『一生徒』と一不良
チャイムの電子音が転入初日の終わりを告げた。
黒板を注視していた視線は霧散し、教室内には喧騒が満ち始める。私は椅子に座っている。今日一日の授業内容が、次々と脳裏を過ぎていく。不可思議な充足だった。苛立ちも怒りも霧散し、満たされるものがあった。
涯渡氏の勧めで転入したこの学校の授業レベルは、これまで私が転々としてきた学校と比べれば天と地ほどの差があるらしい。紗夜に勉強を教えてもらおうか、という血迷った考えすら浮かんでくるほどだ。生徒会長を務める義姉ならば、成績とて優秀なのだろうという推測に因るものだ。もっとも紗夜ならば快諾してくれるという信頼はあるが、どことなく私の矜持が許さない部分もある。石と見下した者達よりもきっと勉学に劣る無学で傲慢な私の狭量な矜持が許さないのだと……我がことながら嗤える。私のくだらない矜持が私の行為を許さずとも、自身の無知を僅かでも解消できる機会をみすみす逃すならそれこそ愚昧だろう。
私の浅薄な矜持は私を今よりも愚かにしたいのか? そうでないのなら黙っていろ。
「……」
教室内の生徒が次々と去っていく。
教室の入り口から、見覚えのある義姉がにまにまと先ほどから私を見ている。不審人物と見られている自覚はあるのだろうか。あんなのに教えを請わないといけないという、私の今までの勉学への不誠実さを呪うべきだろう。
「紗夜」
名を呼ぶと、「なにー?」不審人物が反応した。「失礼しまーっす」未だ教室内に残る生徒へ律義に頭を下げ、紗夜が傍へ駆け寄ってきた。「なになに?」
「勉強を教えてほしい」
「!」
興奮した猫みたいに紗夜が目を見開く。
「勉強、勉強を? 私に? へーえ……?」
目元が笑っている。悪だくみしている以外に考えられない表情だ。こんなのに教えを請わないといけない自らに不足があるのだ。「良い心がけだね、槐くん」
「でもさ、頼み方ってあるよね?」
「俺に勉強教えろ」
「違う違う逆だよ逆。どうして高圧的になるほうを選んじゃったの」
もう、と紗夜は目じりを下げた。「この生徒会長であり、全校一の成績優秀者の私に何をしてほしいの? うん? 詳しく言ってみて?」
ここぞとばかりにこんなのは宣う。私に不備がある。望む言葉を選んでやろう。
「息絶えてくれないか」
「はいだめ! もうだめですお姉ちゃん勉強教えません! 槐くんは留年決定残念だったねさようなら!」
両手で大きく×を作り紗夜は憤慨し、「失礼しました」と教室を速足で出ていった。
「……」
クラスメイトから困惑混じりの視線を感じる。くだらない茶番を見せたことを申し訳なく思う。無言で鞄を手に取り、教室を出た。
「……」
紗夜がいた。ちょうど室内から死角になる位置だ。恨み骨髄とばかりに私を睨め付けている。
「我が校は留年者が出る」
厳格を模し、不満を前面に押し出した目つきで紗夜は言う。
「ああ。父さんから聞いた気がする」
「きみ」
指さされる。お前はその最たる候補だ、と云いたいのだろう。
「……」
「……」
睨み合いである。
紗夜の言葉は、現状を鑑みるに正しい。今の私は傲慢さのみが先行している無学者だ。
「時間が空いているときで良い。俺に勉強を教えてください」
「うん。いいよ」
義姉の要望通りの言い方をし、やはりあっさりと承諾される。結局はお互いに着地点が分かっている上での茶番だ。笑い声の聞こえない、不発の滑稽劇である。「きみはやっぱり好奇心の塊だね」紗夜が微笑む。否定する言葉が無い。だから肯定だ。
「猫に殺されないように気を付ける」
「あははっ、私も気をつけよっと。きみといっしょで好奇心の塊だから」
機嫌よく笑い、「歩いて帰ってみる?」と紗夜が問う。「きみや私の好奇心を刺激する何かが待っているかもしれないよ?」
屋敷から距離がある為、私たちには送迎の車があった。屋敷の使用人である上分さんや清見さんが運転してくれている。今朝もそうで、帰りもそのはずではあったが、
「そうしよう」
今日は、歩いて帰ることにした。「よーしおっけー」と紗夜が鞄から携帯電話を取り出し、何やらメッセージを送信している。
