少女と無数の『虫けら』
紗夜は数メートル先を、背中からでも分かるほどに不機嫌に歩いている。のしのしと、お屋敷に住まう涼やかな令嬢とはかけ離れた豪傑のような歩き方だ。
廊下を通り抜け、エントランスホールに入った。一階へ向かう階段を降りる間中、彼女はやはり無言である。一階の絨毯を靴で踏みしめてからはおもむろに進路を変え、ホールの端にある大型の振り子時計へと向かった。二メートル以上はあるだろうか、その頃の私の背では大きく見上げねばならないほどの高さだった。
「時計」
時計の傍で私を振り返ると、紗夜はぶっきらぼうにそれだけを口にした。紹介だろうか。まさか紹介なのか? 時計の? 知っている。まさか私が時計なるものを知らないと思っているわけではないのだろうが。ここまで大きな置き型の時計は見たことは確かにないが……
「見たら分かる」
「特定の時刻になったら、ゴーンって鳴る」
「そうか」
「そのときの時刻の数字分、鳴る」
「ああ」
ちょうど時計の盤は、長針がⅫを、短針がIIIIを差そうとしていた。盤面はローマ数字だ。古めかしい容貌は古美術品という言葉で飾るのが相応しい。
「鳴る」
紗夜の言葉とほぼ同時に、時計が鳴った。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、と。確かに午後四時だから四回だ。
「どう?」
「はあ?」
どう、と尋ねられても、どう答えればいいというのか。
心に響き胸を打つような良い音だな、とでも返せばいいのか。それを四回も聞けるだなんて感動的だ、と両手を挙げて称えろとでも?
「違和感ない?」
「違和感……?」
「ローマ数字。4の表記が違うでしょ? その理由、分かる?」
問われ、時計の盤をまじまじと見た。IIIIだ。確かにⅣではないらしい。
「いや、分からない。どうしてだ」
「はんっ」
鼻で、笑われた……? 更には答えを言わず、紗夜は歩みを再開すらした。なるほど、これは仕返しか。さきほど無理に引き剥がしたのをよほどお気に召さなかったらしい。それとも今日彼女と会ってからの対話で蓄積した鬱憤晴らしか。
「この先がサンルームだよ」
一階の廊下の奥を指さす彼女からは、4の表記の違いについてなどもう消え去っているようだった。
「なんで表記が違うんだ」
「……知りたい?」
挑発的で挑戦的な瞳である。
心底から癪に障る……が、知りたいものは知りたい。
「知りたい」
「おっしえなーいっ」
こいつは……いや、彼女の腹立たしい無邪気さはこれが初めてでもない。ここで解答を明示されなくとも、後で自分で調べてみればいい。なにも彼女の口からでしか得られない情報ではないのだから。……果たして蔵書室に答えはあるのだろうか。あったとして虱潰しだ。この屋敷にネットに接続できる端末が一つでもあるのなら話は早いが……一つは紗夜のスマホか。もしもほかに端末が無ければ背に腹は代えられない、拝借するとしよう。
「……」
「……なんだよ」
歩き出そうともせず、黙る私を紗夜が不愉快極まりなく凝視してくる。
「是が非でも知りたい?」
「……いや、別にいい」
首を横に振り否定する私から、なおも紗夜は視線を外さない。その瞳は自分本位な期待に満ちているように思える。
「ほんとうは?」
「鬱陶しいな。さっさと目的の場所へ行ってくれないか」
私の言葉は、彼女の望んだ返答では確実に無いだろう。
「……うん」
すると、どういうわけか紗夜はしおらしく目を伏せると、「さすがにちょっとしつこ過ぎたね。ごめんね」と歩みを再開した。なぜだ。一日も経っていない付き合いではあるが、彼女ならそれでもしつこく『知りたいでしょ?』と繰り返しそうなものなのに。
「なあ」
歩む紗夜の背中に声をかける。
