お屋敷(夜)
踏み込むには勇気がいる。
現実と向き合う心構えが必要だ。
「……」
扉を直視し、硬直して。伊織の口を手でふさいだまま。
勇気と心構え如何について考える延寿はそう考える自分自身に疑問を抱いた。『なぜ?』と。なぜ、勇気が必要なのだろう。どうして、現実と向き合う心構えが必要になってくるのだろう。
ただ扉を開けて、そこにいる(確かにいる)はずの花蓮の姿を確認すればいい。それだけのことだ。……どういう理由で今、俺は『の姿』までを考えたのか。花蓮ではなく、花蓮の姿、と。姿かたちに、さも異常が起こっていることを危惧しているかのように。
「むがむぐ」
物音がしているのなら、中にいる何者かは少なからず生きている。……………………どういうかたちで生きている? どうして俺はそこを疑問に思う? なにを心配している? どういう懸念を? その心当たりは? その考えに至った根拠は?
「むぐー……」
開けてみなければ何も分からない。
分からない状態でいたくはないんだ。何事も。どういうものであれ。
扉の先にあるものが何なのかは、行動しなければ……「……」タグのない鍵で延寿が207号室を解錠しようとし、
「あれ。二人とも?」
突如、呼びかけられた。
つい一時間ほど前にも聞いた、もうずっと聞きなれた気がする声だ。
「なになに? どしたの?」
紗夜。
隣には椿姫の姿。二人とも廊下の奥に並び立っている。きょとんとした表情でこちらを見つめていた。
「ふむーっ!!」
咆哮と共に、伊織が力ずくで延寿の手を引っぺがした。「いつまで僕の口ふさいでんだよ! 窒息死させるつもりか!!」怒り、その怒りのままに、
「お前らだっていったいどこ行ってたんだ!」
年齢の上では先輩にあたるだろう二人を睨みつけ、『お前』とまで呼び指までさして憤慨する。対する彼女たちはどこ吹く風で、可愛らしい後輩の可愛らしい激高だとばかりに受け流し、
「あはは。ごめんね」紗夜は苦笑し、
「寂しい思いをさせたようだな」椿姫は微笑している。
「実はお風呂を沸かそうとしたんだけど、急にボイラーの調子が悪くなっちゃってたみたいで。椿姫と上分さん、清身さんといっしょにボイラー室に様子を見に行ってたんだ。それでちょっと時間かかっちゃった」
と笑い笑い、紗夜が今まで姿を消していた理由を述べる。
「私たちの健闘あってお前たちは温かいお風呂を堪能できる。褒め称えてほしいものだな」
笑みを維持して、椿姫が言う。
「私と椿姫は見てただけだけどね」
そう紗夜が苦笑する。
「施設側の不備だろそれって」
伊織が毒づき、紗夜は「確かにね」とまた苦笑い。
「それで。今度はこっちから質問。二人は207号室の前で何をしていたのかな」
紗夜の視線が伊織を向き、緩やかに延寿へシフトする。「もしかして、悪いこと?」にこやかであるのに腹の底を探るような真っ直ぐの瞳に見つめられ、
「いえ。この部屋の中に誰かがいます。物音がしました」
207号室を一瞥し、延寿がそう答え、
「いったい誰がいるんですか」
続けざまに問いかけた。
「え?」
訊ねられた紗夜は首を傾げた。なにそれ、というはてなの表情だった。
「安寺くんたちは、全員サロンのほう?」
紗夜に訊ね返されて、延寿は頷く。
「清身さんと上分さんは、お部屋に戻ったよね」
「だな」
次いで彼女は椿姫を見やり、事実を確認する。
「そうして私たちはここにいる……全員だ。今、屋敷にいる人間全員の行方を把握できている」
207号室の扉へ視線を向け、怪訝そうに目を細め、紗夜は少し首を傾げた。知らない様子を紗夜は見せている。真実彼女が知らないとは、延寿は断定しなかった。
「なのに、この部屋の中にもう一人。なんでいるんだろう、ってことだね」
