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キミモ異世界イキタインデショ?  作者: 乃生一路
四章 犯人─Legit lunatic "I'm the Guide."─
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幻覚を望む旅人

 湿気に満ち満ちた夜闇を、延寿たちは207号室付近へと向かう。

 自然と息をひそめていた。延寿が先頭に立ち、そのすぐ後ろを伊織、そのさらに後ろに椿姫と紗夜が並び歩いている。いずれもライトを片手に、各々で行く先の暗闇を照らしている。


「うん……? いま、何かが壁際を」


 と、伊織がその何かへ向けてライトをかざし「うあっ」びくんと飛び跳ね、その勢いを延寿へ意図せずぶつけた。「わ、わるい。けっこーな勢いだった、な」「平気だよ。きみは軽い」「……ッ!」「……」延寿がフォローとして機能するようにと放った一言が裏目に出て、余計な一言を付け足されて微妙にイラっとした伊織にもう一度ぶつかられた。延寿は微動だにせず、ライトをその何かへ向けた。(過日、)「足の裏から根でも生えてんのかよお前……」「……生えていたら歩けないだろう」「……!!」再三のぶつかりに、延寿はやはり動じない。外壁上の何かをライトで照らし続け、凝視し(さかしら人は)ている。(未知を得た。)


「ゲジだな」


 冷静な様子で椿姫が言う。視線の先には、屋敷の白壁を懸命に這い上るゲジの姿があった。伊織が驚く原因となり、延寿が伊織に三度もぶつかられる遠因となった多足類が、もうすぐ成虫なのであろう十四対ほどの脚を素早く動かしていた。


「……」


 何ともない光景である。

 屋敷の外壁を虫が這っている、という。

 向きでいうならば、外壁の左側から、右斜め上へ上りゆく。

 少なくとも今の目的は、確実に207号室にいたであろう侵入者を追いかけることだ。のんびりとゲジを眺めている場合ではない。

 だから当然、その場にいた三人はすぐにゲジから興味を失くしたように、ライトを進行方向へ、207号室の窓の下へ続く道へ向けた。


「延寿くん?」


 紗夜が呼びかける。

 未だただ一人、ゲジへ懐中電灯の明かりを向けていた延寿へ(屋敷の地下、義理の)。「どうし(父が死んだ日だった。)たの? 実はゲジゲジのことが途方もなく好きだったりする?」続けて、問いかける。「欲しいなら一匹持ち帰らせてもらったらどうだ」椿姫が茶化す。「許可はいらないよ。あの子はこの屋敷の調度品でもないし」紗夜が答える。延寿は無言のままだ。


「……」(塔の地下、最奥)  (の部屋だった。)


 三人の視界が集まる中、延寿はひたすら、ゲジを見上げる。見上(未知は、さかし)げ凝視し、(ら人の現実へ)視線を走らせている。まるで、何かを(理外の実在を見せた。)読んでいるかのよう「行くぞ」腕を引っ張られ、顔にライトもあてられた。伊織だ。明かりで微かに照らされているその顔は、睨むような瞳をしている。現状の行動について咎めているのだろう。そう、延寿は考える。視線はもう、ゲジの赤い足跡から外していた。「ああ」頷き、歩みを再開した。ゲジはもう外壁を登り切ったのか、姿を消していた。


「……」

 

 誰しもが無言となった。

 夜に浸かった濃い暗闇の中を、懐中電灯とスマホの心細い明かりで照らし、固まって歩みを進めている。聞こえる音は風に揺られる枝葉の音だけ。鳥が鳴く声も、獣の叫び声も何も聞こえない。蒸し暑さがまとわりつき、雨の近さを感じる。


「そろそろだけど、気を付けて」


 紗夜が注意を促した。屋敷の部屋のひとつに明かりが灯っており、そこの窓から明かりが漏れていた。207号室だ。窓は開け放たれている。

 先頭に立つ延寿は、207号室のすぐ下、むき出しの土を懐中電灯で照らした。そうして近づき、侵入者が逃げたであろう痕跡を探る。


「よほど逃げたかったようだな。ただでは済まないだろうに」


 憐れむように椿姫がこぼす。

 土が凹んでいた。重量のある何かが落下してきたみたいに、凹みは土を抉り、不格好となっていた。その傍には……

 

