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「おひさしぶりだね」
街を歩けば逢えると思った。
想像、……に、違わず、きみは佇んでいた。思うところはあるけれど、人通りの多い場所ならまだ大丈夫だろう。
「ああ。久しぶり」
いまは午前の、曇り空。午後から家庭教師がやってくる。その前の空き時間を、俺は散歩に費やすことに決めた。気晴らしだ。散歩をするには雲の多い灰色の街中を、それでも気晴らしにと外靴を履いた。家のリビングでは隣の真昼ヶ丘市のコンビニに二人組の強盗が入って現在も逃走中とのニュースが流れており、父親からは「午後には戻って来なさい」との言葉を受け、肝心の天気予報は見なかった。だが、降水確率が決して低くはないのは空の暗さで瞭然だ。だから、念の為にと傘を手に持った。真昼ヶ丘市では強盗、月ヶ峰市では動物殺し……物騒なものだ。
「ふふ。お互いに逢おうとしたつもりでもないのに、こうしてここで出逢ってしまう。これを運命と呼ばずして、といったところかな」
街路を通り、駅前広場へ辿り着き。
曇天にほとんど人のいない光景のなかで、ぼんやりと足元の芝生を見下ろすきみを見つけた。いつもの真っ白な服に、黒のキャペリン帽、片手には真っ黒の傘。白い髪に、灰色の……どこか、哀しそうな瞳。色彩がモノトーンに寄った立ち姿は、灰色の世界に溶け込んでいた。
「……なにか反応してくれないの? 今、ここにはきざったらしい台詞を言い放ったばかりの恥ずかしい人が一人いるような状況になっちゃってるけど」
その言葉に、その少し恥ずかしそうで恨みがましい視線に、口を閉ざしていたことを自覚した。考え事をしていたために言葉を返せていなかったようだ。
「運命は……」
そこで言葉を止めた。運命というものには否定的だ。……しかし、それをいま否定したところで何も生まない。気に入らないからと否定し続けるのは、まるで駄々をこねる子どものようで……そうは、ありたくない。そうあってはいけないんだ。
「運命は……?」
突如口を止めた俺をきみは不思議そうに見ている。灰色の視線に見つめられ、どのような返答が良いのかに悩み、出てきたのは、
「確かに、運命的だな」
何というきざったらしいものだろう。
「おお……」
きみは驚いたような表情を浮かべると、「ふふ」すぐに表情を崩し、「あははっ、きざったらしい人の二人目がいるーっ」楽しそうに笑う。苦笑が、自身の口元を緩ませる。強情であるよりも、こうして道化になるほうがいい。誰かを傷つけ続けるよりも、笑ってもらった方がずっといい。
「それでさっき、なにを見てたんだ」
「あー……えっとね……」
そう気まずそうに笑みを浮かべると、きみは膝を折り、足元の、先ほどまで見つめていたなにかを拾い上げた。
「これ、なんだけど……」
それは、一枚の紙切れだ。何度か踏まれたのだろう、シワが入り、泥土に汚れている。書かれているのは……「白い、仔猫……」迷い猫の、捜索願だ。つぶらな瞳をした猫のカラー写真が載っている。小さな首輪をつけた、まだ小さな猫だ。好奇心旺盛な瞳を撮影者へ向けており、乗っているのは猫用らしいクッション。傍には猫用のおもちゃ。愛されているのだと、それだけで伝わってくる。そうして連絡先(比較的近い住所だった)と、猫の名前。『シロ』……真っ白だからか。
「ねえ由正。この子、ってさ」
シロという、真っ白な仔猫。
今この街には、動物殺しがいる。捕まった、という話は聞かない。
「首輪を、していたな……」
先日、あの廃墟のような屋敷の傍で発見した仔猫の死骸。首にナイフを突き刺され、腐乱していたあの子が……もしかすると、この迷い猫なのかもしれない。
「首輪だけでも、外して持っておけばよかったかな……名前が書いてあったかもしれないし、そうすれば名前が確認できて、そうすればっ……」
つらそうに、哀しそうに、きみは言う。
「……まだ、確定していない」
「うん……それでも、同じような境遇の子だったのは確かだよね」
記憶の中に、あの日に埋めた仔猫の死骸の姿かたちが明瞭に残っている。確実に愛情をもって育てられていて、これからもそうだったはずであろう仔猫の、腐れて溶けかけた死骸の画が焼き付いている。動物殺し。欠如しているのは確かだ。誰かの大切な存在を手にかけることの悲劇性を、残虐性を、報復の可能性を考慮する能に欠けている。
「……ねえ由正。今日じゃなくても良いから、少し付き合ってほしいんだ」
「掘り返すのか」
「うん。それで、首輪だけでも外すつもり」
首輪だけでもせめて飼い主に、ということか。だが……飼い主に渡し、はたしてそれが何かの救いになるものなのか。見知らぬ子ども二人が急に尋ねてきて、愛情深く育てていたペットの遺品だけを持ってくる。…………飼い主の喪失の哀しみは深く、傷口からは血が流れ出ているその心的状態で、動物殺しに向けられる怒りは犯人が見つからない為に矛先を迷わせているその状況で、最悪、それらの怒りが全て俺ときみに向かってくるという可能性も、なくはない。なぜ首輪を、と疑い、まさかお前らがと疑われる危険は……少なくない。むしろ大きい。そうでなかった場合も、余計なお世話なんだと払いのけられる可能性だってある。行方不明は生と死が重なっている。遺品は死を確定させる。生と死の間に揺蕩っていたいという絶望から生じる願望だってあるのだ。生きているかもしれないに、浸っていたいという放心が。
