メントール同乗
窓の外には住宅地が流れ、遠くにはビルが建ち並ぶ。
月ヶ峰市の街中からは出ておらず、化ケ屋敷までまだ距離があった。いずれは必ず着くというのに、延寿は気ばかり逸っていた。隣でハンドルを握る取兼は真剣な様子でフロントガラスの向こうを見据えており、助手席に延寿を乗せているという気負いもあるのか限りなく安全運転を無言で遂行している。彼女の肩に必要以上の力が入っているようにすら見えた。
「……」
「……」
車内の空気は重い。
万人に平等ではない時間が、延寿と取兼の間に漂う空気の重みに委縮し遅くなっているようですらあった。雨の勢いばかりが増して、夜間のガラスに水滴が弾け続ける。
「……見づらいですね」
「……そうですね」
「延寿。ひとつ弱音を吐いていいですか」
緊張している様子の取兼の言葉に、延寿は「どうぞ」と続きを促した。
「私、夜中の運転苦手なんです。特にこんな雨の日の夜は」
「そうなんですか」
「ご存じかと思いますがどうにも私は先天的に視力が弱く、ずっとこの眼鏡にお世話になっています。眼鏡が無ければ何にも見えない不甲斐ない教師の運転で怖がらせてしまいすみません」
「大丈夫です……怖がっていませんから」
殊勝に謝る取兼に延寿はフォローの言葉を添えた。言葉通りに、延寿は別段取兼の運転に恐怖していない。そんな余裕すらない。ただ早く到着することだけを望んでいる。
延寿の返答に取兼は前方を注視したまま目を細め、ほんの少しだけ眼鏡のフレームに指を触れた。そうして車内は再び沈黙した。
対向車のライトが過ぎていく。
赤信号に取兼がブレーキをそっと踏む。
ワイパーが雨粒を懸命に弾き出している。
「大丈夫ですよ。きっと大丈夫です」
まるで独り言のように取兼が沈黙を霧散させた。なにがどう大丈夫なのかの根拠はなく、延寿にとってはただ言葉面で励まそうとしているだけの無意味な音の羅列だった。だが、延寿は言葉には出さず態度にも出さず、鉄の表情で「そうですね」と無意味な音の羅列を返した。取兼は延寿の心中を察し、不安を緩和させようとしているのであり、その心遣いに泥をかけるような行為をもしするならばそんな自身を不愉快だと思うが故の相槌だった。つまるところ結局は、自分の為なのだ。
「求める者には与えられます。探す者は見つけられます。門を叩けば……叩き続ければ、いつかは必ず開かれるんです」
取兼が口にする聖句を、延寿は知っている。どこで聞いたのだろうかと考えるが、フレーズ自体が有名であるから、どこかでは聞いたのだろうと考えを流し去った。
「必ず。必ずです。必ず」
力強く、取兼は繰り返す。それは延寿というよりも、まるで自分自身に言い聞かせているようで、どこか鬼気迫っている面持ちがある。
「先生も、誰かを探しているんですか」
延寿は尋ねる。
誰かを探している。
あるいは取兼は何かを求めている。
もしくは彼女は戸を叩き続け、開かれる瞬間を待ち望んでいる。
「……」
延寿の問いに、取兼はすぐには答えない。フロントガラスの向こうを見て、赤色の信号を見ている。停止しろ、という道交法の制止を遵守している。その瞳は真剣で、揺れておらず、動じておらず、ただ確固たる意志が湛えられていた。
以前に、取兼は師について語っていた。学問の師の執念を口にしていた。とうに敗北して終わったはずの虚妄を……彼女は、未だに追い続けているのではないのか。
その師とやらの執念が何かは、延寿は知らない。
知らないなりに、思う。それは、取兼が負わなければならないものなのか。彼女が負うほどのものなのか。そんなもの……くだらない、狂人の妄執に過ぎないのではないか。狂人の理想に取兼は呪われているだけではないのか。
そう考えて、延寿は赤信号を見上げる。どうしても早く着きたいのなら、暴論を言えば信号を無視すればいい。己の進みを止めようとするあらゆるものを、無視し続ければいい。法律を犯し、生命倫理に背を向けてまで早く辿り着きたければだ。延寿は、そうまでする気が起きなかった。そうまでして早く到着した場所がそもそも自身の望んでいたところであるなどと、誰も保証してはくれない。そうして阿呆者の足跡は、その者の願う場所には決して辿り着けない。愚人の思考が促す先は愚かに相応しい最悪だ。まったく別の扉を必死に叩き続けて時間を浪費し精神を摩耗させた末に、ようやく気付くのだ、俺は馬鹿々々しくも自分が望むものとは全然別のものが待っている扉を無心になって叩き続けていたのだ、と……そうやって正しく乏しい熟考に相応の結果を手に取れることだろう。