「うん? なにか落ちてる」

 

 言ったのは紗夜だ。言い、そのなにかへライトを向ける。

 小さな、透明の筒……注射器だった。


「落とし物だな」


 四人は注射器へ近寄り、まず屈んだのは延寿だった。注射器を拾い上げ、眺め見る。筒の部分には透明の薬液が満たされていた。先端、針の部分にはカバーがつけられている。


「私が持っておこうか?」


 紗夜が言い、手の平を差し出す。

 延寿は伸ばされたその手を見つめ、少しの間考えを巡らせ、


「……俺が持っておきます」


 自分で持っておくことに決めた。「ん。いいよ。でも危険かもだから、取り扱いに気を付けて」と紗夜は大人しく手を引っ込めた。「あとで適切に処分しなきゃ」


「警察に渡すのか」


 伊織が問うと、紗夜の表情が苦笑に満ちた。


「そうすべきなんだろうね。由来不明、用途不明、成分不明の薬液が詰まった注射器だなんて、トラブルの予感しかないし」

「だそうだ。おい延寿さんよ、手元ミスって自分の手にその注射針さしたりするんじゃないぞ」


 伊織の言葉を耳に、延寿は注射器を無造作にズボンのポケットに突っ込んだ。「お、おい、だからもっと慎重に扱えって……」伊織がひどく心配そうな表情を浮かべた。


「じゅうぶんに気を付けている」


 淡々と説得力のない返答をし、延寿は視線を侵入者の着地地点と思われる場所からこの注射器が落ちていた地点、そうしてその延長線上へと向けた。


「ここから先だと……サンルームかな。外からでも入れるから、このまま行こう」


 そう、延寿の視線の先を追っていた紗夜が言う。

 行き先は決まり、四人は歩みを再開した。多少、風が吹き始めた。



 真っ暗な夜闇の中に、ガラス張りの空間があった。

 壁はガラスで、天井も大部分がガラス。透き通った部屋。植物に満ちた休息所。緑に満ちた社交場。暗闇の浸透しきった空間。ライトを向けるも光が反射し、いまいち中の様子が窺い知れない。


「扉はこっち」


 紗夜に連れられ、サンルームの扉へ向かう。途中、延寿の懐中電灯の光が、花壇に突き立つ一本の血に塗れたシャベルを照らし出した。


「あれ、護身用に持っていく?」


 すぐ傍の伊織が平然とした様子で延寿へ言う。


「……」

「……」

「……」

「……なんで黙ってんだよ」


 シャベルの取っ手から突き立つ先端までをライトで照らすも、一滴の血もついていない。現実が、綺麗にシャベルの血液を拭い取っていったようだ。


「必要とならない状況であってほしいがね」

「それはそうだけど……うーん。あったほうが安心かなあ……」


 と、椿姫が言い、紗夜が悩む。


「持つとしたらお前になるんだからな」


 そう伊織が延寿を小突くと、


「……念のため、持っておきます」


 延寿が黙り込むことを止め、シャベルに近づき、その新品のように汚れ一つ、血痕一つない取っ手を掴み、引き抜いた。かすかな重量感が手に加わる。「……」わずかな厭悪感が思考に混じる。これを振るう瞬間が来ないでくれるのなら、それが最善の道筋なのだろう。

 四人は歩みを再開し、サンルームの扉の前までやってきた。


「鍵、かかってないや。……閉めてあるはずなんだけど」


 ノブを握り、紗夜が止まる。「延寿くん?」視線がにこりと、延寿へ向く。「お願いできる、かな……? 私たちは逃げる準備をしなきゃだし……」


 万が一があるのだろう。延寿は「分かりました」と頷き、


「俺の先を照らしていてほしい」 


と、懐中電灯を伊織へ差し出した。


「うん。任せろ。お前の暗闇を照らし続けてやるから」


 当の伊織は当然だとばかりにそのように請け負い、懐中電灯を受け取り、自らのスマホをポケットに入れ、「……」今しがた自らが放った言葉の響きが妙に気恥ずかしくなってひとり黙った。深い意図はなかったのだが思い返すと乗り気すぎた上に言葉が余計だったような気がしてならなくなったのだ。