「なに?」
振り返る彼女は、やはりどこか悄然としている。
「やっぱり気になる。なんで4だけ表記が違うんだ」
調子が狂うな、と私は思っていた。だから声をかけた。歩み寄った。今ここで聞かなければ後の手間となる。今ここで聞いていればすぐに済む話だ。一時の恥を拒み一生の恥としようなどは、それこそ愚の骨頂だ。
「……!」
「……」
瞬間だ。一瞬で紗夜の表情が明るくなった。
「やっぱり知りたいんだ!」
「……ああ」
しょうがないなー、とやれやれとばかりに紗夜がにやつく。知りたがり屋さんだなー、と私を流し見る。苦虫の噛み潰しっぷりが板についているね! と快活に笑う。ずいぶんな高揚っぷりだ。後で調べるべきだった。彼女を調子に乗らせるのと比べればそれぐらいの労力は些事だった。判断を誤ったのだ。一時の恥を拒もうとも、それが一生とのものとなるまでにはいくらでも知る機会は訪れるだろうに……だが、もはや遅い。知りたがり屋の烙印は既に押されてしまった。
「はっきりコレ、という説はないみたい」
「ああ?」
勿体ぶっておいてそれか。ふざけているのだろうか。
「諸説ある、ってお父さんが言ってた。当時の王様が縁起悪いから表記変えろオラァってわがまま言ったとかバランスがどうこうとかなんとかそういうのなんだってさ」
適当に解説……とすら言えない放言をすると、紗夜は歩み始めた……かと思うと振り返り、私を見る。後ろに手を組み、少しく首を傾げ、
「分かってはいたけど、きみって好奇心の塊だね」
私といっしょだ、と紗夜の笑みが続く。
「でも好奇心は猫に殺されるよ」
「猫は殺される側だろ」
そうだったね、と紗夜は振り返ると、歩む。
「ほら、着いた」
廊下を行き、突き当りには蔵書室と同じ意匠の両開きの扉があった。『サンルーム』というそのままの名称のプレートが掲げられている。
「私のお気に入りの部屋の一つなんだ」
自身のマスターキーを取り出し、紗夜がサンルームの扉を解錠する。
「ガラス張りでね、すっごく光が差し込む部屋」
ノブを両手で掴むと、にやりと紗夜が私を見上げた。
「開けるよ……心の準備は良い?」
「そう構えないといけないような場所なのか」
「あまりにも光が満ちた部屋だから、きみ、大丈夫かなって」
「どういう意味だ?」
純粋な疑問だった。言葉の意図がつかめなかったのだ。
「きみ、光に弱そうだから」
「はあ?」
「太陽の光を浴びると燃えちゃいそう」
「冗談で言っているのか」
「薄暗いところで人知れず悪い研究してそうな眼をしてるし……」
どんな眼だ。とそのときの私は考えていた。
今、鏡を見てみれば、どんな眼なのかがすぐに出てくる。
「きみはきっと闇属性だ」
「はあ。そうか。さっさと開けてくれないか」
「死んじゃわないでね」
「死ぬわけないだろう。俺は長生きするつもりなんだ」
「ふふ、そうだったね」
私の返答が気に入ったのか、満ち足りた笑みを彼女は浮かべ、ふふんっ、と自慢げな鼻息とともに両開きの扉を押し開けた。
「……確かにな」
なるほど確かに、光が満ち満ちている。
全面、ほとんどがガラス張りだ。壁が、大部分の天井が。すっかりと外の景色が透けている。曇りもなく、汚れもない、透過された外景はあまりに澄んでいた。花壇がガラス越しの庭に見えた。土に一本のシャベルが突き立っている。
今は日中、けれども夕暮れとの境目だ。朱色の光が満ちてきて、黄昏の空間が出来上がりかけている。広さも、奥行きがある。単純な面積だけで見るなら客室の数倍はあるだろう。談話室ほどだろうか。白で揃えられた椅子とテーブル、更にはソファが置かれていて、天井の桟が影となり床の上に延びていた。
「ここは、何のための部屋なんだ」