その師とやらもきっとそうだったのだ。取兼は、その師という皮相を振舞う愚者の執念を追うべきではない。愚考を継ぐべきではなく負う必要などない。
憎悪に近い否定の連続で、延寿はそのように結論した。確信とも見れる幾重もの否定は、嘲りであり憎しみであり、現状に起因する八つ当たりでもあった。
もし、その師の虚妄を負うのを止めるように取兼に伝えたら、彼女はどんな表情をするのだろう? だがいつかは伝えなければならないのではないか。不毛な時間をこれ以上彼女が浪費しない為にも。伝えるのは誰の役目になるんだ。……そして、憶測に憶測を乗せ続けた信憑性と現実性に欠ける推論を、延寿は打ち切った。取兼がその師の虚妄を追っているかそもそもが定かではなく、もしそうだとしたら止めるべきはその師自身の責任だ。だがその彼か彼女かも定かじゃない師が故人である以上はどうしようもなく、無関係である延寿の言葉では、たかだか一生徒の身の程を弁えない不要な世話だと跳ねのけられるだろう。なぜなら取兼と師に関連する過去に自分がいるはずはないのだからと、延寿はそう現実的に考えた末に黙った。止めるに相応しい者が止めるべきで、それは俺じゃない。
憶測に次ぐ憶測の末に思考を放棄していると、やがて信号が青へ変わった。車が再び化ケ屋敷へと進み始める。取兼は延寿の問いかけに未だ答えず、アクセルを軽めに踏んでいる。
「優しいエンジュ。永遠の命を得るには、私たちは何をすべきなのでしょうか」
ぽつりとこぼした取兼の言葉はあまりに自然な疑問だった。「マタイの福音書には十戒を守りなさい、とありました。戒めさえ守れば、私たちは永遠を手に入れられるのですか」
永遠とは、存在しない事象だ。
戯れの会話にしては、取兼の表情に微笑が含まれない。
「遠因にはなりえるのでしょうが、現実的ではありません」
延寿はそう答える。戒めを守るという善行に、永遠を手中にするという即効性は無い。
「つまり、延寿の中で永遠は存在する、と?」
取兼がいたずらっぽく笑った。
永遠に至るまでの道中を遠因だと否定するのは、すなわち永遠の存在そのものは認めているということとなる。少なくとも永遠ごと否定しているわけではないのだから……からかわれているのだと、と延寿は分かっている。
「ふふ、すみません。いやな聞き方をしましたね。今、延寿は過程に対する所感を述べただけで、目的の実在如何については触れていません。分かっています。わざとです」
愛おしいものを前にしたような笑みを取兼は浮かべている。延寿の認識している限り、彼女はいつもそういうふうに笑う。笑いつつ、取兼は言葉を続ける。
「実際、ありえるのでしょうか」
「永遠がですか」
「はい。永遠といっても、物質的だったり概念的だったりとありますから……私たちの考えるものは、物質的永遠です」
私たち、と取兼は言う。
「生体と形成される意識の双方に働きかける永続的正常機能性の恒久的保証のことです」
つまりそれは、不老不死だ。
「端的に言えば、不老不死、です」
雨脚が一段と激しくなってきた。
窓外に流れる建物の数が減ってきた。
月ヶ峰市の郊外へと入りつつあった。
「ヒトの生体は不可逆の塊です。時間の矢が真っ直ぐにしか飛べないように、エントロピーが増え続けるほかないように、元には戻りません。誰もが理解しています。胚から生じ、多様化複雑化したヒトは誰しも例外なく最期には死に収束するという当然を、……分かって、いるんです」
取兼の表情が陰る。
理解はすれども納得はできない、と彼女の表情が物語る。自らの諦観を自ら否定し続けているかのような、苦渋の顔。
「一冊のノートに描かれる誰かの物語のページを、いつまでもめくり続けたいのなら延寿はどうしますか?」
「……不可能なことです」
そうですね、と取兼は微笑む。不可能ですね、と寂しそうに。
「ひとつの胚から始まった人生は、どんどん乱雑になっていきます。他者との人生に絡み合い、主点は分離し互いに線を引き、点は引かれた線により面となり、奥行きにより立体となり多角性を得ていく。多角的な立体は球体に近づいていく……そうやってヒトが引き続けた輝かしい軌跡が魂の実体なんじゃないかって、私は思うんです」
夢を見る少女のように、取兼は非現実を語る。
「ヒトの、人生の、痕跡……その人が確かに生きていた、というかけがえのない、大切な証拠です……」
夢見る彼女の瞳は、フロントガラスの向こうを、遠くを見ている。