「なあ生徒会長。携帯は持ち込んだらダメなんじゃないか」
「うん」
そうして平然と携帯電話を鞄へ戻すと、「行こ?」と目の前の生徒会長は私を促した。
「校則違反だろ。或吾中の生徒会長」
「うん。今のところは見つかってないからセーフ」
これ以上は何も言わずにおこう。義姉はそういう人間なのだ。
距離こそあるが、そのうちは自転車等に切り替えて、送迎を遠慮してもらいたいと提案するのもいいかもしれない、とそう考えた。
帰路。
「お前、なぁにをメンチ切ってんだ……あぁ?」
自らの脳髄の愚鈍さを顧みず、その上で是正しようともしない者と遭遇した。涯渡氏曰はくの〝無価値な〟側の人間が、きっとこれなのだろう。
同年代らしきとはいえ、或吾中とは違う。口木中学の制服だ。道を少し外れれば繁華街へと通じる路上を、楽し気に喋り散らす紗夜の言葉を聞きつつ歩いている最中だった。道の向こうからやけに熱心に私を見つめている頭髪の突き出た人間がいて、逸らす理由も特になく、正面から見返しているとずんずんと肩を怒らせて近寄ってきてからの、
「短絡的だな」
「短絡的だとぉ……!?」
現状だ。
「どういう意味かは分かんねえけど、バカにされてるってことは分かったぜてめえ……」
「口木中の人間だろ?」
「ああ。てめえは或吾のヤツだろ。そのオジョウヒンな制服見りゃ分かるわ。頭でっかち共の集まりだって聞くぜ」
「俺も、口木中は落ちこぼれの掃き溜めだと聞いている」
頭髪の突き出た人間に青筋が浮き立つのが見えた。挑発すればすぐに乗る。思考が短絡している。感情的で、衝動的だ。
「少し視線が合っただけで、見下されているとでも思ったか?」
「てめえよお……!?」
冷静にものを考えられなくなっているようだ。分別のない。自覚はしているのか? していてなお正そうという姿勢があるのならまだマシだ。そうでないのなら、なぜ私がそんな人間と関わらなければならない。人間の悪例として使い捨てる意義のみがあり、当人そのものに価値はない。
「見下されている自覚があるのなら、当然俺よりも劣っている自覚があるんだろ? 殊勝なことじゃないか」
「なっに、言ってんのか分かんねえけどなあ……! バカにしすぎてんだろどうせよォ!!」
頭髪の突き出た人間が拳を振りかぶり、至極人間味あふれる衝動でもって私を殴りつけようとしている。怒り、何に起因するのだろう? 万人への劣等か、目的に対しての無力か、あるいは茫漠な、交じりに混じった無理解な感情の塊に促されたか……左の頬に衝撃と、痛みが生じた。
「あっ」
呆気にとられる紗夜の声が聞こえた。衝撃に頭が少し揺らいだが、それだけだ。
「……」
つまらない。人としてつまらない……この退屈も、私の主観的なものなのだろう。誰かにとっては価値がある。私にとっては無いだけだ。
「な、なんで避けようともっ……きめえっ……」
どこかにいなくならないのなら。
こちらから促して、私の目の前から消えてもらう。敵意には敵意でもって応じてやろう。あれに踏み出す。拳に力を籠める。あれは動こうとしない。さっさと目の前から「駄目」紗夜が私の腕を引っ張っている。
「暴力はダメ」
「ついさっき俺がその暴力を振るわれただろ?」
「きみはダメ」
真剣な瞳で紗夜が私へ注意する。聞く道理もない。振り払おうと力を入れると、なおも義姉は手を離さない。鬱陶しい。
「槐くんの短気」
短気ではない。差し出された敵意に応えようとしているだけだ。
「ばかっ」
愚かでは……あるかもしれないが、私にはその愚かさを修正できる機会が与えられている。しかる後に紗夜が云う〝ばか〟ではなくなる。今がそうだというだけだ。
「はげ!」
しかし禿頭ではない。それは確かだ。
「て、てめえっ……これ見よがしに彼女に引き留められやがって……! 見せつけてんじゃねえぞぉ……!?」
あれの敵意が増幅する。
「きみもさっさとどっか行ってよっ」
紗夜の矛先があれへ向いた。「じゃないと私もこの男の子といっしょにきみを囲んで袋叩きにするから。この鞄でボコボコにするから」
きみのほうが好戦的では?
