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雨は止まず、午後になった。
自室内に雨風の音がざあざあと響いている。雨粒が窓に弾ける音が聞こえる。心細い電灯は、視界の薄暗さを拭い去れない。
外では雨音が激しいというのに、家の中は静かなものだ。
記憶の始まりから今日に至るまで過ごしているこの家は、騒音とは常に無縁だ。父も母も騒ぎ立てるような性格ではなく、唯一賑やかだった小さな友人は窓から羽ばたき出て、まだ自由を謳歌している。リビングにあるケージは空っぽで、清掃してからそのままだ。
自室で学校の教科書を眺め見ていると、インターホンの音が聞こえた。両親は在宅中だが、この時間の来客が誰なのかを知っているため、自然と俺が玄関扉を開ける役になる。
「こんにちは」
やってきたユニさんは白の折り畳み傘を手に、銀縁眼鏡の奥で静かに笑んでいる。こんにちは、と挨拶を交わし、「すごく降ってるね」とユニさんは苦笑した。
「タオル持ってきましょうか」
「へ? あ、いえいえ、大丈夫……」
言いかけて、ユニさんは自身の身体へ視線を巡らせ、「です。雨に濡れてもいないから、ご心配なく」
そう言うと、再び自身の服装、足先まで視線を巡らせた。外の大雨を歩いてきた為、玄関には濡れた靴底の跡が続いている。
「……足の跡は、大丈夫?」
申し訳なさそうにユニさんが尋ねてきた。律儀なものだ。靴を履き大雨の中を歩いた直後に足跡を作るな、というのも無理な話だろう。晴れていたとしてもだ。歩行すれば泥土などの汚れは必ずつく。
「歩く限り足跡はどうやってもできますよ」
だから心配するほどでもなく、重視する必要もない取るに足らないものだ。俺の言葉にユニさんは眉尻をさげ、
「そうでしたね。歩く限りは汚れ続けますから」
困ったような笑みを浮かべ、用意していたスリッパへ履き替えつつ「どうしたって足跡はできてしまう」そんなひとり言をユニさんは口にし、リビングでやはり鹿爪顔でノートパソコンと睨み合いをしていた父へ挨拶を交わし、自室へ入った。
「勉強……とは言っても、由正く……由正は、いま学校の勉強で分からないところはある?」
「……」
問われ、学校の授業について思い返す。
授業の範囲に過ぎなくはあるが、現状で理解できていないところは思い当たらない。詰まっている個所はなく、結論への辿り方が不明瞭な部分に関しても担当科目の先生に個人的に尋ねて解説をしてもらっている。
「いえ……。授業で習っている範囲だけですが、特には……おそらくですが」
無論、自分自身の視野の中での話だ。そこから外れた事柄は理解できていないだろうし、理解できていないことに気づいていない分野だって当然多い。結局は分からないことだらけなのだろう、自分が死ぬそのときだって、世の知識に総量があるとするならその一分一厘ほどの理解もできていないに違いない。それでも死ぬのだ。
「そ、そうですか……」
学校の範囲で分からないところが無いのなら、進路希望としている先、高校……は、或吾高校に行くつもりだが、その更に先……気が早くもあるが、大学試験の学部、学科別の対策だろうか。……ここが良い、という希望先も、今のところは思い当たらない。ひとまずは親の云う〝立派な〟という形容詞を得られるような偏差値の高い大学を目指すべきなのだろうか。
「優秀な生徒を前にしたら、こちらも気合を入れなきゃですね。負けていられません」
「……」
そんなことをユニさんは自分へ言い聞かせている。こちらとしては家庭教師の先生に勝ちたいわけではない。
「給料をもらっている以上、何らかの成果を上げる必要があります」
責任感の強い人だ。
「将来なりたい職業はありますか?」
「職業……」
特に思い当たる職種がない。
「それなら、由正のお父さんが確か……、製薬会社の研究職でしたね。同じところを目指したりとか、考えていますか?」
父が務めるのは市外に本社を構える製薬会社で、月ヶ峰市内にも開発の拠点として研究所がある。父が話したのだろう。