屋敷の主ですら判らない誰かがいる、という状況だ。
だが、本当にそうなのか? 紗夜がとぼけている可能性は? サロンの写真立ての件もある。可能性の一つとして考えておいた方が良い。
「開けて確かめるのが早い。マスターキーは持っているんだろう」
椿姫が紗夜へと言う。うん、と紗夜が頷くも、「でも、延寿くんが鍵持ってるっぽいから、それで開けたらどうかな」
紗夜の視線は延寿が持つ鍵へ向けられている。「タグが無いみたいだけど、どうして?」紗夜が問う。「外しちゃった?」
「これは……俺の部屋に、置いてありました」
返答に、紗夜も椿姫も驚いた様子を見せた。
「誰かが知らない間に置いて行ったってこと?」
「はい。そうみたいです」
「んー……とりあえず、開けてみよっか」
紗夜が促し、延寿が無言で鍵を……合わない。
「え、違うのかよ」
そう伊織。「明らかにこの部屋の鍵みたいな感じだっただろ」
「俺も、そう思っていたが……」
タグ無しの鍵は、207号室の鍵ではなかった。
「大切な宝箱を開ける鍵かもしれないから、それは延寿くんが持ってなよ」
軽い調子で紗夜は冗談めかすと、マスターキーを差し込み解錠した。そうして延寿を見上げ、にこりと「延寿くん、お願いがあるんだけど」
「誰がいるかも分からないので、俺が開けます」
内容を聞く前に、延寿がノブを握った。
「おー察しが良い。よく分かったねえらいねー」
紗夜が年少の子へ向けるような賛辞を贈り、「気を付けてね」そう言い添えた。「もし誰かいたら、延寿くんを囮にしてすぐ逃げるから安心して」いつもの冗談の笑み。
「三十分くらいは持ちこたえろよ」
冗談に乗った伊織が延寿の背中へ言う。「助けぐらいは呼んできてやるから」
伊織の言葉を背に、延寿はゆっくりと扉を開け、て────途端、蒸し暑い風が流れて、澱んだ空気がまとわりついた。
「ッ……!」
傍にいる伊織が反射的に手で鼻を覆った。
甘ったるい臭いだ。甘さの中に、生理的嫌悪感を催す刺激臭が混じっている。
「この、臭い……いろいろと混じってる……」
紗夜が言い、
「ひどい臭いだ。嗅覚を潰したくなってくる」
椿姫が眉をひそめ、鼻と口を手で覆った。
207号室内は電灯が灯っていた。
がらんとしており、人の気配は既になかった。
「窓が、開いてる」
ぽつりと、紗夜がこぼす。
全員の視線が、部屋の奥にある窓を向いている。
窓が開かれ、カーテンが全開で、室内にいた誰かが慌てて窓から外に飛び出した……状況は明らかにそう示していた。それも臭気の残り方を考えるに、ついさっきだ。
「物取りか」
「どうだろ。泥棒って臭いを残していくものなのかな。それに……」
椿姫と紗夜が冷静に言葉を交わしている。
部屋の中は異常だった。まず、ベッドが荒れている。まるで誰かが横になり、身を捻り、捩じらせていたような痕跡のみが残っている。ところどころ不自然に湿り、未消化らしい固形物がある。吐しゃ物だ。胃液に茶色く混ざり、空気の酸味に微かに混じるのは、夕食時に自らも口にしたビーフカレーの匂い。ここにいた人物も、どうやら同じものを口にしたらしい。となれば……延寿はその事実を確かに頭に留めた。
「きったないな……!」
忌々しげにぼやきつつ、伊織がそれ以外の異常を見渡している。
「これは上手い……」
椿姫のこぼした感想は、そうではあるものの今の状況とは少しずれていた。
「上手い、は、上手いけどさっ、そうじゃないだろっ……」
伊織が反論する。
部屋の異常さを際立たせるものとして、室内のところどころに画用紙が乱暴に破り捨てられた残骸が散らばっていた。いずれにも、絵が描かれている。鉛筆を用いているようで、どれも写実的だ。サロンで見たあの写真立ての絵のように。
