ向かった。
帰り際、白猫にも黒猫にも出会わなかった。いつの間にか傘を失くしたりも、思い浮かべそうになった人名を忘れたりもしなかった。