お屋敷(夜)
分からなかった。
延寿は、分からなかった。
ひたすら、ひたすら、考えども、考えども、答えが出てこなかった。解の無い問いを、繰り返し、繰り返し、頭の中で解き続けていた。手は無意識にポケットへ突っ込み、先ほど外に落ちていた注射器に触れている。幻覚を視ていた巌義麻梨の、おそらくは視る原因となった薬物に触れている。先端の針にだけは触れないように注意しつつ。
「……どうですか」
考え考え、延寿は眼下の紗夜へ問いかけた。
「うん。命に別状はないみたい。今も眠っているだけみたいだし」
膝をついて麻梨を診ていた紗夜は、大丈夫そうだね、と笑みを返した。診る、とは云っても呼吸の有無を、脈拍の有無を確認しただけの確実性の無い診断だ。WWDWを常習的に服用していた以上、麻梨の体内では不可逆な破壊が確実に生じている。
「明らかに普通じゃなかったし。救急車呼んだ方がいいだろ」
傍の伊織が顎で麻梨を差し、あと警察もな、と付け足した。
ごくごく常識的な判断だ、と現状の解を問い続ける延寿は考えた。救急車を呼び、警察を呼び、この状況を治めさせる。そうすれば自分たちの滞在も終わりとなるだろう。警察の事情聴取を受け、薬物所持の巌義麻梨との関与を問われ、散々に疑いをかけられたのちに解放されて各々帰宅し、そうしていつも通りの日々に備える。これまで通りの生活が開始される。まともな選択だ。
「……うーん。そうしたいのは山々なんだけどね」
見るからに紗夜は難色を示している。
警察が来た場合の面倒を懸念しているのか、あるいは何か後ろめたいところがあるのか。麻梨の吐しゃ物は未消化のビーフカレーのような色合い、形状、臭いだった。延寿たちの夕食と同じメニューだ。となれば誰かが提供したということになる。延寿の見つめる先の紗夜は、どう言ったらいいかな、と苦笑を浮かべている。
「警察が来てしまえば、この楽しいお泊り会は途端にお開きだぞ?」
そう発するのは椿姫だ。余裕のある笑みを浮かべ、歯が見えている。
「はあ? そんなのどうだっていいだろ。こんな犯罪者と、それもオクスリで頭ぱっぱらぱーになってるヤツはさっさと救急車に乗って警察と病院までデートしに行きゃいいんだよ」
信じられないと反論し、更に伊織は言い募る。
「第一、危険だろ。またそいつが目を覚ましてさ、僕らを化け物かなんかと勘違いして刃物持ち出したり掴みかかってきたりしたらどうすんだよ」
幻覚を視ているのなら、その可能性もあり得る。延寿は視線を、自身が先ほど置いたシャベルへ向けた。血に塗れている。「……」血に塗れていない。俺は、そうあってはならない。誰も傷つけてはいけない。
「なるほど確かに……そこは危惧すべきところだな。今のうちに紐か縄で縛っておこう」
と言うが早いか、椿姫はサンルームの入り口に向けて歩き出した。
「清身さんたちに聞いてみて。ついでに状況の説明もよろしくね」
「了解した」
話を聞いていた紗夜からの言葉に椿姫は背中で返事をし、
「あ。待って椿姫」
「なんだ」
呼び止められ、椿姫が振り返る。その拍子にゆらり、と結わえた髪の房が揺れた。
「ついでに身体を拭くものをもらってきて。あと着替えがあったら、着替えも。下着とかさ」
「ああ。分かったよ。無いなら無いで生徒会長殿のものをお借りしよう。私のだと少しサイズが大きいだろう」
「私のだってたぶん大きいよ? いいからほら早く行ってきて椿姫」
不満そうな紗夜にしっしっと手を払われ、椿姫は楽し気だと笑みを携えサンルームの扉を開け廊下へと消えた。