「魂は、綺麗なものです。虹色にきらきらと輝いていて……」
「……」
沈黙して聞いている延寿は、魂を、引いては非物質的なすべてに対して、否定的だ。ただ、取兼がそれを心から信じて語ろうと、それを否定したりはしない。夢を見るだけなら自由だ。願うだけなら自由だ。それが誰かの危害にならない限りは。「分かっています」取兼が、ふと延寿を見た。
「エンジュ、あなたは魂を否定し続ける」
その言葉は、確信を伴っていた。
「……前を。取兼先生」
延寿の言葉に、「あ、す、すみません」と取兼は慌てて視線を前へ戻した。「つい、熱が入ってしまいました」
雨粒の弾ける音が強調される。
田畑の間にぼんやりと延びる暗がりの道を、車は進んでいる。対向車線に車は来ない。
「先生」
「なんですか」
延寿はふと、疑問を口にした。
「先生が師と言っていた人は、不老不死を目指していたのですか」
取兼が永遠に対して示した諦念。
私たち、という彼女の言葉。
不老不死を真剣に追い求める姿を、一般的な人間はどう見るだろう? 虚妄をどうにか手に取ろうとする狂人ではないのか。叶いもしない理想へ、掴めもしない手を伸ばそうとする……愚かな「延寿」「はい……」
「そうだと私が答えたとして、あなたは何かを思いますか?」
取兼の視線は前を向いている。その手はハンドルを握っている。意識はフロントガラスの向こうを笑みもなく注視し、ただその耳だけは、延寿の返答を待っている。どう答えてくるのか、を待っている。
「どうして先生が代わりに目指そうとするのか、と思います」
延寿の返答に、取兼の表情に変化はなかった。一切。
「……あの人の足跡をなぞり続ければ、いつかは立ち止まっているあの人に追いつけると思っていました」
あの人とは、彼女の師だ。
「あの人は、考え事をしていると歩くのが早くなってしまうんです。だから、よく私は置いて行かれました。子供だった私の歩幅では、背丈のあるあの人の歩幅に間に合いませんでしたので」
彼女に呪いを遺した張本人だ。だと、いうのに……
「でもあの人は、よく立ち止まり、遅れた私を待っていてくれました」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに、取兼は懐かしんでいる。彼女が過去を心の底から大切にしているのだと、伝わってきてしまう。
「いつの日か、私の目の前に足あとが無くなっているのを見つけました。いいえ、無くなっていたのでは、それはなくて……」
ふと、取兼の表情が、口角が歪む。「ただ私は、」笑み、なのだろうか。
「誰の足あともない場所を、ひとりで歩んでいただけだと気付いたのです」
少女のようにあどけなく、笑みが哀しく泣いている。
「……」
取兼は純粋だ、と延寿は思う。
「魂の回翔を信じずとも、永遠の命を願いきれずとも……私は朝を迎えさせます。不老不死は神さまの冗談ではないのだと、証明してみせます」
危ういほどに、純粋だ。
そんな彼女に、そこまでの呪いを遺したその師とやらが忌々しく、延寿は思う。心底から湧出するのはただただ、憎悪だ。身勝手で、無責任で……〝臆病〟な彼女の師へ対する。
「もうすぐ、着きますよ。小路が見えてくるはずですから」
取兼が言う。
目的地が近づいている。
花蓮が、おそらく待っている場所が。
暗い視界に、なお暗い塊が現れた。森だ。
「ニルは消え去り、ウンは潰れて、ビを踏み台に、今はトリ」
ぽつ、と取兼がこぼした。
「……なにを言っているんですか?」
延寿の率直な疑問に取兼は不満に口を横一文字に結ぶ。さながら子どもの膨れ顔だ。伝えたい言葉をまるで理解してもらえなかった子どもの不満、
「……教えません。自分で考えてください」
分からない延寿は、だから当然のように教えてもらえなかった。
森の小路の入り口へと、車は辿り着き────「そんな」取兼が言葉を失う。延寿もまた、同様だった。
森。
屋敷へ続く小路の、入り口。
大きな樹木が一本、小路を塞ぐように横倒しになっている。倒木だった。
「車、通れませんね」
「徒歩で行きます」
言い、延寿はシートベルトを外し、「ありがとうございました、先生」欠かさず礼を述べ、助手席の扉を開けた。
「待って延寿、傘を。私も行きます」
慌てて取兼も降車し、後部のトランクから傘を取り出した。「一本しかありませんけどっ」
「それは先生が使ってください」
言い、取兼の返答を待たずに延寿は走りだした。
豪雨と云っても差し支えない雨のもと、森の小路を、屋敷へ。