「に、二対一かよッ……! 卑怯だろうが!」
「卑怯でもいいよ。私は手段を選ばない生徒会長だから」
「ああ!? てめえ生徒会長のくせに卑怯なのかよ!? 生徒会長っつたら正々堂々して俺たちみたいな出来損ないとは違ってもっとキラキラしてるもんじゃねえのかよ!」
ひどい偏見だ。よほど生徒会長というものに幻想を抱いているらしい。
「ん? 生徒会長ってだいたい卑怯なんだよ?」
「知らなかったんだ?」と紗夜。卑怯者に相応しい挑発的な眉の上げ具合だ。
「そんなっ……! そ、そんなわけねえだろ!? 生徒会長が卑怯だったら票なんてもらえないに決まってる!」
「卑怯だから票をかき集める手段を知ってるんだ。これ内緒だよ?」
「い、いやそんなわけないッ……そんなわけない!? 生徒会長ってのは生徒たちの見本で、頑張り屋でっ、誰よりも努力するようなリッパな人間なんだろうがッ!」
涙ぐましい理想化だ。地を這う者の、高みに対する憧憬か。高すぎて実体が見えないのだろう。ロ中生徒の悲痛な叫びに、紗夜がにっこりと笑みを浮かべた。
「そんなわけないでしょ。だってきみの目の前にいる卑怯者だって生徒会長をできてるんだよ? 私の存在が、きみの生徒会長に対する考えの反例なの。それでもきみは、きみの偏見にしがみつく?」
「おま……」
幻想の壊れる音がした。憐れなものだ。
しかしすべてが紗夜のような卑怯者なわけでもないだろう。一例としてそうだというだけだ。あのロ中生徒の理想とする生徒会長も可能性としては存在する。そこまで考える余裕もなさそうではあるが。
「それで、きみはいつまで私たちの道をふさいでいるつもりなのかな? 囲まれてボコボコにされたい?」
「されてえわけねえだろばーか! 仲間集めて次は勝ってやるからなクソ生徒会長!!」
覚えてろ! とロ中の生徒は踵を返し、「ばーかばーかばーか!!」と叫びながら走り去って行った。少し、声が震えているように聞こえた。
まったくもう、と紗夜は私を振り返ると、
「今の槐くんが十割悪いよ」
……。
「先に睨みつけてきたのはあちらだろう。だから一割はあいつだと思うが」
「少なくとも自分が九割悪いって自覚はあるんだね」
「……衝突の原因は俺かもしれないが、結果から見ればきみにも非はあるだろ」
「どうして? 私止めようとしただけだよ? むしろ感謝してほしいぐらいなのに」
もうっ、と紗夜は眉をひそめた。敵意を買って衝突の原因を作ったのは確かに私だが……腑に落ちない。
「なあクソ生徒会長。あそこまで叩きのめす必要はあったのか」
「…………」
錆びついたかのようなぎこちない首の動きで紗夜が私を振り返り、無言で凝視している。
「……」
見ている。
「……」
見ている。
「……」
近づいてきた。先ほどのロ中の生徒のように、私の顔を下から見上げるようにメンチを切っている。私の胸元を右手の五本指で触れ、なぞっている。
「きみの魂、何色かなぁ……?」
何か戯言を述べている。
「無いものの色合いについて推測するのは徒労でしかないのだと知らないのか?」
「えい!」
ずん、と衝撃がきた。「げほッ……!」鳩尾に入り、押し上げられて咳が出た。
「あちゃー魂が出てこなかったねー」
あらら、と紗夜。
「……きみでも暴力に頼るときがあるんだな」
「うん。そうみたい。初めて他人の鳩尾を叩いた」
「そうか……」
ふふん、と鼻を鳴らして紗夜が後ろ手を組んだ。
「きみが暴力を振るうか、私が言葉で追い払うか。その二択で後者を選んだだけだよ。きみの手を汚さずに済ませたのに、どうして私が『クソ生徒会長』って言われないといけないの? っていう大いなる不満をぶつけたの」
にこり、と言葉の内容とは裏腹に機嫌良く、紗夜が私に笑みを向ける。
