お屋敷(夜)
「おあぁ……ソファに吸収されるぅ……」
埋もれゆく亜砂美の最期の言葉がそれだった。彼女は延寿の視線の先、談話室のソファに深々と背中を預けている。惚けた表情からは柔らかなソファの抱擁を心から満喫していることが窺える。
「もう一名脱落か。早かったな」
延寿のすぐ傍でからかいの言葉を投げるのは伊織だ。窓の枠に肘をつき、片手にはコーラの入ったグラスを持っている。清身と上分の二人がサロンまで持ってきてくれた飲み物の一つで、延寿の前にあるテーブルにも同様のグラスが置いてある。
「死んでませんよぉ」
「おや。しぶといなあ」
亜沙美からの抗議を軽く笑い飛ばし、伊織は傍で彫像のように佇んでいる延寿を見上げ、「生徒会長さんと風紀委員長さんはまだいらっしゃらないのか」と眉をひそめ、壁にかかっている時計へ視線を向けた。現在、午後八時を過ぎたところだった。
「なにか用事があるのだろう」
夕食後の今である。
清身と上分の使用人二人がキッチンへと入り、延寿たちが関わることは何もなく、黙々と調理、配膳から食後の片付けまでを済ませてくれた。夕食はビーフカレーとサラダというごく一般的なものが用意され、ごろりとはいった牛肉の塊に、「ほ、ほろほろぉ……!?」という亜砂美の感嘆やら冬真の「普通にうめえ……」という呆然が交わされるなどの始終和やかな雰囲気で会食は進み、隣で黙々と、しかし止まる様子なく食事を進める伊織に、「美味いな」と延寿のかけた言葉には「……ああ」との称賛が互いに交わされた。
「神懸った腕前でしょ」
果てしなく自慢げに胸を張る紗夜の言葉通りの美味で、涯渡邸に訪れたゲスト全員に感情の多寡こそあれど好評だった。
「あの年長者二人組、なにか悪い企みでもしてるんじゃないのか」
「さあな」
夕食後すぐ、紗夜と椿姫の二人はいなくなった。
「ちょっとサロンで待ってて欲しいんだ。申し訳ないけど、お風呂はその後でね」
と紗夜がまず言い、延寿たち六人をサロンへ案内した後、すぐに戻ってくるからと椿姫を連れて退室し、それから一向に姿を見せず十数分の時が経ち、今に至る。
現在、室内にいるのは五人。
紗夜と椿姫、使用人二名を除いた各々が好みの飲み物をグラスに注ぎ、それぞれ好きに過ごしていた。亜砂美はサロンの壁際にある書棚を物珍しそうに眺め、時には手に取りパラパラと目を通した後、一人用のソファに恐る恐る埋もれて昇天した。冬真と汐音は室内に設置された50インチは軽く超えているだろうテレビを並び座って眺めつつ、口数少なくのんびりとしている。テレビ画面からはしきりに笑い声が聞こえている。複数人の成人が、画面に向かって何事かを喚いている。そうしてまた、笑い声。
「……」
延寿も、テレビ画面を見つめていた。
正しく言えば、テレビ画面に描かれている赤黒い文字を。
笑い声が聞こえる
どっと、また笑い声が聞こえた。テレビの向こうから。
画面の奥で笑う彼らは、自身の顔が血のような文字で隠されているなんて知りようもないだろう。赤い文字が示すのは、単なる、事実だ。
笑い声が聞こえる。笑い声が聞こえる。
ああ、聞こえているともさ。今、目の前のテレビから。
「あははっ」
テレビ以外、からも。……どこから?
とっさに延寿は室内を見渡した。亜砂美はソファに埋もれている。恍惚こそあれど笑い声をあげた様子はない。冬真と汐音は変わらずのんびりと満ち足りた沈黙の中にいる。伊織は怪訝そうにこちらを見上げている。
今、誰が笑った?
誰の笑い声だ?
