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朝、起床してすぐのことだ。
「由正」
リビングのソファに座り、コーヒーを片手に鹿爪らしい表情でノートパソコンの画面を眺めていた父が、俺を呼び止めた。
「今日、お前にお客さんが来る」
「俺に?」
「ああ。家庭教師だ。まずは、顔合わせにな」
初耳だった。そうして意外だった。思い当たる節がなかったからだ。
別段、学校の授業に後れを取っているわけでもなく、成績不良という事実もない。両親が俺の勉学に口をはさんでくるのも、これが初めてのことだった。
「……なんで?」
だから当然、理由を尋ねた。
「ここのところずっと勉強せずに外を出歩いているだろう? 俺もお母さんも、お前には少なくとも良い大学には入ってほしいと思っている。そうしてお前に将来の目標があり、そこへ進むことを望むならそれ以上だって進むといい」
初めて聞く、両親の要望だ。
親なら誰しも自分の子には立派に育ってほしいものなのだろう。そして俺の両親が定義する〝立派〟の必要条件が、少なくとも良い大学を出た、という実績を持つ人間であるらしい。果たして両親の望む〝立派〟に至るには、いったいいくつの必要条件をクリアする必要があるのか、と辟易する。
「だから今日は家にいなさい。家庭教師の先生は、お昼を過ぎたあたりでいらっしゃる。それまでは部屋の掃除でもしておくのはどうだ」
言い終わると、父親は再びノートパソコンの画面をにらみ始めた。ふと目に入った画面上では白猫がちょこちょこと動き回った末に画面からフレームアウトし、その後黒猫が猛スピードでカメラの前に飛び込んでくる映像が映し出されていた。仕事関連ではないようだ。キッチンのほうでは母が動いている規則正しい生活音が聞こえる。
「ペットを愛情深く探すのは美徳だ。しかしそれで自分の人生を失う羽目になる危険があるのなら、控えるべきだと、俺は思うぞ」
画面をにらみつけたまま、独り言のように父が言う。その視線の先に流れる映像上で、一人の女の子が黒猫と戯れた後に笑いながら芝生の上に倒れ、その後起き上がってカメラの撮影者の方へ走り寄ってきていた。手には木の枝を持っている。そして何故だか女の子が木の枝を振り上げて撮影者へ襲い掛かろうとしたところで映像は終わった。どこかの家族が撮った、微笑ましい日常の一場面だ。
「小さく無力で無害な生き物だからと虐げようとする者に、倫理観など期待してはならない。そういう人間は、いずれ今の獲物に満足しなくなる」
動物殺しのことを言っているのだろう。まだ、捕まっていない。外を不用意にうろつくな、と父は云いたいのだ。危険だから。運悪く死ぬかもしれないから。
「……分かってるよ」
ソウを探しているのは俺だけだ。父も母も、何も言わず、行動を起こさない。
両親にとって、ソウは……いなくなった白い小鳥は、家族と同様の愛情をかけるには何かが不足していたようだ。分かっている。両親はペットと子どもの双方を大切に思っており、天秤にかけるまでもなく子どもを優先する人たちだということは理解している。大切ではないわけじゃない。大人は、子供よりもずっとその大切の優先順位を付けられる人間というだけだ。
「……」
だから今日は、外に出られない。いや、家庭教師ということは、これから先拘束される時間も増える。多少の不満を、実感した。どういった不満なのかも、分かっている。
そうして午後になった。
外を出歩くには気持ちの良いだろう晴天のもと、家庭教師がやってきた。落ち着いた色のサマーニットにロングスカートという姿で、出迎えた父と母と俺に向かい、
「初めまして。沙花縞由丹と云います」
そう、頭を下げていた。
サカシマユニ、と名乗ったその女性は、月ヶ峰市内に唯一ある大学に通う女子大生だった。銀縁の眼鏡をかけ、長い茶髪を後ろに結っていて、いかにも優等生然としている。まあ真面目そうな美人さんだわ、と母は俺を意味ありげに見やり、理系の学部に所属している方だそうで、と父は情報を開示するだけして、「息子をよろしくお願いいたします」と二人とも頭を下げてさっさと家の中へと引っ込んでいった。
「はい。よろしくお願いされました」
そう言うと、ユニさんはにこやかに俺を見た。
「よろしくお願いします、由正くん」
「はい……よろしく、お願いします」
頭を下げて、上げるとユニさんはにこにことしたまま俺を見つめていた。確信できるぐらいに嬉しそうな表情だ。なぜ、とふと思った。単に凄まじく愛想が良い人なだけかもしれない。
「守さんと嘉美さん……あなたのお父さんとお母さん、良い人そうですね」
と思っていると、急に尋ねられた。
延寿守と延寿嘉美。父と母だ。世間話だろうか。にしても急に親の……話題が無いから、なのだろうか。
「良い人たち、だとは思い、ます」
物心ついたときから両親はずっと両親だったが、言われて改めて考えると不自由なく親と子供でいられるほどには良い人たちだとは思っている。俺の返答に、ユニさんはそうですか、と満足そうに頷いた。また、嬉しそうに。
「なにか、私に聞きたいことはあります?」