「まだ、……はっきりと、決めていません」
父の背を追い、同じ職種を目指す。
他に何も目的がないのなら、そうした方が良いのかもしれない。先達である父や、同じ分野にいるだろうユニさんから話を聞くこともできる。
「月峰大きます? 月ヶ峰市内にキャンパスがありますので、遠くはならないですよ。駅も近いので通いやすいですし、設備も最新のものが揃えられています。近くにくつろげる喫茶店があって美味しいお食事処もあります。私と母校を同じにしませんか?」
推してくる。
「月峰大を受けるなら在学生である私の知識を余すところなく授けられますっ」
「……考えてみます」
「なるほどなるほど、分かりました」
俺の返答に、「それなら、ば」ユニさんは意気揚々と持ってきていた鞄から封筒型のファイルケースを取り出した。「少し先の話ですが、今から勉強するのも良いはずです」
「こちらが月峰大の推薦、一般両方の過去問と解説付きの解答。それに出題される内容の傾向を私なりに分析した文書となっています」
もうすでに用意していたらしい。
「準備が良いですね」
「ええ。意欲ある生徒の速やかな一助となるための労力は惜しみません」
「まだ中学生なんですが」
「準備は早い方が良いですっ。或吾高校に行く、んでしたよね?」
「そのつもりですが……」
「今の授業範囲を理解しているのなら、高校の授業と、更には月峰……本学の授業もやってみるべきです。その先へどんどん進んでいきましょう。あなたにはあなたの学習速度があります。それを存分に発揮する機会です」
受け取り、中身を閲覧する。
「それでは、さっそく解いてみましょうか」
その後、ユニさんが持参した書類をもとに、問題を解き始め────て、ある程度の終えた頃合いだった。
「由正は好きな元素とかあります?」
まるで好きな子でも尋ねるみたいに、ユニさんはそんな質問を投げかけてきた。浮かべている笑みは好きな子を尋ねているときのソレだ。
「好きな元素……?」
「はい。好きな元素です」
考えたことが無かった。元素は元素だ。目の前に等しく並んでいる。
「ちなみに私はイリジウムです」
「イリジウム……」
イリジウム……。
なぜ?
「なぜ、という目をしていますね。是非に聞きたいという好奇心が見えます」
「……はい」
そこまでではないが、気にはなる。
「お答えしましょう……イリジウムという名称は虹の女神イリスからきています。英語ではアイリスです。虹彩、という意を持つあのアイリスです」
あの、と言われても反応に困る。
「私は虹が好きです。きらきらと光る虹が……そうして、イリジウムは元素番号77番。ラッキーセブンですね。そうして比重が重く、腐食に強い。しかし硬くてもろいんです。そこがまた、良いとは思いませんか」
「……」
分からない。
俺の分からなさが伝わってしまったのか、ユニさんははっとしたように目を開くと見る間に頬を染め、やってしまったと首を振り、
「……すみません。一人で盛り上がってしまって」
反省の言が出てきて、どんよりと項垂れている。落ち込みようがすごい。
「虹が、好きなんですね」
「……はい。小さな頃から、虹を見上げるのが好きでした」
視線を外したまま、照れくさそうに含羞んだ。その姿にふと生じた既視感の……理由が、分からない。どこかで見たような、それだけだった。
「雨が上がれば虹が出る。ただそれだけなのに」
銀縁の眼鏡をそっと外し、どこか愛おしそうに眺めている。「私の眼には……本当に綺麗に映っていましたから」その眼鏡が、彼女にとって大切なものなのだろうか。
「……それで、由正にはありますか? 好きな元素」
眼鏡を机の上に置き、ユニさんは言う。問いは続いていたらしい。
「特に思い当たりません」
「なるほど。特出はなくすべてが好きだ、と」
俺の返答にユニさんは独自の解釈をしたようだ。元素へ対する興味が平板であるのは事実のため、わざわざ否定する必要もなく思う。
