お屋敷(夕方)
204号室の窓からは藍色の夜が混じる夕暮れが見えた。
部屋の片隅に私物を置き、ふかふかのベッドに座らず椅子にも腰掛けずソファにも埋もれず、延寿は窓から数歩離れたところで佇んでいた。
視線は窓の外に迫る夜に向いている。
室内は薄暗い。電灯はつけていない。
物置に放置された彫像のように、延寿は薄暗い部屋の中で言葉を伴わず空に混じる夜を見ていた。思考は幼なじみの少女の行方を、姿を、安否を……探し、思い、案じている。
「……」
無事でいてくれたら良いと思い、同時に少女の変わり果てた姿を幻視する。彼女の死体は煩わしいぐらいに鮮明な画として脳裏に描かれた。
「……」
花蓮は……少なくとも彼女らしき誰かは、眠るように瞳を閉じており誰かの手に支えられている。おやすみ、と告げて眠り、そのまま遂に起きなかったみたいに。日々の延長線上に花蓮は生に背理し、死の永遠性を得たのだ。延寿の脳裏に画が焼き付いている。焼き付いた画が浮かび上がっている。赤い落書きのごとく、俺にしか見えない幻が視える。彼女の死体は、幼い彼女の死体を誰の手が支えているのだろう。支えるその手は誰の諸手だ? 夢の中で俺を突き落とす生きている彼女は、どうしてあんなにも悲しそうに俺を見下ろしていた? きみの行いは間違っていなかったというのに……どう、間違っていなかったんだ? 霧散した夢は、自問の答えを持ち去ってしまっていた。
「……っ」
所詮、は、夢、だ。幻覚、だ。
「……ッ」
止め処なく溢れ出す思考を潰すには、やはり脳を潰すしかないのだろうか。
煩わしい発想をすり潰すには、生じさせる器官を磨滅させてしまえば……それは脳か、意識か、心か、魂か……。脳は現に在る。意識も有する。心は、ありはする……精神機能の換言として。魂は…………無い。
ただ、そんなものをどうしても発見したければ、機能を総称すればいい。脳を意識を心を、それらの機能をまとめあげ、抽象化し漠然と視界をぼやけさせ、すれば出てくるのではないか、魂などという、幻の物質の姿が。
魂が思考させ、
魂が自我を作り、
魂が感情を動かすのか?
下らない、
下らない、
下らない。
魂を見せてくれれば理解しよう、俺の頭は遂に狂気に蝕まれ切ってしまったのだと。見せられないのなら、それはありもしない嘘だ。魂の実在と云う至高のご賢慮を煩わせたというのに、理解も受容もできず申し訳なく思う。傾聴を心掛けたが、どうも俺自身の熱心さが欠けていたらしい。不肖ながら興味が続かなかった。道端の石ころに興味を抱き続けろ、というのも難しい話だろう?
「……ッ!」
わずかとは言えないほど深々と眉をひそめ、延寿は有毒な考えをタガが外れたように提供してくる自身の脳の処遇を一考し、大きく首を振り、すべてを振り払った。
次々に、思考が熾る。燃え盛り、燃え上がり、燃やし尽くすほどの勢いで考えが生じ、鎮火する。自分としか思えない誰かが、脳裏で怒り狂って高揚した挙句に喚き散らしている。
いつから自分はこうだったのだろうかと思うも、答えが見えない。『案内人』による連続殺人を主とするストレスによる精神的疲労なのだろうかと考えるも、事実そうなのかは断定できない。楽観しようと、悲観しようと、答えを得られない現状においては意味を持たない。幻惑が熱毒のように起こり続けるのなら、そのたびに振り払ってしまえばいい。振り払い続ければ、いずれは消えよう。消えてしまえ。
「…………」
無音に包まれた室内に、延寿は銅像のように沈黙していた。
脳裏に次々と沸き起こる意思を振り払い、磨り潰し、押し流し、黙していた。
すると、だ。
こん、こん、と。
控えめに扉を叩く誰かがいる。深いしわの刻まれた視線が、扉を向く。
「……どうした」
答えるも、誰のノックかは分からない。
「開けるぞ」
扉の奥から聞こえる声は伊織だ。ならば伊織である。
無言で睨みつける先の扉が開かれ、て、
「やっほう延寿くん。お屋敷内を案内してあげよっか」
首を出したのは、しかし紗夜だった。にっこにこの笑みで屋敷内の案内をかって出ようとしている。
「伊織は」「じゃま」「あ゛ー」
伊織はそこにいますか、と尋ねようとしたが言葉の途中で当の伊織が紗夜を両手で押しのけて姿を現した。紗夜は、あ゛ー、と押しのけられた。