「……分かってる。きちんと分かってるよ」
きみが首を振り、視線を伏せ、つらそうに言う。「私はほとんど……ううん、確実と言ってもいいくらいに、余計なお世話と思われるか、疑いをもたれることをしようとしている」
でも、ときみは俺を見る。
灰色の瞳には涙が湛えられている。
「だめなんじゃないかって思うんだよ、そういうのはぜったいにダメだって。お別れもできずに、いなくなった空っぽだけを抱え続けるのはっ……」
見開いた眼からは涙がこぼれている。感情からくる言葉の群れが、落涙として処理されていく。迷い鳥は今どこにいるのだろう、とふと思った。
「確かに生きているかもしれないよ? でも私は見つけてしまった。その証拠、生きてはいない絶対の証拠をっ……なら。それなら、見つけた私には責任がある。証拠を渡して、きちんとお別れしてもらうようにしないと、理由はほんとうに頭にくるものだけど、死んでしまったらもう生き返らないから、それならせめて、弔いだけでもしなきゃ、救われようがないんじゃないかって思うんだ」
愛した側と愛された側、確定した死を伝え、弔いをしてもらい、その双方に安らぎの可能性をもたらす……その為には、自分自身が泥をかぶってもいい。
もたらされるのは安らぎだけではないだろう。
死因が死因だ、未だ見つからない犯人に対して怒りと憎しみが増幅される場合だってある。それでも感情の矛先は摩耗し、いつかは弔意と思い出が表に出てきてくれる……これもまた、可能性の話だ。だが可能性は、行動しなければ生じようがない。そうしてきみは行動しようとしている。優しい人間だ、と思う。だからこそ、
「疑いを被るのは俺もだ。きみだけじゃない」
矛先を俺にも向けさせれば、きみはそれだけ傷つかない。
「へ……」
「私、じゃなくて私たち、と言っているんだ」
我が言葉ながら回りくどい。俺もいっしょに行く、と言えばいいものを。しかしきみはすぐに理解してくれたのか、「うん……!」そう笑ってくれた。「ありがとう!」心底嬉しそうに灰色の瞳に笑みを湛え、いま気付いたかのように両の手で涙の粒を拭う。
「うう。ハンカチもってくればよかった。今日に限って……」
「同感だ」
布切れ一枚持ってきていないのが悔やまれる。服……は、きみに抵抗があるだろうから止めておこう。
「悪いけど……今日すぐに、は厳しい。家庭教師がくるんだ」
今でこそ自由に出歩けているものの、一度のサボりで外出が制限されてしまったら元も子もない。
「うんうん、だいじょうぶ。へいきだよ。……というか家庭教師がきてるんだ?」
「親の意向でな」
「へー立派な親御さんだねえ」
ほう、と感嘆するようにきみが息を吐く。少し目こそ赤くなっているが、もうすっかりいつも通りの様子だ。
「明日なら行ける」
「うんっ。またここで待ってるよ。同じ時間で良い?」
「ああ。必ず来る」
「必ず……ふふ、良い意気込みだね」
ただ、ふと疑問に思う。あの仔猫の失踪についてだ。
どうして、仔猫は外に出たのだろう? 写真を見る限り、外飼いではまずないはずだ。窓を開けたすきに外へ出たのか、あるいは何かの用事で扉を開け放っているときに出ていったのか……、
「あ」
その単音は、きみでもなければ俺でもなかった。見ると、ひとりの少女が立っていた。見た目は俺たちと同年代らしき……いや、そもそも俺は彼女を知っている。
「あ、あの、その紙、なにか思い当たりとかあったりとか……」
「小比井か」
おどおどと紙を指さしている彼女は、俺と同じ学校の人間だった。クラスこそ違えど、同学年だ。友人と仲が良く、時おり俺も会話をする……迷い猫の紙に捜索者の氏名は書かれていなかったが、まさか知り合いとは。
「え、うん。あっ……延寿……?」
小比井も気付いたのか、俺を見、次いで傍らのきみを見、また俺を見てきた。
「はーっ。延寿だったんだ、めっちゃ緊張して損した……なんか知らないめちゃ美人さんといっしょにいたからぜんっぜん気付かなかった……」
そんなことを小比井は言う。
「こんにちは。由正の知り合い、みたいですね」
きみが微笑みかける。なんだかとても愛想の良い笑顔だ。小比井は「え、あ、はいっ、そです、そうです、花蓮っ……じゃなくて延寿の友達の友達っていうか、同級生の小比井美衣です」
言葉につっかえながらも小比井は答え、そうして俺へ視線を向ける。無言の視線だ。咎めるような、好奇心に満ちているような……「あの、もしかして、あなたは……」
「伊織って言います」
きみが答える。
「伊織、さん……延寿の彼女さん、だったりします……?」
なにを聞いている?