「元素は……ご存じの通り、万物を構成するもととなるもの、です。元素の種類は原子の種類にそのまま通じ、現実に私たちの身体は元素でできています。このボールペンもそうですし、この眼鏡もそうです。あらゆるものの実在が、元素の組み合わせで成立している」
ならば、とユニさんは俺を見た。眼鏡をかけていないために、その茶色の虹彩が直に視界に入ってくる。誰か、の、面影が……思い至らない。先ほどに笑みを浮かべた時といい、気のせいなのか。にしては……
「由正」
「はい」
真正面から見つめるその瞳には、挑戦の色合いが窺えた。
「私とこれから、空想を交わしてみませんか」
空想を……ありもしないものについて、語る、ということ。
「分かりました」
頷く俺をユニさんは相変わらず見つめ、そうしてゆっくりと、
「魂、は。どう、存在すると考えますか」
魂。それはありもしないもの。ゆえに、これから交わすに相応しい題目。
「魂というものについて。それが実在するものと仮定したうえで、それがどういう存在の仕方をするのか。元素の組み合わせとしてなのか、あるいはひとつの元素そのものとしてなのか……どう、考えますか、由正」
魂が在るとするならば。
元素の組み合わせか、元素そのものか。
「既存のものでは、確実にありません」
「既存というのは、ヒトが判明させている範囲の元素ということですか? それとも、いまこの地球上、宇宙を含めた実在する全範囲で存在しているすべての元素のこと?」
人間が発見できている元素の範囲なのか、それら以外の現在研究中の元素を……引いては世界を構成するあらゆる未知の元素か。
前者の既存だ。魂が実在すると仮定するのなら、存在するあらゆる元素の中に魂を成立させるだろうソレ(あるいはソレら)が含まれることになる。
「人が判明させている範囲の元素を、既存としています」
「そうですか。それならウンウンエンニウム以降に、魂の構造を解明できる元素が存在しているのですね」
ふむふむ、とユニさんは目を細める。楽し気だ。
「現在、元素の発見で採られているのは重イオンを加速器により光速に近い速さまで加速させて原子核を合成するという方法です。超重元素と呼ばれるそれらは放射性で、放射壊変によりすぐに他の原子核へ変化してしまう……それになにより、分かりますか、由正。それらの元素は、ヒトの手が加わっています」
即ち、人工である、ということだ。
「将来的に発見されるであろう魂を成立させる元素とは、人工の元素なのですか?」
その言葉の矛盾は理解している。
魂が人工物なら、そうしてそれが将来的に発見されるというのなら、現在の人類は誰も魂を所持していない、が成立する。
「分かりますか? 分かっていますよね? 由正……いえ、エンジュ。あなたが分かっていない筈はありませんね?」
ユニさんの言葉には熱がこもり、矛盾を解消させるような答えを、俺に期待している。茶色の視線が、俺を凝視している。
「それでも、魂は実在すると証明できますか? エンジュ? どうですか? 魂は在るのだと云う仮定を崩壊させず、納得のいく説明はつけられますか?」
「それと、も」ユニさんが笑う。愛おしそうに目を細めている。その愛情の対象は……俺、なのか。
「今のヒトは魂など持っていないのだ、と結論しますか?」
それは在り得ない。「本質のないがらんどうが、今のヒトの正体だと思いますか?」
「魂が在るという前提を放棄すれば、この問いは消滅します。魂は無く、魂を構成する元素は存在せず、魂が人工物であるというSFのような結論に至らなくても済みます」
「自然界に、まだあるのかもしれません」
苦し紛れだが、可能性はある。
人類が発見できていない元素とて、それらが一切無いとは断言しきれないからだ。
「魂はヒトのモノであるというのに、それらがあるのは深海の底か、もしくは宇宙の涯なのですか? ヒトが持っているものではないのですか? なぜ、ヒトから発見できないのですか? ヒトを切断すれば観測できるのではありませんか?」