「んー、賓客の皆様といっしょに歓談するための部屋かな。普段は私ぐらいしか使わないんだけどね」
部屋の奥側には、真っ黒なグランドピアノが一台。自分が部屋の主なのだとばかりに堂々と構えている。誰かがあれを弾き、賓客とやらの聴覚を潤すのだろう。使用人か、涯渡氏か、著名なピアニストでも呼ぶのか……それとも、
「きみが、ピアノを?」
紗夜へ問う。彼女はその問いを予想していたように、すでに私を見ていた。
「うん。何か弾いてあげようか?」
どんな曲をご所望で? と紗夜が私の瞳を見上げ、くすりくすりと微笑む。
「いや、いい。詳しく知らないんだ。知らないものをリクエストなんてできない」
「んー……そっか。きみが知ってそうな譜面か……カエルの歌とかかな」
知ってる? と紗夜。
それなら知っている、と私。
「よしきた」
「その必要はない」
「えー?」
「わざわざここでカエルの歌を弾いてもらい、いったいそれが何になるというんだ。きみは面白みのない曲を弾き、俺は興味のない曲を聴く羽目になるだけ。時間の無駄だ」
「えーーー? 何か弾かせてよー」
「なら、好きに弾けばいいだろ」
私の言葉に紗夜は、お任せというわけだね、とピアノに駆け寄ると、客席へ向けて恭しく辞儀をし、座った。ふう、と深呼吸をひとつして、五指を鍵盤の上に置き、ペダルに足をかけ────弾く。始まりに音が忽然と響き、悠然と伸び、彼女の左右の手が、五指が、慌ただしく鍵盤を流れ、旋律が過ぎてゆく。にごりのない音の波が、夕暮れに満ちたサンルーム内を響き、消滅し、再び現れ、交錯し、立ち消え、騒々しく現出し……どれぐらい経っただろうか、数秒のようにも思える数分が経過したところで、やがて音は緩やかに力を失い、彼女の指が────止まる。響きは減衰し、音の波は完全に消失した、ところでようやく、紗夜は真剣な様子でこちらを向き、表情を微笑みに崩した。
「これは……」
何の曲かは分からない。聞いたことはある気がするが、それだけだ。
「即興曲第4番、『幻想即興曲』とも呼ばれてるね」
「あ、ああ……」
ピンとこない。
「……ショパン、は聞いたことあるかな?」
「その人ならある」
「即興曲のひとつなの。あんぷろんぷちゅ。可愛らしい響きだなっていつも思うの」
彼女は椅子から立ち上がり、私のもとへと近寄っていた。
「よく、弾けるな」
率直に感想を述べると、
「すごいでしょー?」
誇らしく、紗夜は目を細めた。「今が静かな真夜中なら『月光』にしようかなと思ったけどね。寂しい夕暮れだったからこっちにしたんだ」
「習っているのか」
「うん。お父さんは私に、芸術と学識に富んだ娘になってほしいみたい」
そういうと、芸術と学識を待望される彼女は行儀悪くもテーブルに腰かけ、私に向けて足を組んだ。
「美術館で鹿爪らしく絵画を鑑賞して目を肥やし、霊験溢れる音楽を聴いて耳を潤し、ピアノの旋律を十の指と二本の脚で自由自在に操って、あらゆる学問に精通し、推察と検証、実験、実証により世の中に貢献し、いろんな人たちと交流し、常なる優秀さで物事をほしいままにする……つまり、万能だよ。敬愛なるお父様は愛娘に、あらゆる面において最高水準の人間であってほしいと望んでいる」
「欲張りだよね」と紗夜は視線を伏せた。
「それだけ期待されているんだろう。光栄なことじゃないか」
「そうだけどさ……親はみんな、自分の子どもには立派になってほしいものなのかな」
「そういうものじゃないか」
「そうかな。まあ、楽しいからいいんだけどね」と紗夜は眉尻を下げた。
「親のいない俺の答えで、きみは満足できるのか」
「できるよ。きみの答えは私にとって価値があるから」
そう言う紗夜は床を向いたままで顔には笑みがなく、無表情に近い真剣さを帯びていた。