「はいっ」
なにを答えている。しかも満面の笑みで。
「!」
猫のように目を丸くし、小比井が俺の顔を見てきた。「はー! これはこれは! 延寿ったら隅に置けないにゃあ!」ずんずんと近づいてきて、ばしっと叩かれた。か、れ、ん、は? と口を動かしている。声は出しておらず、きみに背中を向けているような状況で、だ。
「にゃあ、とはなんだ」
「いま関係ないにゃあそういうの。ひとが語尾ににゃあやらござるやらつけてもべつどうだっていいっしょでござるにゃあでそうろう!」
俺と小比井のやり取りを見ていたきみが、「あの」と意を決したように手に持った紙を差し出した。「もしかしてこの子、小比井さん、の……ですか?」
「…………あー。うん。そう、です」
一転、消沈した小比井は頷いた。
「…………そ、そう、ですか」
きみもまた、視線を伏せる。
つい先ほどに交わしたばかりのことだ。
「ちょっと前に、いなくなっちゃって……それでいま、動物の……その、動物ばっかり狙う卑怯者が街にいるって話でしょ? だから、心配で……」
はあ、と小比井が肩を落とす。
「それは……」
きみの視線が俺へ向けられる。どうしよう、と述べている。今、どちらかがある。小比井にあの白い仔猫のことを伝えるか、今は黙し、後日に首輪で事実を確認してから改めて伝えるのか……どちらかが。前者は小比井の飼い猫ではない可能性がある。それは小比井に自分の飼い猫ではなかったという安堵と、自身の猫もこうなっているのではという危惧と焦燥を与えることだろう。……事実を確認してから、の方が良い。真実、小比井の飼い猫は動物殺し以外に保護されている可能性だってまだあるのだ。いらない不安を与えるぐらいなら、
「俺たちも探してみよう」
まだ、黙っているべきだ。
きみの表情が少しく動揺し、すぐに「うん。見つけたらすぐに連絡入れます」と言葉を添えた。
「ありがと、お二人さん……カップルさん……」
小比井の言葉からは元気が抜け落ちていた。
「どうか、よろしくお願いします」
深々と俺たちへ頭を下げる。きみは応じるように頭を下げ返し、俺もまた同様に下げ、上げる。
「逃げたのか」
仔猫の状況について問いかける。
そこがどうにも気にかかっていた。
「ううん。私んちさ、この前空き巣が入ったのよ」
小比井が答える。空き巣。金品強奪の際に、共に連れ去られた?