「人間に加えられた外的な損傷が、魂を構成する原子を別のものに変化させるのかもしれません」
「それは、複雑系で扱われているような、要素の組み合わせが崩れてしまえば本質が消えてしまう、というものと同じ認識で良いのでしょうか。この場合は要素の組み合わせが人体で、本質が魂です。どうです、エンジュ?」
「……はい」
「その場合、魂が他の原子核へ変化するとは、どんな原子核なのでしょうね。放射壊変と似たような現象なのでしょうか。でもそうしたら人体の内部で放射線が出現してしまいますね、一大事ですねっ。ふふ、楽しいですね、エンジュ」
笑みを浮かべ、楽しそうに、本当に楽しそうに、嬉しそうに、ユニさんが俺へ笑いかけてくる。
「あなたとの会話は楽しいです」
喜びに満ち溢れていて、
「あなたと交わす好奇心はいつだって楽しかった」
言葉には熱がこもっていて、
「……………………」
黙っ、た……。
「…………すみ、ま、せん」
謝られてしまった。「つい。つい、熱くなってしまって……本当にすみません。こんな質問責めにするつもりではなく、て……」
項垂れ、頭をさげ、しょげている。
手は落ち着きなく眼鏡のツルを触り、怒られた子どものようにちらちらとこちらを窺っている。
「大丈夫です。俺も気になっていますから」
実際、怒ってなどいるはずがなかった。
ユニさんの質問に、どうにか説明をつけようと思考を巡らせていただけだ。個人的に、魂の元素に関しても興味があった。だが……俺の頭では、魂がどう存在するのか、という明瞭な結論が出てこない。
「魂がどういうかたちで在るのか、ユニさんの考えを聞かせてほしいです」
「え……あ。は、はいっ……」
そう言うと、項垂れていたユニさんは気を取り直して、と眼鏡をかけ、あらためて俺の方へ視線を向けた。そこに先ほどの熱は抑えられていて、だがどことなく期待はこもっているように思えた。
魂とはどういう元素から成り立つのか。
在る、と仮定した上での、考え。
「魂が、……それが元素としてあるのなら、私は元素の組み合わせではなく、単一元素として存在していると考えています。元素番号に関しましても、水素よりも質量は無く、原子ではなく元素としてどう存在するかなので、陽子の数もゼロ、中性子のみの核が崩壊もせずに安定状態にあるのだと考え、ます……詭弁な上に暴論ですけど……」
考え考え、ユニさんは言う。「そうであってくれたら、という希望的観測が多分に含まれているのは認めます、はい……」自信はなさそうだ。
「そうでもしなければ魂の存在を前提として置けません」
俺は理解している。
そもそもが、魂などは存在しないのだから。
それでもあると仮定するのなら、必ずどこかに致命的な矛盾が生じる。
「それに、俺が今ユニさんと交わしているのは現実ではなく、空想の話です」
大前提として魂が無いとした上での、魂が存在する仕組みについての考察だ。魂はその実在を否定するまでもなく、肯定しようがない。あってくれたら、という希望だけでは、魂は物質として世界に存在してはくれない。
「……はい。そうでした。そうでしたね。私たちが交わしているのは絵空事です」
開き直った、とユニさんは微笑んだ。
「陽子がゼロなのだから……元素番号もゼロです。0、です。0番の元素は、受精とともに既存の元素が変化し、0番となります。その受精卵、ゆくゆくヒトの姿形を持つその誰かの魂は、そのときに生じます。そうしてDNAのなかへも溶け込み、複製され、分裂し、胚となり、人体になり、その人体のなかは0番で満たされているのです。それが魂の在り方です」
即ち元素番号0番は人体を殻としており、人体の表面を損傷させれば、物騒な話ではあるが切断、断裂させれば漏れ出てくる……そうすることで魂は観測される。もしくは、外気に触れた瞬間に何らかの変化が起こっている。…………、魂を観測する手段を、現在の人類は発見できていない。あくまで魂が存在するという前提に従い続けるなら、そのようになる。