「そいつ、本当に縛るのか」
伊織が麻梨を指さし、問いかける。
「本当に縛るよ。……可哀そうだけどね」
紗夜が答え、麻梨へ視線を向ける。憐れみが湛えられていた。紗夜は麻梨を憐れんでいる。延寿は解を考える。
「その前に巌義さん……麻梨ちゃんの身体を綺麗にしたいかな。女の子だし、戻したのを身体につけたままなのは嫌だと思うから」
「まあ確かにゲロ塗れで臭いんだけどさ……」
「椿姫が拭くものと着替えと紐を持ってきたら、いったん延寿くんと伊織くんにはこの部屋を出て行ってもらうね。理由は言わなくてもわかるでしょ」
「分かってるよっ。できればそのまま帰らせてほしいんだけどな!」
「それはだめ」
「ダメってなんでだよ!?」
紗夜と伊織が会話を……口論になりかけている。
……出てこない。ここにきて、侵入者の正体が巌義麻梨だと判明してから今に至るまで、出てきていない。
なぜ、巌義麻梨がここにいるのか。
という疑問が、紗夜と椿姫の口から出ていない。
伊織には麻梨への確かな戸惑いがあった。今としても、巌義麻梨がなぜここにいるのかというよりも、どうやってこの危険から逃れるか、のほうに重きを置いているように見える。
対して紗夜と椿姫は……いたって冷静だ。紗夜は麻梨を憐れんでいる。彼女が匿う理由を持つとすれば、ソレだろうか。椿姫は紗夜から事情を既に聞いていたとすれば、あの余裕も頷ける。もしも二人が麻梨の存在を知っていたのなら、さっきの207号室からの一連の行動は、まるきり茶番だ。なら、なぜ黙っていた?
「鷲巣さん……カレンちゃんの居場所について、話し合わないといけないでしょ」
言葉とともに向けられた紗夜の視線に、延寿は気付いている。気付いてなお、何も反応しなかった。花蓮はどこにいるのだろう? 長い旅に出た、と巌義麻梨はうつろに言っていた。長い旅。遠い旅。戻ることのできないほど長く、遠い……誰かが彼女を案内したのか。紗夜を見返す、紗夜は黙っている。
「それはっ……そう、だけどさッ……!」
伊織が歯がゆそうに視線を左右に迷わせ、苛立たし気に延寿を見た。そうして間髪おかずに逸らした。伊織は延寿の望みを汲んでくれている。彼が花蓮の居場所を渇望していることを彼は理解している。延寿の望みを絶えさせないように、伊織は健気に行動に移す。
「だから、ちょっと待ってほしいんだ。話し合いが終われば、すぐにでも救急車と警察を呼ぶよ? それまでに麻梨ちゃんが死んじゃったりしないように注意だってしておく。伊織くんたちの安全は、私が確実なかたちで保障する」
嘘など、誰だってつける。
麻梨の滞在を知らないと云える。花蓮の居場所を知らないと云える。害意がないと口で言う者でも、刃物を隠し持っていることはあり得るのだ。
「……」
「……っ」
延寿は伊織を見る。見返す伊織の目に湛えられているのは不安だ。縋るように見つめ返される。懸念事項があるとするなら、伊織だ。危険から可能な限り遠ざけたい。
「……」
がさり、と。
耳に入った葉が擦れるような物音に、延寿は視線をそちらへ向けた。青々とした観葉植物が並び、天国の白い鳥の姿もある。白を基調としたガラス棚があり、注射器らしき筒状のもの(置物は何処へ?)がガラス戸の向こうに無数に転がっている。……特に変わった様子はない。ぽつぽつと音がし、風に吹かれた水滴がサンルームにぶつかっているようだ。雨が降り始めた。
「オーガスタは、開花がとても難しいんだ。それに何メートルにも大きくなる」