楽しそうにユニさんは問いかける。この人はプラスの感情しか表現できないのではと思うほどに笑みを浮かべている。いつもそうなのか。それとも今日が偶然なにかとんでもなく良いことでも起こった日なのだろうか。
「家の中に入りませんか」
いつまでも軒先で話し続けるわけにもいかない。
「あ、そうでしたね。ふふ、いつまでも話し続けてしまうところでした」
そうしてユニさんとともに家に入り、部屋に行くと、テーブルの上にはすでにお茶と茶菓子が置いてあった。
「お父さんとお話している限りだと、由正くんは先々は私と同じ大学を目指しているのかな?」
「そういう話を父親としたことはありません」
「あ、あれ、そうなの? ならお父さんの希望、ということになるね……」
苦笑し、ユニさんはお茶を一口飲んだ。進路について父と会話した記憶がないため、そこは父が勝手に適当なことを言ったのだろう。
「どこの大学に行きたいとかも、まだ考えていないです」
「そうなんだね、うん……じゃあさ、由正くんは好きな化学とかはある?」
「好きな科学、ですか……?」
好きな科目とか好きな分野ではないのか。最初から選択肢が狭まっているようにも思える。
「え……あっ、いやちが、す、好きな勉強の科目ってことなんだけどね、言い間違えちゃったねっ、私、あはは……」
どうやら言い間違えただけのようだ。
「先生は理系って言ってましたけど、どこの学部に入っているんですか?」
「私ですか? 私は理学部の、生化学を主に専攻しています。月峰大に生物化学の学科がありますので、そこに」
月峰大、月ヶ峰市内の大学の通称だ。
「もしかして由正くんも興味が湧いてきましたか? だとしたら月峰大の……その頃にはもうOGでしょうけど、先輩として一助になれますよ」
ぐいぐい来る。
「進路の一つとして考えているだけです。入れるかも分かりませんし」
「頑張って教えますよ」
ふんす、とユニさんに気合が入る。「由正くんの成績は優秀だと聞いています。私も自分で言いますけど良い方です。そんな私が教えて由正くんが教わるのなら、合格できる可能性は高いってものです」
「月ヶ峰から離れて別の大学へ行くかもしれません」
「え、遠くですかぁ……」
なぜだか寂しそうに、ユニさんが口を開く。
「まだ、何も決めていないんです」
今、中学生だ。
大学受験までには時間があるようにも見える。確固たる信条も無いため、それまでの日々で考えがどう変わるかも定かじゃない。
「ゆっくりと考えてみることです。学びたい分野があったら私に教えてください。こんなこと言うのもなんですけど私はほとんど何でも教えられます」
自慢げにユニさんは胸を張り、「教えられないところも、もちろんありますけど」思い出したかのように控えめに言った。
「頭が良いんですね」
半ばお世辞で、実際には良いのかもしれないが、俺がそう口にすると、ユニさんはどこか照れくさそうに、くすぐったそうに表情を柔らかくすると、
「先生が良かったんですよ」
ぽつりと、けれども確然と、そんな風に俺へ笑みを向けた。
「今日は顔合わせだけですが、次からは宿題で分からないことがあったり、苦手科目で聞きたいところがあったら是非とも私に言ってください。知りたい分野がもしあれば、それに関する教材や資料を揃えて持ってきますよ」
しばらく話した後、ユニさんは立ち上がり、「お茶とお菓子、ごちそうさまでした」と礼を述べ、改まって神妙な表情を見せた。
「もう知っているとは思いますが、月ヶ峰市内にはどうやら危険な人が潜んでいるようです。あんまり出歩かないことをおすすめします」
父か母から俺の頻繁な外出についても聞いたのだろう、窘めるように彼女はそう言った。
「朝に上機嫌に歌っていたとしても、夜には泣くことになるかもしれません。何が起こるかなんて、いつ不幸になるかなんて、誰にも分からないんだから」
そこまで言うとユニさんは表情を崩し、
「分かるとしたら、神さまぐらいでしょうか」
そう、くすりと微笑む。
いるはずがないと前提されて当然の何かについて言及する、それは冗談だった。
「また、会いましょうね。由正くん」
「呼び捨てでいいですよ」
ユニさんは年上だ。それに学校の先生たちもそのほとんどが延寿だったり由正だったりと親し気に呼び捨てをしてくる。俺の言葉に彼女は少しの間きょとんとすると、ふ、と微笑をこみ上げさせた。
「なら、そうします。また今度、由正」
「はい。今日はありがとうございました」
そのまま玄関までユニさんを見送り、「お邪魔しました。本日はこれで失礼いたします」と彼女は挨拶をして帰っていった。徒歩だ。
夕方には程遠く、太陽に照らされる街は眩いほどに明るい。出かけようとも思ったが、動物殺しの危険性について父からもユニさんからも注意を受けた今日である。昨日の今日ならず今日の今日だ。さすがに今日ぐらいは控えて、家の中で調べものでもしつつ時間を過ごすつもりだった。将来、というものを、少しだけ考えてみるのもいいのかもしれない。
あの白い少女は街を散歩しているのだろうか、とふと思った。危険だというのは彼女も知っていようから、彼女自身が、あるいは彼女の両親が止めるのだろう。また次の休日に逢えるのなら、それで良い。……いや、俺はきっと、そうあってほしいのだ。