お屋敷(夕方)
採光窓から夕暮れが零れ落ちて、エントランスホールを朱色に満たしている。
「ああ気を付けて。バナナの皮が落っこちてるかも。綺麗にすべって尻もちついちゃったらきっと痛いよ」
軽やかに階段を降りて一階の絨毯を踏み振り返り、延寿たちを見上げ紗夜が笑う。落ちてるわけないだろ、と伊織が即座に言い返した。空から室内に染みる夕暮れが、紗夜のいたずらな表情もまた染めあげていた。
「でもさ、伊織くん。もしもこの屋敷に悪い子がいて、ホールの階段にバナナの皮を置いてたらどうするの? メリヴェール卿みたいに転んで怒っちゃう?」
「メリヴェール卿って誰だよ」
「HMって人。探偵さんだよ」
「ああ探偵さんね、探偵さん。僕の知らない探偵さんだ」
軽い口調で言いつつ、伊織は延寿とともにホール一階の絨毯を踏みしめる。
一拍遅れて、ゴーン、とまず一度目の音が聞こえた。延寿も伊織も、すぐさま音の出どころへ視線を向ける。ゴーン、と二度目。視線の先には大きな振り子時計が悠然と佇む。
「けっこう音」三度目、「でかいな」四度目、
「ああ」五度目、六度目。
六度、鳴った。午前というには空が朱い。ならば今は午後六時だ。
「じゃあ、行こう? この廊下の先だよ」
振り子時計についてさして触れることもせず、詳らかな説明を行ったりもせず、紗夜は目的の場所であるサンルームへ向けて歩みを再開した。その視線は散漫せず、一方向にしか向いていない。彼女の後ろ姿を、延寿と伊織が追いかけ歩く。
そう経たず、三人は両開き扉の前に辿り着いた。
「今、開けるよ」
紗夜が一本の鍵を取り出し、鍵穴へ差し込み、回す。解錠の音が響く。
「今の私は、この屋敷のどんな扉だって開けられるんだから」
なぜだか自慢げに紗夜は延寿を見やり、胸を張る。延寿はそんな紗夜の言動の理由が分からなかったため、無言で流した。
「開けられない扉がある家はただの欠陥住宅だろ」
「資格が無ければ開けられない扉だってあるんだよ」
「なんだそれ。勇者の証とかかよ」
「勇ましいは勇ましいかな。違うのは向かう方向性で、何に背を向けるのかだから」
「何言ってんの……?」
正気を疑うかのような伊織の視線に微笑を返し、次いで紗夜はドアノブへ向き直り両手で掴むと、またもや延寿たちへ振り向きにやりと親愛の笑みに口角を上げる。
「……心の準備は良い?」
「もったいぶってないでさっさと開ければいいじゃんかよ」
「だってほら、怖い光景が広がっているかもしれないし」
「なんだよ。開けたら血まみれの死体が転がっていたりするのか?」
「うん。たくさん転がってる」
「おお……そりゃ怖いもんですね」
交わされる冗談が延寿の耳に流れていく。
「真面目な話、もう暗いから大丈夫とは思うけど……伊織くん」
「僕? ああ……そういう、平気だよ。僕は何も日光に当たったら燃えたりするわけじゃない。フツウと呼ばれる方々よりも少しだけ太陽の光に弱いだけだし」
紗夜と伊織のやり取りを聞きつつ、延寿の視線はひたすら目の前の扉へ注がれていた。
あ117378過198398うこ168
両開きの扉の中央にそう、誰かの血をインク替わりにしたかのような赤黒さで意味の読み取れない文字が描かれている。
あ。過。うこ。
延寿が読み取れたのはそれだけである。
「……」
延寿は黙して、眼前の幻を凝視する。
落書きが。
俺にしか見えていない血文字が。
何かのメッセージであるのは、もはや瞭然だ。普通の人間にこのような赤い落書きは見えない。異常な人間の異常な視界に映るものだ。現実の範疇でありながら論理性を放棄した出現をし、自身の正常性に疑問を生じさせる。俺はおかしいのだろうか、と。
「……」
俺はおかしいのだろうか。
俺はおかしくなってきているのだろうか。
血色の文字が視える人間の神経が正常に機能している、と誰か一人でも言い切れる人間はいるのか……いるはずがない。
「おい延寿」
────と。
じっと文字を見ていると、微かに蠢いた。「延寿? どうしたんだよお前そんな真剣な表情で」赤黒い血が蠢いている。扉に張り付いた俺にしか視えていない幻が、動き、蠢き、形を変えて、
あなたの過去へようこそ
「……ッ!?」
「……延寿くん?」
過去。過去だと? あなた、とは。誰だ。……俺?
今、文字が動き、変化した。無意味な羅列が、意味のある文字列へ変わった。遂に読み取れた。読み取れてしまった。
「おいってば延寿」
どうやら。
どうやら視覚は順調に壊れているらしい。
「延寿って。どうしたんだよ、ってばっ」
なら次はどこだ? どこが壊れる?
聴覚、触覚、味覚、嗅覚。どこだ。
赤い落書きが視える次は、どうなる?
「なんでそんなに扉を凝視してんだよお前ッ」
神の嗤い声が遂に聴けるのか。
魂に触れるという至福を得られるとでも仰るか。
世俗の食物に醜悪を覚え空嘔が消えなくなり、幻が馥郁と香るようになるというのか。ヒトを違え。ヒトを超えて。ヒトの枷を外し。行く末は……化け物、獣、虫けら……ヒトの因子を喪失した何かに、永遠を生きる何モノかに……俺は、俺、は、望んでいた、望んでいたんだ、積み木を崩し、信頼を壊し、信用を踏みにじり、冷酷に方向性を向け生命倫理に背いてまで俺は、焼き付く笑顔に目をつむり目をそらし耳を塞ぎ口を噤んで背を向けてまでの価値を見た見ようとした永遠に……眼の前には赤い落書きがある。
ようこそ、と。
それが歓迎するのは、俺だ。
誰が歓迎しているのだろういったい誰が?
