『病人』と病人
「人生は一の病院だ、ってフランスの詩人さんが言ったんだ」
勉強を教えてもらう傍ら、ふと、紗夜がそんなことを口にした。現在の内容は化学で、開かれている頁は原子の構造如何について述べている。話題としてはそぐわない。
「……生きとし生ける者は皆どこかが病に罹っている、と言いたいのか」
「うん。人類みな病人、人の数だけ病名が存在するんだよ。知らなかった?」
明らかな冗談口調で、義姉はトンと頁を人差し指で押さえ、ゆっくりと動かした。ボーアモデルのK殻をなぞっている。原子核に最も近い電子殻だ。おそらく何かを考えた上での行動ではないのだろう。「ふふ」義姉がひとり微笑む。
そして私を見つめ、
「私の魂……」
さも詩を読むかの如く。
「どうか答えて。哀れな冷たい私の魂」
魂が答えるものか。無は何も発さない故の無だ。
「病人は、自分自身の魂に問いかけ続けるんだよ。病院から脱け出して、どこか、自分が幸せになれる場所に行きたいから、他ならない自分の魂と会話したがってるんだ」
「……馬鹿みたいだな」
「でもね、魂は答えない。黙り続けてるの。ああ、もしかして死んじゃったのかなあ私の魂……」
「存在しないものの言葉は聞こえない」
もし聞こえたとして、それは患う者の望みが生じさせた哀れな幻聴だろう。
紗夜は私を見つめ、「さて、人生という病院の、一人の入院患者たる槐くん」すぐそばで、
「きみの居場所はどこだろう?」
そう宣う。
「きみの魂はどこへ行きたがっているの? 穏やかな場所? 幸せになれるところ? 苦悩に満ちた病室? それとも世界の外側だったらどこへだってかまわない?」
呈される疑問群に、答える気は起きない。
私の眼を見つめて微笑む義姉の指は、N殻よりも外側を指している。頁の余白だ。
「きみの魂は無いわけじゃない。黙り込むのが好きなんだよ。きみがそうだから。だってきみの魂なんだから。黙って、むっつりと考え込んでいる────さてどうやって、この病院から脱け出してやろうか、って」
義姉の視線がやがて私から外れ、机上の頁の上へ落とされた。
「私たちは病人だよ。文字通りの、必死の病に罹っている。世界立の人生総合病院で、生まれた瞬間に具体性のない余命宣告をされて、それからずっと入院していて……ああ、窓際のほうが陽が当たって暖かいだろうからそっちに行きたい、とか、大人数の部屋はうるさいから個室で静かに休みたい、だとか、独りは寂しいから同じような入院相手に傍にいてほしい……とか、望んでばかりいる。病院の中で完結するような、ささやかな願いばかりを胸に秘めている」
今の彼女は、喋らせておいた方が良い。
「でもきみは、病院の外へ出たがっている。罹った病を完治させて、必ず脱け出してやろうって思っている」
……。
「私は魂が見たいんだ」
叶わない願いだ。
「会話までは望まない。見るだけでいい。見て、眺めて、……少し、欲しくなっちゃうかもしれないけど……それで満足できる、と、思う」
紗夜の視線は変わらず伏せられている。
原子の構造を凝視し、口を動かし言葉を発している。
「だって魂は、その人の生きていた痕跡でしょ。遺品としてまとめられてしまうものじゃなくて、どうしてあるのか、なんで生じたのかも分からない神秘の塊なんだ。それがあるのなら、その死んじゃった人がもうそこでお終いなんかじゃないって思える。もし見えるのなら、綺麗なそれが見えたのなら、私は、見送ることができる。火葬場に向かう死体じゃない、焼かれて小さくなった骨でもない、綺麗なその人の魂を、見送ることができる。それを、その人との最後の記憶として締めくくれる。それ以上のことはないんじゃないかな。死体なんて遺らなくていいんだ、魂みたいに綺麗に消えてしまえれば、その方がきっと良いんだよ」
そうして紗夜は、私を見た。
彼女の目は私の返答を欲していた。
「……そうだな」
義父……涯渡氏は、病に罹っている。
昨夜、父本人の口から、紗夜と私へ伝えられた。手続きが多くあるそうだが、それは父の手により進めてくれているようだ。父の口から、実子と義子の抱いた不安は肯定された。
「あれ。いつもみたいに否定しないんだ?」
「望みまでは否定しない」
そうあってくれれば、と心から望み、願うことをわざわざ否定するほど、私は狭量でありたくない。
「……」
紗夜は黙り、じっと私を見つめた後、
「きみの魂、きっと綺麗だ」
ぽつ、と前にも聞いた記憶のある世迷言をこぼした。
世に迷う言葉を吐いてのけた病人は、なにが嬉しいのか笑っている。
「あでも、化学の時間に詩の話ってちょっと組み合わせが悪かったね」
ミスマッチだ、と紗夜は笑う。
「そうまでしてしたがるほど詩が好きなのか」
冷やかし半分で私が問うと、
「うん。さっき話したのも私の好きな詩のひとつ。詩はたくさん好きだよ」と紗夜は答える。その表情はもう、いつも通りの義姉だ。
「タゴールっていう人のも好きだよ。迷い鳥たち、っていう詩集が特に好き。蔵書室にあるから、きみも読んでみなよ。面白いよ」
「ああ。これが終わったら探して読んでみる」
答えると、紗夜がにまにまと笑みを押し殺したような表情で私を見ている。さも微笑ましそうに、シンプルな不愉快さを醸し出している。いつも通りの一歩手前ぐらいが、彼女にとってはちょうどいいのかもしれない。
「きみのそういう意外と素直なところ大好きだよ」
嬉しそうに、紗夜は眼を細めた。
「それよりも続きを」
「おお。良い学習意欲だね」
「病院から脱け出すための役に立つかもしれないからな」
私の言葉に紗夜は「応援してるよ」と楽し気に笑った。
確かに私は病院から外へ出ることを望んでいる。それならば……もしも私の望みが叶い、出られたとして、患う病を克服し、人生を外れ、世界の外へ行けたとして……私はどこへ行きたいのだろうか。
魂に問いかけることはしない。答えが返ってくる可能性はゼロで、万が一返ってきたとしてそれは私自身の狂気を証明するだけとなるだろう。
だから私は、私自身に問いかける。
私はどこへ行きたいのだろうか。穏やかな場所、幸せになれるところ、苦悩に満ちた病室、それとも世界の外側だったらどこへだろうと…………だが私は黙り続け、答えは返ってこなかった。