「どうしたんだよ」
延寿の様子に気付いたのは伊織だけだ。
室内を見回し、見た目上は落ち着いていながらも何らかの猜疑を抱いているかのような、そんな延寿の異常に気付いたのは。
「変なのが見えたのか」
さっきみたいに、と伊織の眼は訴えている。
「……いや」
延寿は目を瞑り、たった今聞こえた笑い声を思い返した。それは、年端のいかない少女の快活だった。誰かの冗談に楽しそうに応える少女の笑みだった。
「〝後で〟はいつ来るんだよ」
伊織の言葉にあるのは怒りではなく、拗ねた響きだ。いつ詳しく話をしてくれるんだ、と拗ねている。いつ、お前を取り巻く異常な状態を僕と共有してくれるんだ、と。
「……気のせいの可能性が高い」
延寿は、そうとだけ返した。
「……ふんっ」
鼻を鳴らす伊織の表情は、納得とは程遠い。気を紛らわせるかのようにグラスを口に運ぶと、「さっきから気になってたんだけどさ」と切り出した。
「なんであれ、倒れてんだ?」
と、伊織は気になっているものを指さした。
指した先は、マントルピースだった。室内の壁際に暖炉が設けられており、そこのマントルピースの上には外国のものらしい動物の置物(梟に、狼だ)が置かれており……「俺もだ」と延寿は言う。
二人の視線の先にあるのは、おそらくは写真立てだ。ただ、伏せられている。
梟の置物の傍に、サロンに入って来た時からずっと、その写真立ては伏せられている。
「見て見るのが一番早い」
そう言うと、延寿はマントルピースへ近づき、写真立てを掴み、立て────「……」沈黙した。
「なあ、なんの写真が入って……た……」
写真立てに入っていたのは、写真ではなかった。
「なんだ、よ、これ……気味が悪い」
絵だ。
主に鉛筆が使われている、黒と白がほとんどを占める絵。
真っ白な画用紙らしきものが写真立てのサイズに切られ、描かれているのは、大人の男女と思われる人間が二人と、子どもらしき小さな人間が五人、計七人が屋敷を背にして、並んでいる。場所は、どうやらこの屋敷らしい。玄関前だ。つい数時間前に見た光景に酷似している。誰が描いたのだろうか、精緻で、写実的な背景だ。
「……」
大人たちが奥に、子どもたちが手前にいて、さながら家族写真のような立ち位置だった。ただ、いずれの人間も背景の写実性とは対象的に簡易な線のみで描かれ、顔にあたる部分にいたっては正円だけで表されている。性別の違いは身体の枠で区別されており、大人の片方は背が高く、もう片方は簡易的なスカートの形状をしていた。子どもに関してもそうで、左からスカート、スカート、スカート、ズボン、スカートである。女子の比率が多い。また、大人の男の顔と、一番左の女の子の顔にだけ、眼鏡を簡略化した装飾品が追加されている。
「……」
絵に用いられているのは、黒と白と……赤色。
左から二番目の女の子だけ、全身が赤く、鮮明な赤色のペンでぐしゃぐしゃと乱暴に塗り潰されている。まるでその子にだけなにか不幸な出来事が起こったかのように。
「この屋敷、だろ……?」
恐る恐るの伊織の言葉に、ああ、と延寿は頷く。この絵は、今自分たちがいるこの屋敷を描いている。この涯渡邸を背にした大人の男女と五人の子供を合わせた七人を描いている。しかし、この人物たちは誰だ。紗夜の家族なのだろうか。延寿の記憶に紗夜の家族構成は無い。
「写真立てを伏せて、しかも中にこんな不気味な手書きの絵を入れておく意図ってなんだ」
伊織の声音には、疑問と、微かな恐怖があった。そうする理由が、確かに見えないのだ。考えども延寿は意味が掴めなかった。伊織が反応しているところを見るに、幻覚でもないらしい。
「涯渡さんなら知っているはずだ」
この屋敷は、涯渡家の所有物だ。紗夜が知らないわけがない。
「本人に聞こう」
「ああ、だよな……もうすぐご本人もいらっしゃるだろうしなっ……」