異様な光景だった。
苦悩する画家でもいたのだろうか。
描くもの描くもの気に喰わずに破り捨てる芸術家が。
自らの吐しゃ物と体液の臭気が充満した部屋で、幾度も幾度も絵を描き続ける狂気が。
「この人、きみに似てない?」
紗夜が紙片を一枚拾い上げ、延寿に見せた。
そこに描かれているのは、眼鏡をかけた男性を下から見上げた景色だった。親を見上げる子どもの背丈の小ささを思わせる絵だ。
「眼鏡をかけた延寿くんって、きっとこんな感じだよ。うん。似合ってる」
延寿を矯めつ眇めつしつつ、紗夜が納得したように頷いた。
「ほら。これも」
次に見せた紙片には、肩に白い小鳥を乗せた男性が神妙な表情で本を読んでいた。その面差しもやはり、延寿に似ている。意識して自分自身の顔貌に臨んだことはないが、それでも延寿にとって紙上にスケッチされた男性は自らそのものだった。肩に乗せた小鳥は……かつて飼っていた、逃げた小鳥に酷似している。
「この子って」
次に紗夜が見せてきた大きめの紙片には、やはり眼鏡の、気難しそうな表情を浮かべている男性と、その男性へ一匹の成猫を抱きかかえて見せている一人の少女が描かれている。二名は向き合い、さも少女が男性にその猫を飼っていいかどうかを懇願しているかのような絵面だった。猫は子猫というには大きく、尻尾は腹部まで巻き、警戒をしている様子だった。
「……」
少女の横顔は、花蓮だ。
ふわりとした髪質、丸い目、鼻、口、輪郭、大きさ、形、配置……個々のパーツが花蓮と似ている。幼い姿の彼女に。
「……そうですね」
見つめる紗夜へ、延寿は目をつむる。紗夜の無言の問いかけに対する肯定だった。『この子、鷲巣さんに似てると思わない?』という問いへの。
「この子供は……」
椿姫が拾い上げた紙には、一人の眼鏡をかけた子どもが描かれていた。花蓮ではない。ならば……「なんだよ?」延寿の視線が自然、伊織へ向く。
「きみに似ている」
その子どもは、肩に小鳥を乗せた男性と向き合い、さも挑戦するかのように男性を見上げて口をつぐんでいる。その顔はどこか伊織に似ていた。もとから伊織が中性的な容姿であるため、男女のどちらなのかが判然としない。
「……確かに、僕だ」
紙上の子どもを見、不気味そうに伊織が呟く。
「……」
部屋に散らばる無数の画用紙の主が、サロンの写真立ての絵を描いた可能性が大きい。ということは花蓮が? しかし、絵の中には花蓮らしき少女の姿もある。まるで誰かの視界に映っている猫を抱えた花蓮と自分らしき男性の場面を、当人である花蓮が描いたのか? そもそも、これらの絵は何だ。想像で描かれたものなのか。紙に描かれているのは、自分らしき男性、花蓮らしき少女、眼鏡をかけた伊織のような子ども……それに、床に散らばる吐しゃ物のかかっている紙切れの中には「……」紗夜らしき女性が男性と何かを会話している場面、花蓮のような少女と……長髪を結い上げた椿姫らしき少女、短髪の冬真らしき少年……が共に雪だるまを作っている姿が描かれている。他の紙切れには伊織らしき子どもが何処かの部屋で小さな建物や木々の作り物に囲まれている絵や、空から巨大な手が生え出ているという奇妙な絵まである。
この絵は、なんだ。
見知った人間に似ている彼らは、誰だ。
俺に似ているこの男は、誰だ。俺ではないのは確かだ。記憶にないのだから。……いや、俺の記憶にないからと、その過去が存在しないという絶対の保証はない。俺が記憶を失っているのならその限りではない。いや、何を考えている。この男は今の俺よりも年上に見える。即ち未来だ。では未来の……いや違う。考えが迷走している。年上の俺と、今よりも幼い友人たちがいっしょにいるはずがない。じゃあ、なんだ、これは。答えが、納得できる答えが導出されない。どう結論付けようとしても矛盾する。破綻する。描かれている人物の時間関係が歪だ。