延寿の視線の先に気付いたのか、黙り込んだ伊織との会話を断ち切った紗夜がそう言った。「でもどうしてか、このサンルームではそこまで大きくもないのに、花が開いている。場所が良いのかな」紗夜が笑いかける。「この屋敷は、生命に満ちているのかも」愉快そうに冗談を投げかける。
「……」
白い小鳥が一羽、グランドピアノの上で羽を休めていた。
「あれ。雨が降り始めたみたいだね。けっこう勢いが強い」
延寿は考え続けている。
だが、解は出てこない。あらゆる答えが見つけられない。
麻梨のあの目の、怨みのこもった視線。
彼女の口から出てきた言葉の群れ。
ちらばっていた画用紙に描かれていた自分と自分の知る者達によく似た人物たち。
外壁を懸命に上るゲジの赤い足跡。
204号室の机の下に塗られた血液。
サロンに飾られている不可解な家族の画。
赤く塗りつぶされた一人の少女の姿。
花蓮は何処へ行った、という麻梨の問いかけの意味。
ポケットの中の注射器を触る。無意識に。『あなたとて使わざるを得なくなる』麻梨はそう言った。『幻覚の中でしか会えない彼らがいたのなら』そう憎んでいた。『いくら懐かしもうとも恋しく思おうとも絶対に会えない誰かがいたのなら』そう泣いていた。白い小鳥がピアノの上で羽根を休めている。紗夜はそれに気づいた様子がない。伊織も視えていないようだ。ならば幻覚……幻覚か。
「夜雨だ」
外界を見、窓打つ雨粒を見、紗夜が言う。
分からなければ、訊ねればいい。疑問に思っているのなら訊ねるべきだ。答えの持ち主は、すぐ目の前にいる。聞けば答えるだろう。
「本降りになりそうだね」
どう、問う?
「生徒会長。聞きたいことがあります」
どんな文言で、答えを要求しよう。
あまりに直接的だと、自身のみならず伊織にまで危害が及ぶ可能性がある。
「なにかな?」
聞かれるのを予め知っていたかのように自然と、紗夜は延寿の問いを受け入れた。なんでも聞きなよ、という寛容に目を細めていた。
「花蓮は、」
延寿が口を開いた────瞬間。
ピカ、と空間を白が埋め尽くした。
「な」
ドオン、と轟音が鳴り響いた。
「うああ!!?」
ブツン、と室内の電灯が一斉に消えた。
「────!?」
すべてが一瞬のうちに過ぎ、明るさに慣れていた延寿の視界は一切を映さなくなった。雷が落ち、停電したのだ。何とも間が悪く。
「な、なんだよ停電なのか!?」
伊織が叫ぶ。パニックを起こしかけている。
「伊織」
呼び、延寿は伊織の叫び声がした方へ手を伸ばし、「うわ!?」叫ばれ、振り払われた。「ひとまずは俺の近くにいた方がいい」「え。あ。い、今のってお前の手っ……」「こっちに」「う。うん」
大人しく、伊織は延寿の傍にきた。そっと背中に当てられる手の感触があった。不安に次ぐ不安だ。怯えるのも無理もない。この暗闇に生じるかもしれないなにかに、気を失っているだろう麻梨が起こすかもしれない凶行に。……視界の失われたなかでなお冷静に佇んでいるだろう紗夜に。
「……こういう状況、前にもあったね。ビルの地下で、あのときも麻梨ちゃんや伊織くんといっしょだった」
姿なく、紗夜の声だけが届く。その声音は落ち着いていて、雷鳴も、停電も、暗闇も……なにひとつ、彼女は恐れていない。「真っ暗のなかで、麻梨ちゃんに逃げられちゃったんだ。今度は逃げられないようにしないといけないね」
「伊織」
「な、なに?」
視線を紗夜と麻梨がいるだろう方向から逸らさず、延寿は言う。
「スマートフォンだ。明かりをつけられる」
「あそうだ。そうだったな」