俺が崩した者たちの誰かかそれともサ か リかツ キかトウ か かそれともミ「ッッ!!!」
ぐい、と思い切り腕を引っ張られ、延寿は無理矢理に扉から視線を外された。引っ張られることで、どうにか渦巻く思考の猛毒から抜け出せた。脳裏で生じた激情から逃れられた。
見ると、無言の伊織が両手で腕を掴んでいる。その表情は余りに必死に歯を食いしばり、気の毒になるほど不安に満ちていて、憤懣が表面を覆っていた。ふう、ふう、と息が荒い。紗夜もまた、なんだろどうしたんだろ、と戸惑いを顕わにしている。
三者、言葉のない空間だった。
足元の覚束ない不安定な沈黙だった。
誰かが口火を切らなければ抜け出せない硬直だった。
「なんでもない」
何もない、と延寿は一度目をつむり、向けられた二つの視線と関心を遮断した。目を閉じたままで、そうして延寿は何も見ようとしない状態で、
「心配をかけてすまなかった」
それが弁解であるのだと、この場にいる全員が分かっている。
なんでもない、わけがないのだ。
つい今しがたの延寿の硬直と視線の鋭さには狂気が滲んでいた。
紗夜はそれを見、伊織もそれを見た。
紗夜は行動せず、伊織はその狂的な様相に耐えられなくなった。延寿の視線の先に映る何かが、決して彼を幸せにするものではないと確信した。それ、あるいはそれらは、彼を呪い続ける〝怖いもの〟だ。だから伊織は延寿の腕を取り引っ張り引き離した。その瞬間の、彼がこちらに向けた視線の、瞳の震えが、伊織はどうしようもなく悲しいものに思えた。すぐに逃げるように目をつむったことからも、彼は自らがどういう状態にあるかを十分に理解していて、どのような鉄の仮面を被ろうと目だけはどうやっても嘘をつけない事実を確と了承している。だから目をつむり、だから目を見られるのを避けたのだ。
ふざけるな、と伊織は怒っていた。どうして隠そうとするのか突っかかろうとしたが、すんでのところで先ほどの延寿の『後で詳しく話したいことがある』旨の発言を思い返して踏みとどまった。その詳しく話したい内容に、今のあまりに不自然な振舞の理由が含まれていなかったら、そのときに改めて突っかかろうと結論し、現状は沈黙に徹することにした。肩で息を整え、涙すら滲み始めた灰色の眼で睨みつけながらも。
「もう大丈夫です」
そう言って延寿が目を開けたとき、血のような落書きは既に無かった。
「それならいいんだけど。何か調子が悪かったりしたらすぐに言うんだよ。いい?」
「……はい」
「本当に言うんだよ?」
「分かっています」
真剣な様子の紗夜の言葉に延寿は渋々ながらも頷く。それを受け、紗夜はまるで素直じゃない弟を見るような微笑を少しだけ浮かべてすぐに押し殺すと、再び扉へと向き直った。抑えきれない充足に満ちたその顔は、延寿と伊織からは見えていない。
「じゃあ、開けるね」
延寿は、紗夜が扉を開けるのを待っている。
「……?」
ずん、と延寿の脇腹に軽い衝撃。見ると伊織が眉をひそめて睨んでいる。絶対なんでもなくはないだろ、とその不満極まる視線は述べている。延寿は無言で伊織から視線を外し、紗夜が開く扉の先の空間を見やった。もう一度脇腹に衝撃が加えられた。ほんの少し威力が増していた。沈黙に徹しようと伊織は思っているが、別に心配をかけられた不満を物理的にぶつけないとは言っていない。
脇腹に良いのが入っても、延寿は無言で開けられたサンルームを見ている。
幻は過ぎ去った。
今は現実を見ることが可能だ。
ならば見るべきなのだ。もう、どれだけの時間見ていられるか定かではない現実を。少なくともそのような懸念が起こるほどには、延寿は自身の身体的精神的な正常さを疑問視している。正常……正常とは? 管理された死をもたらされた細胞がシグナルを発し欠損した細胞を補うために増殖を促す機能を生得的に備えている人間を正常と云う、それと同義か? では正常ではないとは? 即ち異常とは? 死細胞があまりにも増殖を促し過ぎる機能を後天的に得てしまった、あるいは植え付けられてしまった哀れな人間を異常というのか? ならば俺は正常か? それとも異常か? 目の前で俺に微笑みを向ける女はその答えを知っているのではないか?
ずん、と延寿の脇腹に三度目の良いのが入った。
見ると、やはり伊織である。お前なにボーっとしてんだよ、といったジト目で見上げている。脇腹の衝撃は、延寿の脳裏に繰り広げられる抑制の効かない自問を押し黙らせてくれた。自問する延寿は確かに延寿であるのに、延寿にはその延寿が毒を撒き散らす害獣にしか思えなかった。倫理のない獣であり、正しからずの虫けらだ。必ず排除されるべき、歪だ。
「入ろっか」
微笑ましいものでも見るように延寿と、その脇腹に拳をめり込ませている伊織を見つめていた紗夜はそう言うと振り返り、自らが率先してサンルーム内に足を踏み入れた。