『義子』と実子
両親の姿かたちに思いを馳せるも、朧気にしか現れない。どのように喋っていたのかが聞こえず、どう表情を変化させていたのかが見えず、〝いた〟ことだけは覚えている。……いいや、理解している、と表現した方が正しいか。子である私がいるのだから、当然、胚たる私を生じさせる原因となった父と母がかつて生きていたと理解できている。
「……」
私自身がこの早死にした雌羊と同じ境遇でなければ、だが。
「お父さん、また何日か帰れなそうなんだって」
蔵書室に入ってきて早々、紗夜はそう言った。
「仕事?」
「うん。仕事がとんでもなく忙しいんだ、って笑ってた。きみたちに会えないのが寂しいよ、だってさ」
涯渡氏……父はこの頃、不在の時間が私がここへ来た当初よりも増している。理由は主に仕事のようだ。
「何読んでるの? ……クローニング? ドリーちゃんのお話?」
「ああ」
「ふーん。誰か増やしたい人でもいるの? お姉ちゃんがたくさん欲しかったりする? 長生きできずにどうやっても早く死んじゃうお姉ちゃんがいっぱい欲しい?」
にやつく紗夜の言葉よりも、私は蔵書室に満ちる静寂を尊重した。「いいけど。別に。槐くんがいくら聞き流そうと私は喋り続けるつもりだよ。ひとりで。さびしく。きのどくに」
不満をあらわに、紗夜が書架の前に置いてあった脚立を引っ張ってきて、その上に座った。どうやら長居するつもりらしい。
「……」
延々、うんざりするほど喋りはじめるのかと思っていたが、意外にも義姉は黙り込んでいる。視線こそ私へ向けているが、他に考え事があるのか、心ここにあらずといった様子だ。
「……お父さん、大丈夫かな」
ぽつりと発された紗夜の表情は、ごく普通に親を慕う娘のそれだった。多忙な父の健康状態を懸念する一人娘の姿に、多少の意外さがあった。子が親を心配する……義姉もまた、一人の人間なのだろう。少なくとも涯渡氏は、紗夜にとっては石ころでも雑草でもなく、窓ガラスに張り付く蛾でもないようだ。
「仕事頑張りすぎじゃないかな……仕事以外だって、あるのに」
「支援か」
「うん。定期的にね、見に入っているみたいだから、お父さん……」
涯渡氏は、公表こそしていないが児童養護施設への支援に熱を入れている。私がいた施設へもまた、月ヶ峰市近郊の古びた町ではあるが私を養子として迎え入れたことを機に氏が多額の支援金を出しているようだ。篤志家としての姿を父本人から聞いたわけではなく、すべて紗夜の口から聞いた話だ。
「お母さんが死んだ後ぐらいからかな、それまでも支援自体はしていたんだけど、支援している施設や、そうではないところも直接訪問したりし始めたんだ」
涯渡紗夜の母親は、私にとって義母となるはずだったその人は、もう既に鬼籍上の人物だ。病没だったと、父からは聞いた。故人を語る父の表情には、やはり苦笑がともなっていた。
「ボランティア活動の一環だからって、私もいっしょに行ったりしたんだよ」
喪失の穴を、慈善活動で埋めようとしたのだろうか。故人に向け切れなかった慈しみの残滓を、他の何かで代替しようとした……理由を考えるのは、野暮か。哀しみの度合いは人による。そうしなければ当人が悲痛を乗り越えられなかったから、そうしているのだ。私がどうこう言える筋合いは無い。
「それに……」
言い、紗夜が口を噤む。珍しい姿だ。いつもはこちらが望まずとも勝手に喋るだろうに。
「それに?」
先を促す。
「ねえ槐くん。お父さん、仕事や慈善活動以外に、何かしていると思う?」
尋ねられる。紗夜の中では何か懸念があるようだが、それが何かが分からない。
「……いや、分からない」
「お父さんの姿を見て、何か思わない? ここ一年ぐらいでさ」
「まだ、俺はここにきてひと月ほどだ」