「ねえ槐くん……夜に、このガラス張りの部屋の電気を点けると、どうなると思う?」
ゆるりと私へ向き直り、神妙に紗夜が言う。それは彼女にとって何某かの意味を持つ質問だと、その表情は語っていた。そう見えたのだ。
「さあ。どうなるんだ?」
「蛾がいっぱい寄ってくる」
「……そうか」
「森に囲まれているからなおさらだよ」
「そうか……」
錯覚だったようだ。
「ガってさ、種類が多いんだよ。何千種類もいる。見たことのない色んなガが、ガラスの向こうにたくさんいる」
「気分が悪くなる」
「まあね。槐くんはさ、ガラスの向こうにたくさんいる、こつんこつんと透明な壁の存在を知覚できずにぶつかりつづける色とりどりで大きさ選り取り見取りのガに関して、そこにガがいるとは意識しても、それらがどんな名称の、どんな生態のガなのかまでを知ろうと思う?」
その言葉で、私は紗夜の言わんとすることの断片が何となく掴めた。それは彼女へ私が抱いた印象であり、彼女自身もまたそんな自らに気づいていたようだ。
「きみにとって、ガも人間も、同じ立ち位置なのか」
私の言葉に、紗夜はにこりと完璧な笑みを見せた。笑みとしては、完璧、なのだ。対外的にどうすれば相手が笑みと感じ得るか、そのための要素を十全に揃えた、それは笑顔だ。空に笑んでいる。苦労を要さない日々を送る人間の、愛想の良い冷嘲だ。皮肉で評するならそうなるだろう。実際のところがどうかは知らないが。
「気が早いなあ。話は最後まで聞こうよ」
言葉の途中で彼女の笑みは崩れ去り、不満そうな視線が私を刺していた。
「誰だってそうでしょ。ガ博士ならともかく、誰だってたくさんの種類のガがいたとしても、あるなあとは思うけど、それ以降には興味が進まない。関心が起こらない。ガに限った話じゃないよ。道端の石ころがどんな組成で、どういう名称を持つのかとか知りたいという気持ちは出てくる? 視界の端っこに生えている雑草がどういう分類のなになのかを知りたくなる?」
「興味の有無で変わるだろう。個人の嗜好次第だ」
「きみは?」
「現状、そこまではならない」
「ふうん? 現状、ねえ」
にんまりと、探るように私を眺めると、
「心を奪われないと何にだって興味を持てないんだ。誰だってそうだよ」
浮かべている笑みが倦んでいた。退廃的に目じりをさげ、ガラスにぶつかるガを眺めるように、道に転がる石を見下ろすように、端に生える雑草を見捨てるように、紗夜が私を見ている。ああやはり、それがきみの本性か。にこにこと無意味に笑んでいるよりも、そのほうが私にとってはずっと好意的に思える。
「魂に触れてくるようなナニカでなければ、いけないんだ」
「ないものにどうやって触れる」
「むぅ、たましいあんちー」
たましいあんち……魂アンチか。
彼女は気づいてすらいないだろう。夜間、光に惹かれるのは何も蛾ばかりではない。彼女は己が興味を抱いていないガ以外に、知覚すらしていないその他の虫けらがいることをそもそも見てすらいないのだ。
「きみが心を奪われるような何かを見つけられるといいな」
彼女にかけたこの言葉に、感情も情緒も込めていない。
「ひょっとするとそれは、きみかもね」
からかうように紗夜が微笑む。
「願い下げだ。俺はガのままでいい」
返したのは本心だ。
「あはっ、謙虚だねえきみー。ふふふっ」
と紗夜が声をあげて愉快そうに笑う。静けさよりも騒がしさに寄っている笑み。初めて見る表情だった。笑いながらも彼女は再びピアノに近づき鍵盤蓋を閉めると、視線はそのままに笑みが消えた。いや、消したのか。
「……私はね」
唐突に満ちた静寂に、紗夜の声だけが響く。
「私は、最期は行方不明になりたいんだ」
「いきなりなんだ」