 そうして延寿は空いた手でノブを握る。「開けます」皆に伝え、扉を開いた。伊織がすぐさまサンルーム内へライトを向ける。光に照らされた部屋の中央に血だまりがあった。倒れ伏せる白い少女の姿がそこにあった。ひどく惨めで赤い姿がライトアップされている。


「……」


 ずしりと、手に持っているシャベルの重量感が増したように思えた。見やると、シャベルの先端には血と皮膚、脂肪のかけらがこびりついており、鮮血が滴っていた。幻覚が執拗に塗りたくっていったようだ。異常なのだと、延寿は頭で理解している。判別できている。何も問題はない。問題は無いのだから何も起こりようがない。現にもう、白く赤い死骸は視界から消えている。代わりに……


 一人の少女が、ピアノの前に座っていた。


 いいや、座っている、というよりも……もたれかかっている。

 全身をだらりとピアノへもたれかけて、息も絶え絶えといった様子で、ほんのわずかな呼吸をしている。口もとと衣服に見える汚れは吐しゃ物だろうか。


「お前、なんでここに……」


 伊織が、延寿の陰に隠れるようにし、けれどもきちんとライトを延寿の視線の先へとかざしている。

 照らされるその姿は、まず、ヒトの形状をきちんと維持していた。人間の形だ、と延寿は認識できた。それが花蓮であってくれたのなら良かったのだが、しかし花蓮ではない。別の……知己の人物だ。

 そのとき、サンルーム内に明かりが灯った。

 いつの間にか紗夜が電灯スイッチの近くまで移動していた。


 そうしてようやく、その人物の視界にも延寿たち四人の姿がはっきりと認識できたらしく、虚ろな瞳を巡らせて、一人一人の顔かたちをゆっくりと確認していく。


「懐かしい顔ぶれ……ああ……」


 延寿もまた、その人物と視線が合った。

 肩口で結わえた黒髪はぼさついていて、生気のない瞳は死人のようだ。汚れた衣服に、口元にある吐しゃ物らしき跡……過ぎた日の彼女とは似ても似つかない。


「巌義……」


 巌義麻梨だ。WWDW(イセカイ)を、異界を味わえる至悦の薬物を、人体を破壊する違法を所有し、配っていた彼女が、侵入者……207号室にいた人物。


「お久しぶり、です……エンジュさん……」


 目を細め、懐かしんでいる。

 自らに向けられたその笑顔が、延寿には、不思議と幼く映った。安堵と無邪気の混じった、親愛の笑みのように見えた。


「ッ……」


 その笑みが、直視に耐え難かった。

 視線を外そうとするも、それもまた耐え難かった。

 麻梨の笑みははっきりと自分自身へ向けられている。直視すれば胸の奥が焼き付くようで、視線を外せば自らに対する嫌悪に呑まれそうになる。自らに頭を掴まれ、正しきは彼女を見続けることだ、そうして胸を焼き付かせ、不愉快に苛まれ続けろと言われているかのようだった。


「いつぶり、でしょう……少し前に眺めていたようにも思えますが、どうにも記憶が曖昧で……」


 彼女は旅人になりたがっていた。

 少女は今ではないどこかへ、ここではない遥か遠くへ行きたかったのだ。

 もう遠い昔のように思えるあの夜に、ビルの地下で彼女は逃走し、今ここにいるということは……結局のところ、彼女はどこへも行けなかった。ただクスリで衰弱し、窓から落下して怪我をしただけ。

 