伊織は慌てた手つきでスマートフォンを取り出し、ライトをつける。延寿もまた、懐中電灯を取り出して電源をオンにした。心細い電灯が二つ、こちらを向いている紗夜と変わらず気を失っている麻梨を照らし出した。
「まぶしいよ」
眩げに紗夜が手のひらで光を遮った。
「お前もライト点ければいいだろ」
光源を得てある程度落ち着いたのか、伊織が言う。言われた紗夜はそうだったね、とスマートフォンを取り出し、ライトを点けた。暗闇に三つ、光点が灯る。
「停電かなあ」
「ブレーカーみたいなのあるんだろ。どこなんだ」
「地下の電気室」
「電気室なんかあるのかよ……」
「電気が無ければ動かないものが多いからね、このお屋敷は」
三者、サンルーム内を懐中電灯で照らす。延寿が照らす先にはグランドピアノがあり、白い小鳥の姿は消えている。ガラス棚には置物が並び(注射器は?)、白い椅子に白いテーブル、深緑の観葉植物が並んでいる。黒い外界にはざあざあと雨が降る。
「じゃあ、電気室に行こっか」
「え」
「え、じゃないんだよ伊織くん。このまま真っ暗闇のなかにいたい?」
「使用人がしてくれるんじゃないのかよ」
「その可能性も大きいけど、とりあえずは私達も見に行ったほうが良いと思う。動ける人が動かなきゃ。場所なら私も知ってるし」
「でもさ……」
「麻梨ちゃんにはごめんだけど、まだぐっすりみたいだからもう少しここにいてもらうことになるね。そんなかかんないから大丈夫でしょ」
その間に目が覚めて逃げられたらどうするんだよ、という伊織の詰問に、紗夜は「起きたとしてもまともに動けるような状態じゃないよ」とあっけらかんと答えていた。それでも彼女は、動けないのだろう麻梨を縛ろうとする椿姫を引き留めなかった。
「お、おい。どうする」
伊織に恐る恐る問われ、延寿は「行こう。誰かが一人でここに残るよりも、三人で行動するほうが安全だ」そう答えた。
「なんだかわくわくするね。肝試しみたいっ」
光のないサンルーム内で、弾むように紗夜が言い、足取り軽やかに入口へと向かっている。
「わくわくなんかするわけないだろっ……」
近くで伊織が吐き捨てる。
「こわいものが、出てきそう」
振り返り、にやりと紗夜が悪戯な笑みを浮かべた。「延寿くん。シャベルを、忘れずにね」
言われずとも、と延寿は片手にシャベルを拾い上げていた。もう片方には、懐中電灯。傍には伊織。前方には紗夜。少し離れたところに、眠っている麻梨。
「それじゃあ、いこー。電気室へれっつごーっ」
能天気な掛け声とともに紗夜の手で扉が大きく開かれ、一足先にと彼女は廊下へ出た。廊下はやはり暗く、何も窺えない。雨音が強くなる。ざあざあと屋敷を打ち続ける。
「な、なあ、本当に行くのか」
雨音に混じり、か細く伊織に尋ねられる。
「きみは途中でサロンに向かえ」
小さく、延寿はそう返した。紗夜に聞こえないように、雨音に打ち消されるほどの声で。「冬真たちといっしょにいるんだ」紗夜に対しては、どうとでも理由はつけられる。彼女がどう思ったとしても……紗夜は確実に、自身が不審に思われていると理解している。それでもなお、紗夜は何も行動に移していない。
ならばそのうちに、伊織をより安全な空間へ行かせる。
「俺は、生徒会長と話したいことがある」
延寿は、シャベルを握る手に、より強く力を込めた。何が待ち受けているかは分からない。どう事態が転ぶのかも断定できない。嫌な予感が強く、強くする。
「っ……」
伊織は何も言い返さない。
ただ不安そうな瞳だけが、灰色に揺れている。