「私は死体が残るような終わり方をしたくない。痕跡なんて残さずに、汚くて臭い肉の塊なんて遺さずに……どこかへ消えたい」
紗夜の視線は、蓋を閉められて隠れた鍵盤を見下ろしている。
ピアノに語り掛けるように、彼女は喋り続ける。
「演奏を止めたら音は消える。搔き消えて、この世からなくなる。減衰した末に消滅する。それが羨ましい。自分が死んだ後も自分の体が残るのって想像するだけで嫌になる。放置されれば腐っちゃうし、蛆だってわくでしょ。それが嫌。音の波みたいに、綺麗に消滅したい」
「死にたくないのか」
口にして、彼女の言葉の本意からズレていると自覚した。ただ、私自身の奥底が推察の表情を浮かべながらにじみ出てきただけなのだ。
「ううん。そういうことを言っているわけじゃないよ。死ぬなら死ぬで良い。だけど、私が終わった後に、私だった肉体が一片も残ってほしくないだけ」
そこで紗夜は口をつぐみ、私へ向き直った。
私もまた、彼女の視線を真っ向から見据える。
にぃ、と彼女の眼が猫のように細められた。
「……初めて会った日に言うには、少し重い話だった?」
「胸焼けする」
「ふふふ。恐れ入ったか」
なにがだ。
「さあ、もう出ようか槐くん。次はどこへご案内されたい気分?」
「どこでもいいよ」
「え、あの塔に行ってみたいって言った?」
「ああ。そう言った」
あははっ、と紗夜がさきほどの笑みを、再び。楽しげだ。
「このまま、外に出よっか。外履きのままだよ、ね。うん。よし出よう」
サンルームから直接庭へ出られる扉を開け、私たちは庭へと出た。
花壇の傍の土に、先ほども見えた園芸用と思われる柄の長いスコップが刺さっている。
「あ。片付けるの忘れてた。まいいや、後で片付けよ」
と、紗夜がずぼらな独り言をこぼし、屋敷正面の門から見えていた塔を指さした。
「あそこだよ」
「何のための塔なんだ」
「ん、テラス。上れば森が一望できるよ」
とのことだ。
塔へ近づくほどに、その全貌がより詳細となってきた。外観は屋敷と同じく白を基調としていて、屋敷本体とは繋がっていない。屋敷からは一度外に出ないと来れないようである。
外周をぐるりと階段が回っている。塔内ではなく、塔外を上り屋上のテラスまで行くようだ。テラスから森を見渡すという目的だけなら、塔の扉を開く必要はなく、ましてや入る必要もない。
ならば、この塔の内部はどうなっているのだろう?
内部が存在する意味はなんだ?
「塔の扉は開けられないんだ」
そう、紗夜が言う。
「開けられない? これでもか」
と、私はマスターキーを示すと、
「無理だよ。私のでも無理」
そうか、と空返事で私は塔の扉、その鍵穴へとキーを差し込む。なるほど確かに回らない。というよりも入りすらしない。専用の鍵があるのだろうか、と扉周辺を見ると、ちょうど私の視線の高さに、白色の長方形の端末のようなものが取り付けてある。下から手を差し込めるだけの隙間が空いているらしい。なんだこれは、と当時の私は疑問に思っていた。
「いま自然な流れで私の言葉を信用しなかったね」
ふーん、と紗夜が半目で私を見ていた。
「自分の眼で見たものだけが真実なものでね」
返した私の言葉は、紗夜をニマリと微笑ませた。どこか意地の悪い笑みだ。
「それじゃあきみにとっての真実は狭いままだよ。他人の語る言葉を許容しないと、世界は中々広がらない。自分の眼だけだと、限界がある」
「それだと虚構が混じるだろう。真実とは即ち、一片の嘘も混じっていない最高純度の現実だ。俺は混じり気なく生きたいんだ」
「ケッペキだね、きみって」
ケッペキ。潔癖か。
「ありもしないものを、信じたくないだけだ」
塔の扉は開けない。私にも、紗夜にも。
故に得られる自明の結論は、こうだ。
当時の私たちには、この場所は早すぎた。