「頭が上手く働かないのです。霧がたちこめてしまったみたいに……もやもやとしていて……スピロヘータ、に蝕まれてしまったのでしょうか……」


 延寿たち四人を前に、麻梨は喋り続ける。

 胡乱な視線は、先ほどからずっと延寿へ注がれている。延寿へのみ向けられている。


「エンジュさんは化学者だから……ペニシリンを持っていましたはず……ないのなら、サルバルサンでもこの際かまいません……」


 その口ぶりはもはや、正気とはいえない。

 果たして彼女に現実は見えているのだろうか。見えていないのだろう、と延寿は思う。見えているのなら、一介の高校生たる俺を化学者などと云わないのだから。


「頭のもやを晴らしたいんです。せっかく、せっかくみんながこうしているのに、私は寝起きで寝ぼけているみたいに、ひとりだけ、ぼんやりしているだなんて、いや……いやだ……幸せな日々があるのに、死神がいない日が……幸せな、幸せな日々、幸せな日々が……ある、のに……やっと……あるの、に……」


 もたれかかっていたピアノから、麻梨が身体をゆっくりと起こす。

 そして延寿たちのもとへ動こうとし、「……!」思うように動けず、


「巌義っ」


 駆けつけようとした延寿はしかし間に合わず、麻梨は床の上に倒れ伏せた。傍に片膝をついた延寿が傍らにシャベルを置き、両手で助け起こそうとすると、麻梨は首だけを延寿へ向けて、

 

「……カレンは?」


 延寿の目を見つめて、はっきりとした様子で、


「カレンは、どこへ行ってしまったのですか」


 問いかけ、


「長い旅とは、どこへ向かう旅なのですか」


 疑う。猜疑の視線は、延寿へ向いている。

 延寿とて、花蓮の行方を知らない。知りたがっている。それにどうして巌義麻梨もまた、花蓮の行方を尋ねている? 彼女は知っているのか。花蓮がいなくなったことを。誰から聞いた? 誰が教えた?


「こいつだったのか。侵入者って」


 傍へやって来ていたのか、伊織が言う。

 麻梨はそんな伊織を見上げ、「眼鏡はどうしたんです? あんなに気に入っていたのに。視力が治ったですか?」きょとんとした表情で尋ねる。


「はあ? 僕は眼鏡なんてかけて……いや、言っても仕方がないか」


 伊織が言い返しかけて、目の前の人物が正気ではないのだと思い直し、言葉を止めた。


「『みんな』が言っていました。あなたはヒトゴロシだ、と」


 麻梨の視線が、再び延寿へ向く。今度は突き刺すように鋭利で、猜疑に満ち満ちている。さきほどの少女のような親愛の笑みは掻き消えていた。


「ヒトゴロシだから、殺したのでしょう? 殺したのに今こうして平然といるということは、あなたは少年法に守られ、て……いや、エンジュさんは大人だったはず……いえでも、少年法がヒトゴロシを守って…………? どういうことです? これは……どういう……こと……」


 疑問に疑問を重ね、疑義の負荷が麻梨を停止させる。


「やっぱり現実が見えていないんだ」


 伊織が言い、延寿と伊織の背後にいる紗夜と椿姫へ、「こいつどうするんだ? 警察……ああそのまえに救急車のほうが良いな。呼ぶんだろ?」と呼び掛けている。

 その間も麻梨の視線は延寿へ向いており、やがて、ゆっくりと……


「…………生きているの、楽しいですか?」


 延寿はそう、問いかけられた。

 質問の理由も意図も不明だが、そもそもが麻梨はクスリ(おそらくはWWDWだろう)で正気を失っている。理由も何も、そこにはないのだろう。

 答えるべきだろうか、と延寿が口を噤んでいると、


「まだ、正しくあろうとしているのですか」麻梨が言う。「なぜ?」疑問に「ヒトゴロシだからですか?」疑問を重ね「死神になったから?」疑い「是正すべきは自分自身だから?」猜疑し「幸せを、壊したから?」睨みつける。

 群らがってくる質問に延寿が答えに窮していると、


「延寿さん」


 はっきりと、麻梨が言う。

 明確な意思をまとう、正気の人間のような物言いだった。はっきりと意識を取り戻したように……その視線はやはり、延寿を見ている。


「いくらあなたが是正しろと言っても、私はクスリを止めませんよ」


 自殺と同義の宣言を行う。


「イセカイを初めて飲んだとき、私は大きな衝撃を受けました」麻梨の口調ははっきりとしている。「世界が塗り替えられたのです。そして塗り替えられる一瞬の刹那、私の物語が白紙に戻った実感がありました」延寿へ思いを伝える。「真っ白な頁に、幻想の絵筆が色彩を描き始めました」いつかの夜にも言ったような内容で。「それが。それがとても鮮やかで、とても綺麗で……怖いものなんてどこにもなくて、私の恐れていた死神も消え失せて……」「本当に、ただ、綺麗で、幸せな日々で…………私の眼の前には、みんなの笑みが蘇って……」