「だから、ぜんぶきみのせい」
笑みを携え、義姉は指摘する。「今までだってこれからだってねっ。きみはままならないんだからっ」冗談の響きを帯びている。
「俺のせい……」
すべてが私のせいだと彼女は云う。
このときそう、彼女は云ったのだ
私を起因とし、あらゆる事態は起こったのだと。過去、現在、未来、すべての。
「うん。ぜんぶぜんぶきみのせいっ」
……そうなのかもしれず、そうなるのかもしれない。
ひとつの可能性であり、実証されていないが故の仮説だ。万が一、その仮説通りになってしまった場合、私は……私が、すべての始末を、つけよう。私が原因なのならば、私が解決すべきことだ。…………愚劣、ひどく愚劣な話だ。この期に及んでなお、私は正しくあろうとしている。〝せめてそれぐらいは〟などと考えている。何に対する、どういう感情を持ってそう考えてしまっているのか……深く、考えずに置く。目的遂行のプロセスに、後悔などという崇高な内省は含まれていない。
「きみのせいで、私はきみに暴力を振るわざるを得なくなった」
「笑えるほど詭弁だな」
返す私の言葉に、紗夜はひときわ楽しそうに笑い声をあげた。
「私が楽しくなったところで、私たちの帰り道を再開しよー。目指すはきみの故郷であり、私のお家へっ」
帰り際も紗夜は喋り散らしていた。よくもまあそこまで話す内容があるものだと感心すると同時に、見習うべきなのだろうかとも考える。
「友情はじっくり熟す果実のようなものだと言うけどさ、私と槐くんとの間の果実は早熟だね。もうすっかり熟してるっ」
「そろそろ腐るんじゃないか」
「腐臭って甘いんだってさ。私たちの間に実った友情からも甘い香りがし始めるかもっ。きゃっ」
こんなのをか?
いや、否定するのは早計か。私自身、実体が見えていないという危惧を忘れてはいけない。手の届かないものは、遠すぎるが為に実体を捉えられず、あらん限りの理想化か、あるいは憧憬の裏返った否定をしてしまう危険性がある。私にとって遠いものだから、紗夜の多弁が孕む価値の側面が見えていない可能性だってあるのだ。
「あ、見て見て槐くん、ゲジがいるっ。いつ見ても脚が多いねきみー。歩くのも速いなーあっという間に置いてかれちゃう。まるで考え事していて私の存在がはじき出されているときの槐くんみたいだっ、ねえ槐くんっ? 聞こえてるー? 私よりも数歩先にいる私を置き去りにしようとしている槐くーん?」
あるのか?
その後、無事に屋敷まで辿り着けた。歩いて帰るにはやはり距離があり、西日が眩しい中の帰宅となった。けっこうな時間がかかってしまった。涯渡氏に……父に、自転車の購入を検討してもらうよう希望してみることにしたが……父は忙しいらしく、まだ会社にいるようだ。
そうして、夜になった。
「勉強教えてほしいんでしょ」
風呂上りらしい薄着の紗夜が私の部屋へやって来て、言う。手には一本の赤ペンを持っている。
「お願いします」
とりあえずは今日の授業で分からなかったところからだ。
机に座る私の横に立ち、「どうぞ。槐くんの無知っぷりを私に披露して」途端に嫌になってきたが、背に腹は代えられない。その後しばらく、紗夜による挑発と高慢を交えた授業を行った。
「ふーん。槐くんってけっこう理解が早いんだね」
「地頭が良いんだろうな」
「うん待ってて。今槐くんが絶対に解けなそうな問題探すから。先生としてそのプライド圧し折らなきゃ」
じじつ、理解は易かった。義姉は確かに勉強を教える巧さがあるのだろう。
「ごめんね。教えるのが上手で。悩む楽しみを奪っちゃってるよね……」
当人は既に自覚しているようなので口に出して言わずに置く。いずれは超える藍草だ。せいぜい私の素地になってもらおう。