「ちょっと家族で出かけてたときだったんだ。窓も玄関も全部カギ閉めて、シロがケージのなかでぐっすり眠ってるのも確認して、すぐ帰ってくるからね、と出たの。でも帰ったら窓が開いてて、シロは家のどこを探してもいなかった……はあ、こんなんだったらペットカメラをつけておけばよかったなあ……」
当時の記憶を思い出させてしまったらしく、小比井が手で目を拭う。
「ケージ……」
「うん。だからシロだけじゃ出ようがなかったんだよ。暴れると危ないしまだ小さいしで、私達がいないときはケージの中に入れていたから……なのに、いなくなってた。それに、空き巣といっても金品は何も取られてなかった。まるで最初からシロが目的だったみたいに……それに窓だって……」
「鍵がかかっていたんだろ」
「うん。でも、窓の、ガラスのところが綺麗に切断されてたんだよね、わけわかんないくらいにスパッと切られてた」
綺麗な切断面。そういう用途の工具があるのだろうか。
「はあ……まだわかんないけどさ、なんでだろってなるね、これ。なんでシロなんだろって……もうやだ……」
暗い話してごめんね、と小比井は再び頭を下げる。「だ、大丈夫だよ気にしないで……」ときみが言葉を選んでいる。
「ほんとう……これがもし動物殺しのヤツだったら、ぶっ殺してやろうってなってる……! 卑怯者、弱い動物にしか手を出せないクソ野郎って……! 理不尽には理不尽で、同じ目に遭わせてやりたいぐらい……!」
小比井の目が湛えているのは涙と、憎悪だ。悲しみは怒りと憎しみに移り変わっていた。当然だろう。じじつ、動物殺しが犯人で、白日のもとに晒されたとき、向ける怒りの矛先は正当だ。そこに殺意が混じるのは真っ当だ。
犯人が捕まらずにいようとも、理不尽にも死んでしまった存在への弔意とそれによりもたらされる安らぎは確かにあるのだろう。
だが最も正しき道筋は、犯人が捕まることにある。罰されることにある。動物殺し……何らかの殺人者に対してもそうだ。愚かな愚かな、人殺しにしてもそう。
「……」
自身が大切に思う何かを壊されたのなら、相手の生涯に残されている全時間をもって償ってもらう……殺意を抱いて怒らなければ、壊されたモノはその程度でしかなかったのだと自身が認めていることに他ならない。壊されたモノの価値を守る為にも、壊したモノに贖わせる必要が生じる。彼のモノの全時間、全尊厳をもって……故に、壊したモノは如何なる理由を持とうとも報いを受ける必要がある。必ず。
「あーもうっ。ごめんね、伊織ちゃん、延寿、取り乱しちゃって。私は退散する、そんじゃよろしく、じゃあねー」
「ああ。また」
「う、うん。じゃあね」
もしも俺が誰かを被害者とする殺人者となるとき、その誰かは、あるいは誰か達は俺を殺す正しい理由を所持する。……なんという浅はかで矛盾した、都合の良い考えなのだろう。死者は復讐の術を持たないというのに。罰されない者が安全な立ち位置で、遂行されることのない贖罪に手を合わせているに過ぎない。その者に必要なのは、確実な罰と死だ。
「よ、由正?」
「……?」
きみが、恐る恐るといった様子で俺をのぞき込んでいた。
「ああよかった。思い詰めたように目を伏せていたから、どうしたんだろってなってて……」
「小比井は?」
「ええ? もう、行っちゃったよ。由正も『ああ。また』って言ってたよね?」
俺の声真似をし、きみは言う。
「そうか……考え事をしてた」
「考え事、かあ……そうだね、してしまうよね、小比井さんの、あの様子を見たら……本当、嫌だね、動物殺しって……」
ぽつ、とそこで身体に水滴があたった。
「あ。雨だ……」
曇天が、遂に雨を降らせ始めたようだ。
粒が大きく、勢いもみるみる強くなってくる。
「うわあ。急だなあ」
そう言い、きみは真っ黒な傘を広げた。もう片方の手には、迷い猫の紙切れを持っている。俺もまた、傘をさした。雨の弾ける音が耳に響く。雨脚が強くなっている。
「……そろそろ、由正、帰る?」
「片言だな」
「う、うるさいなーもう」
怒ったように眉をひそめ、そこできみは黙った。ひそめられていた眉はどこか不安そうに歪んでいる。
「歩いて帰れそうか?」
この雨だから、と俺が言うと
「うん。大丈夫だよ。私の家、そんなに遠くないから」
心配してくれてありがと、きみは微笑むと、ふう、と息を吐き、穏やかな……穏やかとしかいえないような、いや、どこか慈しむような表情を浮かべる。
「きみは空言を口にしない。だからきみが『また会おう』と言ったのなら、また会える」
その発言の意図が、上手くつかめなかった。
「明日もここで会うからな」
「そうだね……それじゃあ。また」
きみはやはり穏やかな表情を浮かべていた。
「またな」
別れの挨拶を交わし、背を向ける。明日にまた逢えるのなら、ここで惜しむ必要もない。傘を差し、街路を帰る。途中ですれ違うのは、知らない、当然のように面識のない人々……顔を伏せて歩くスーツ姿の男とすれ違い、フードをかぶり小走りに走る若い男とすれ違い、同じ或吾の制服姿のしゃべり続ける女子三人とすれ違い、夫婦連れなのか言葉を交わしながら忙しなげに歩く男と女とすれ違い、そのまま歩き続け、昼前には家に辿り着いた。
これから家庭教師が来る。
その後、明日になれば再びあの駅前広場へ行く。
そうしてその後、明後日以降に家を出、街を歩いたとき……俺は、自分自身の想像……いや。より、正確な言葉を用いよう。俺は俺の期待に違わず、きみに出逢えることを望んでいる。