だとして、それならば歴史上に横たわる多くの人体の死骸から漏出し続けた0番は、世界のどこに凝るのだろうか……空想であるのだから、答えの出ようがない。多くの人間の魂の塊のようなものが、世界の何処かに存在すると考えるのは……苦笑ものだ。まあ、空想の本分には違いない。
「0番元素は同位体もあるかもしれません。いえ……陽子がゼロ同士であることを同じ数、と言い切ればの場合ですが……それでもあるとするなら、同じ0番元素を持ち、存在比を違えた状態で、世界に普遍的に存在している。あるいは、ヒトという個体ごとに、0番元素の存在比が割り振られているかもしれません、根拠のない仮説となりますが……そうして0番元素は魔法数、では……そもそも陽子がないから、プラスの電荷がないから違うはず……中性子しかないため、不安定で崩壊も早い、はず……ううん……人体のなかでのみ安定していて、外気に触れると崩壊する……? その速度はヒトや、ヒトの用いる機器では観測できないほどに極々微小のために0番元素は発見できていないのでしょうか……んん……うううん……」
つまりは、と悩みに悩んだユニさんは視線を上に向け更に悩みに悩み、また俺のほうへ向けた。
「エン……由正が言っていたように、魂は自然界に、ヒトを容器として存在していて、……人間の体内にある元素なのに、今に至るまで人間が見つけられていません」
ユニさんが、はあとため息をついた。「人体の神秘は、まだまだ未解明ということです……魂が在るものだという仮定にしてしまうと、現実があらゆる実証でもって邪魔をしてくる……」
魂。元素番号0番。空想の産物。
どうやっても在りようがない単一元素。
「由正、将来的には私と共同で研究を行ってみますか。もっと専門的に、もっと徹底して、魂……元素番号0番の存在を証明してみませんか? あるいは、一分の瑕疵もない、魂の否定を……あなたの機会をお借りするようなかたちで、ですけれど」
にこり、とユニさんが笑みを向けてきた。期待しか込められていないような、きらきらとした笑顔を浮かべている。
「面白そうですね」
「! そうですよね、そうですよねっ、面白いですよ、きっと面白いっ」
俺の返答に、ユニさんの笑顔が更に輝きを帯びたように見えた。
実際、面白そうだ。過程を突き詰め、結果を追究する。ああ、楽しそうだ。
「私はあなたを、いつでも待っていますから」
そう微笑むと……「というかもう時間ですね。雑談で話し過ぎてしまいましたね……」教育者失格ですね……、と自省した様子のユニさんが肩を落としてどんよりしている。
「でも、有意義な時間でした。楽しかったです」
そうユニさんに伝える。
フォローでもあるが、本心でもある。楽しかったのは確かだ。
「……!」
とたん、ユニさんの表情が明るくなり、「そう言ってもらえると私も嬉しいです」と子どものように無邪気に笑った。表情がくるくる変わる人だ。きっと彼女は素直で純粋なのだろう。
その後は後片付けを行い、
「それは差し上げます。将来の後輩への、私からの餞別です。あなたが望むのなら、その情報をアップデートしたものだって作成してみせますよ」
ファイルケースごと頂き、目に満足を湛えてユニさんは土砂降りの中を白い傘とともに帰って行った。雨の勢いが激しく、大丈夫だろうかと思う。歩きゆく背中は元気で、大丈夫そうではあるが……。
家に戻り、リビングへ入る。父は自身の書斎へこもったらしく、母だけがのんびりとテレビを見ていた。流れているのはニュースだ。真昼ヶ丘市の強盗事件について、いまだ逃走中の犯人の名前が報道されている。
神山真司。
神山亜紀。
神宮寺乾。
車に乗って逃走したのだと、防犯カメラの映像が車種とナンバーとともに流されている。黒色の軽自動車だった。
「怖いわねえ」
さして怖がっている様子でもなく、母が言う。
「すぐ捕まるよ」
顔も名前も車も割れている。時間の問題だろう。
視界の端に空のケージが映っている。窓の外は大雨だ。明日には止んでくれているといいが……そんな俺の願いを嘲笑するかのように、雨の激しさが一層増した。