 

 延寿を見つめる瞳に、涙がたまりはじめている。


「私は旅人になりたかった。長い旅に出たカレンのように」


 嫌悪と厭悪で、延寿は悪心に苛まれている。

 麻梨の語る一言一句が、ひどく鋭利に精神を刻んでいく感覚があった。


「私はWWDW(過去を見るの)を止めない」


 延寿へ宣言する麻梨の瞳からは、ぼろぼろぼろぼろと涙が零れ落ちている。延寿は表情が歪むのを懸命に抑える。なぜだか分からない。分からないが、聞きたい言葉ではない。だが、聞かなければならない言葉だ。なぜそれを宣言する。なぜそれを俺へ言う。俺が何をした。何かをしたのなら教えてくれ。教えてくれれば始末をつけられるかもしれない。思考に生じる暴風のような感情を抑え込んでいる。


「いくら懐かしもうとも、恋しく思おうとも、絶対に会えない誰かがいたのなら」


 ゆっくりと、麻梨が延寿へ手を伸ばす。

 延寿の頬に、麻梨の手が触れる。汚れ切った彼女の頬には、多くの涙が線を引いている。


「幻覚の中でしか、会えない彼らがいたのなら」


 麻梨の視線が伊織を、椿姫を、紗夜を向く。


「あなたとて、使わざるを得なくなる」


 硬直する延寿の瞳を、ただただ、見つめる。そうして少し視線を外し、何かを探すような所作を行い「紙も、ペンもない……幻覚を少しでも現実に留めておきたいのに……なんで……」落胆し、延寿の目へ視線を戻す。


「私の幸せな日々は、あの頃に停滞している。でも、でも……そんな気配はなかった……はず、なのに……死神が、いた……」


 延寿を、睨みつけている。


「不幸だった私たちを幸せな場所へ案内してくれた人が、ほんとうは、死神だったんだ……」


 落涙する少女の表情は、まるで親に、あるいは大人を責める子どものように幼く、どうにかしてくれるはずという期待と、どうにもしてくれないという諦観が混ざり合っていた。


「私の幸せを返して」


 理由のある涙のはずなのに、意味のある怨嗟のはずなのに、延寿にはその理由が分からない。分からないままに、苦痛だけが心を焼く。


「ッ……!」


 表情の歪みを抑えるために、延寿は奥歯を噛み締める。

 俺が何をしたのだろう。「もとに、戻してください」俺が何をした。「私たちの両親は、頭の良い方々……でした……」俺が何を。「だから……できるはず」俺が。「死神エンジュさん」俺が何かをしたのなら、その俺が憎くて仕方がない。「……お父さん……」それきり、怨みと呪いの言葉が止まる。呼吸はある。死んではいない。麻梨は意識を失っただけのようだった。


「あんまり真に受けて、こいつの言葉に呑まれるなよ」


 伊織が言う。「幻覚を見ている人間の言葉なのが大前提なんだからな」そう心がけてくれているのだろう、口調がいつもよりも格段に柔らかい。


「幻覚は幻覚だ。お前は何もしていないって僕は思うぞ。だってお前にできっこないだろ? お前って確かに頭硬いし愛想ないし冷たく見えるけど……」


 慰めてくれている。


「悪人じゃ、ないと思うからさ」


 そんな伊織の温かく思いやりに満ちた慰めもまた、今の延寿を切り付けた。だからといって、この目の前の優しい友人が悪いわけではもちろんない。では誰が悪いというのか。誰がすべての責を負うべきなのか……()なのかを延寿は知っており、その誰を()()するかを考えている。

 延寿は俯き、目は気を失った麻梨を見ている。

 頭上の電灯が影をつくっているせいなのか、人工の明かりに満ちた室内だというのに、延寿の視界は薄暗かった。

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