延寿と伊織がマントルピース上の写真立てを見ながら何事かを話しているのに気付いたのだろう、冬真と汐音、亜砂美も近づいてきて、写真立てを見、同時に、
「うお……」と冬真は言葉を失い、
「な、なんですか、これ」と汐音は不気味そうに言葉に詰まり、
「ひぃぁっ」と亜砂美は小さな悲鳴をあげた。
「ど、どしてこの子だけ赤色で塗り潰されてるんですかぁ……?」
亜砂美の怯えた疑問に、明確な答えを返せる者はこの場にいなかった。
「考えられるのは……死んだ、とか」
そう、冬真が答える。
赤く塗り潰される。一人だけ。何かが起きたのだ。そして赤ということは血を連想させる。血を流すような何か……怪我、大怪我……死。死。
「そもそも、こいつらは誰だって話になるだろ」
伊織が吐き捨てる。
やはり誰も、その問いに対する答えを持たない。
「は、涯渡さんなら何か知っているのではないでしょうか」
さきほどの延寿と伊織の結論を繰り返すのは汐音だ。「もうそろそろ来ると思いますから、そのときにいっしょに尋ねてみましょう」
その言葉に、全員が賛同した。
不気味な絵に関してあれやこれや考えるよりも、本人がいるのだから本人に聞けばいい。その本人がもうそろそろ戻ってくるのだから────、
「……おっそいなぁ」
一時間経った。午後九時を過ぎた。二人はまだ戻ってこない。
途中、冬真や亜砂美がトイレに発ったが、誰にも会わなかったという。
今、延寿たち五人は部屋中央のテーブルに集まっている。テレビは点けたままだ。テレビの向こうはまだ笑っている。今度は違う誰か達が。ずっと。
「なにか、あったんでしょうか」
心配そうな表情を浮かべた汐音の言葉に、
「ほんとに何か悪だくみしてんじゃないの。使用人の人たち二人も巻き込んでさ」
と伊織が冗談めかし肩をすくめた。「先手を打って探しに行こうにも、僕たちはこの屋敷に不慣れだし」
「あ、け、携帯がありますよぉ……」
控えめに、亜砂美が言う。「獅子舘先輩も涯渡先輩も、スマホ持ってるでしょうし。連絡とれるんじゃないでしょうかぁ」
「スマホな……あー、自分の部屋のテーブルの上に置きっぱなしだったわ」
ポケットから取り出そうとし、冬真が失敗したとばかりに額に手を当てた。
「わ、私もです、すみません……」
汐音も、また。
「……すみませぇん」
亜砂美。
「延寿、お前持ってる?」
伊織に尋ねられ、
「部屋だ」
そう、延寿。
「ははっ、五人が五人ともケータイを携帯してないのか」
冬真の苦笑に、「俺が取ってこよう」と延寿が立ち上がった。
「悪い。頼んだわ」
冬真が言い、汐音と亜砂美もまた、お願いしますと頭を下げた。それらを受けて延寿が出入り口の扉へ向かおうとすると、
「待て。僕も行く」
伊織が立ち上がり、延寿の後ろに続いた。
「……?」
「その疑問の眼を止めろ。お前一人で行って屋敷内で迷子になられたら困るからだよ」
見下ろす延寿に、不満げに伊織が言う。
冬真たちに見送られながら、延寿と伊織はサロンの扉を開け、廊下へと出た。どっと、笑い声が背後から聞こえた。それは当然、冬真でも汐音でも亜砂美でもなく、ましてや先ほどの年端のいかない少女の快活さでもなかった。
退室しようとする延寿の視線の先では。
扉の表面に、どうやっても主張したいらしいメッセージが大きく描かれている。
笑い声が聞こえ続ける
赤々と。
「おい」
「……行こう」
無意識に立ち止まってしまっていた。
見上げる伊織の不安に、延寿は平時の表情を見せる。それがまた、伊織を苛立たせる。何も共有しようとしない、信頼されていないことの証左だと誤解する。
「────っ」
また、笑い声が聞こえた。背後から。
それは誰のものでもなく、そこに異常などない。
いやに延寿の耳に障っただけの、単なるテレビの笑い声だ。