「お、おい、大丈夫か。臭いにあてられてるんじゃないか」
腕を引っ張るのは銀色の眼鏡をかけた伊織で、その小さな口からは心配の声が漏れ出ている。
「大丈夫だ。きみこそ大丈夫なのか」
「大丈夫なわけないだろっ」
「っ……」
伊織は眼鏡をかけていない。
「……」
「な、なんだよ」
まじまじと伊織の顔を見ると、やはり眼鏡をかけていなかった。「何でもない」伊織から軽めに叩かれた。
「あ、テーブルの上に鍵は置きっぱなしなんだね」
紗夜の声。見ると、その手に握られているのは207号室のタグ付きの鍵だった。
延寿はそっとポケットに手を入れ、さきほど204号室の部屋にあった鍵の実在を確認した。確かにある。207号室の鍵は他にあった。ならいよいよこの鍵はいったいどこの鍵になる。……いいや、今まず考えるべきは屋敷の闖入者に関してか、とそれ以外の全ての疑問をいったん思考の隅へと置いた。考えれば考えるほど、答えのない暗闇に陥るだろうから。
「……」
延寿はつかつかと開け放たれた窓に近寄り、身を乗り出し、外を見た。ここは二階だ。地面まではそれなりに距離があり、すぐ下は土。とはいえ落下すれば無傷では済まない高さだろう。死にはしないまでも、場合によっては骨折か、運が良ければ打撲か。
「室内には誰もいないようだな……由正、窓から誰か見えるか」
椿姫に聞かれ、いえ、と延寿は首を小さく横に振った。
部屋から漏れ出た明かりの範囲外は暗闇に包まれており、よく見えない。
「足跡が残っているかもしれません」
言い、延寿は部屋の入口へと向かう。「外へ出て、見てみます」
「待て。私もついていく」
背中から椿姫が追いかけてくる。
「あ待って。私も行く」
そう紗夜も言い、伊織も無言でついてくる。扉も開けっぱなしだ。207号室の鍵も室内のテーブルの上に置いたままである。
結果的に四人全員で、207号室の窓の下を見に行くこととなった。廊下を進み、エントランスホールへと出て、階段を下りる。
「懐中電灯が確かあったはず」
言い、紗夜がエントランスの隅へ行き、懐中電灯を「一個しかなかった」ひとつだけ持ってきた。
「延寿くんが持っててくれる?」
紗夜に懐中電灯を差し出され、分かりましたと延寿が受け取る。「延寿くんが一番身体大きいし、万が一のときはこれでどうにか戦って時間稼ぎしてね」
紗夜の微笑には、余裕があった。
不自然なほどに、と延寿の眼には映った。
「スマホのライトがあるだろ」
伊織が口を挟む。「あ」と紗夜が言う。「そうだったそうだった」とスマホを取り出し、照明をつけた。伊織と椿姫もそれに倣い、延寿だけが懐中電灯をかざしている。
そうして四人、外へ出た。
視界の奥に門柱のおぼろげな明かりが見えている以外は、屋敷の外はどっぷりと暗闇に沈んでいた。月は出ているものの暈をかぶっていて心もとない光を落としている。懐中電灯とスマートフォンの明かりを頼りに、延寿たちは先が見えず、蒸し暑い闇に呑まれた。
「足元、気を付けて」
紗夜の言葉に、「分かってる」と伊織が返している。
延寿は喉の奥にひりつくような不快感を覚えていた。歯を食いしばりたくなるような不愉快があった。あの絵。あの人物たち。あの子どもたち。考えれば考えるほど、喉がひりつき、頭の奥にずきずきとした疼痛が生じる。机の下で見た、血に沈んだ怯える目たちを思い出した。
濃い夜闇の奥に、何かが確実に待っている。
そうしてそれが良いものであることは、絶対にない。