「あれ。そうだったっけ。もう一年はいっしょにいそうな太々しさなのに」
私が涯渡由正としてこの屋敷に来て、ようやくひと月経過したぐらいだ。その間に見た涯渡氏の様子は、……やはり、変わらないように思える。
「お父さん。少し、身体が小さくなった気がする」
「痩せたのか」
「うん……」
実の娘がそう見るのなら、……どうだろうか。
「聞いてみたか」
「ううん」
答えを示されなければ、そうではない可能性を自身の中に抱いておける。もしも問いかけ確定されれば、それと向き合わなければならなくなる。紗夜はそれを避けている。私は養子で、彼女は実子だ。同じ父へ向ける情にも、当然差はあるだろう。
「俺が聞いてみようか」
きみが聞けないのなら。
「ううん。いいよ。もしもがあるのならお父さんから言うだろうし、どうしても強情に言いそうになかったら、私から尋ねてみるつもりだから」
そう言う彼女は微笑んでいる。戯言ばかり言う者の笑みではなく、一人娘としての静かな微笑だった。可能性の一つとして、紗夜は当然考えている。それと向き合う覚悟を培っている段階なのだろう。否定されれば消える懸念を、もしも肯定されたらという恐れに阻まれながら。
「紗夜」
「なあに?」
きみも一人の人間だったんだな、と私は言おうとした。喉元まで出かかったこの言葉を、無理やりに吞み込んだ。私の口から突発的に出かかったこの冷やかしを、私が気に入らないと感じたからだ。今の彼女にかける言葉じゃない。
「姉は一人でじゅうぶんだ」
その結果、我ながら間の抜けた言葉が代わりに出てきた。会話をぶつ切りにして発された、場違いの返答だ。クローン云々の話題をわざわざ掘り返した愚答だ。
そんな私の言葉に紗夜はふんと、からかうように笑い、
「私も槐くんは一人いればいいよ」
言い、義姉は脚立から立ち上がり、私の頭に手を伸ばす。「好きな人を増やそうとするのは、欲張りだと思うんだ」撫でようとしている。撫でさせるか。首を動かす。手を空ぶった紗夜が私を睨みつける。なんとも不満そうに。
「いつかぜったい撫でてやるから……」
恨み言を述べられた。
「きみに俺は撫でられない。不意打ちでもしない限りはな」
私の挑発に、紗夜は眉をひそめ、そして「ふふ」微かに笑う。「はあ。ごめんね。しんみりした話題を出しちゃって」と、再び脚立に座った。差し込む光がおもむろに弱まり、紗夜の表情を陰らせた。太陽に雲がかかったようだ。
「これも運命なのかな。神さまが、そう決めたのかな……お母さんも、お父さんだって……」
ぼそりと、紗夜がこぼす。視線は窓の外、曇り始めた空に向けられていた。
「運命……」
人の死。ヒトの終点。どうしようもなく、避けられようもない結末を、人為ではなく神意と受容し死に至る。運命に攫われた人間は痕跡しか遺らず、どうしようもなかったのだと諦観する。運命によりそこで死すべきとされた者は、そこで死ぬ外無かったのだと。気に食わない。気に食わない。死は神の用意した神秘ではない。単なる肉体の限界だ。神の心が死ねと云えども幻聴だ。幻聴になぜ耳を傾ける必要がある。
「槐くんは、信じる?」
「……俺は、信じない」
運命は存在しない。「絶対に、そんなものの存在を信じない」
死は不可思議な現象などではなく、ヒトの現時点での生存限界から外側の域をそのように呼称しているに過ぎない。どうすればヒトが死ぬのかを否定しつくせば死は磨滅する。ヒトの死因ひとつひとつへ反証を示せば、いつかは……。
いつの間にか近寄ってきていたのか、私の手を紗夜が触れていた。
「私たちは、長生きしたいね」
「……ああ」
可能性を探るべきだ。
正確な糸口が無ければ足掻けない。闇雲に時間を浪費するつもりはない。そうして道を作れば、あとは進むのみだ。過程で生じる全てを、結果の為に捧げよう。