「うわくっら……電気つけろよ」
いよいよ暗くなりゆく室内を目にし、伊織がそう吐き捨てる。「つけるぞ」点けられた。室内が電灯に照らされた。
「完璧な清掃でしょ。ほこり一つ、血痕の一つだって見当たらないっ。さっき車を運転してくれていた上分さんが、それはもう掃除を綺麗にする人でね、お父さんのころから涯渡家で働いてくれていた方なんだっ」
両手を広げ、冗談を交えた満足気な笑みを紗夜が浮かべる。
「血痕て。僕たちがこの屋敷に来る前に、ちょっくら殺人でもしたんでしょうか、生徒会長サマ?」
「うふふ」
伊織が切り返した冗談に、紗夜はにんまりとした笑みだけで応える。見るからに先ほどの血痕云々の発言は冗談なのだと態度でもって示している。ならば冗談なのだ。
「もう少しで真っ暗になるんだけど、ちょっと私の案内がてら散歩をしない?」
もう一度、さきほどの提案を紗夜。
「構いませんが……他の人たちは」
延寿が問うと、紗夜がつまらなそうに首を横に振った。「ううん。椿姫と亜砂美ちゃんは自分の部屋でゆっくりしたいらしくて、冬真くんと汐音ちゃんは声をかけるに忍びなくてさ、釣れたのは伊織くんだけ。延寿くんは最後」
釣れたってなんだよ、と伊織がぶすくれている。
「ほらさっさと鍵もって行くぞ」
そう伊織は机の上の鍵を手に取り指に引っ掛けて回そうとし、
「あっ」
伊織の指から鍵が転がり落ち、机の下に入り込んだ。
「俺が取る」
伊織が動くよりも早く屈み、延寿は鍵を取ろうと手を伸ばし……「……?」机の脚の内側に、赤黒い跡を見つけた。飛び散ったかのように点々と、それらは付着し、染みている。点々と、文字のように、文字を形作っているかのように、いやこれは……文字、そのものだ。赤く、黒く、血のような色合いをした……やはり乱雑としか思えない配置のアルファベットと数字と……(ト、に……生? な、い)それ以外が僅かに混じった……
153トに
C5H6N2O21692
5616C5H5N5
1C5H5N5
生C5H9NO4ない。
しかし、意味は読み取れない。血のような落書きは、これまでと同様に意味があるとは思えない。わずかに違うのは、そこにひらがなとカタカナのようなものが混じっている、ということだ。以前とは違い、読み取れているのだろうか、だとしたらそれは何故? 何をきっかけに……
「延寿くん、どうしたの?」
それに、だ。
これは、どちらだ?
幻として視える、赤い落書きなのか。
現実のものとして机の脚に付着し酸化した、誰かの血痕が文字のように見えるだけなのか。
信用のできない視界に映っていては、どちらかに断定できかねる。
「ぎっくり腰?」
そこで初めて、延寿は自身が不自然に動きを止めているのを自覚した。心配そうな様子の紗夜に尋ねられていて、伊織の怪訝な視線を受けている現在を知った。
「いえ、なんでも」
立ち上がり、訝しげな表情を浮かべる伊織と不安そうな紗夜へ、いつも通りの鉄の表情を返した。なんでもない、という旨を示した。
延寿は、今自身が見たものについて口を閉ざすことに決めた。少なくとも紗夜には、だ。
「なら行くけど……腰痛めたのなら正直に言うんだよ? 腰痛って長引くとか言うから」
「大丈夫です。いたって俺は健康です」
紗夜の心遣いに、ぶっきらぼうに返す。
幻を視る人間は、果たして健康と云えるのだろうか……言いつつ、そう心の中で自嘲した。
「……」
伊織は、無言だ。何かを考えている様子でもある。
紗夜が先導して廊下に出て、延寿と伊織は歩き出す彼女について行く。向かう先を、紗夜は口にしていない。何処へ行くのだろうとも思うが、今はそれよりも、さきほど見た衝撃に関してだ。
「……おい」
あれは、血痕。血の跡だった。冗談ではなかったのか。なら、誰の血だ。
しかし、落書きの幻覚の可能性もある。もう一度、確認すべきことだ。
「おいって」
小声で、伊織に小突かれる。まるで前方の紗夜に聞かれまいとしているかのように。紗夜は数メートル先を、背中からでも分かるほどに上機嫌に歩いている。
「お前、何か見たのか。停止してたぞ、さっき」
「……」
紗夜には口を閉ざすと決めた。
ならば、伊織へはどうすべきだろう。先ほどの血痕を自らが確認したとして、もう一度幻覚を視ていたら、それは答えと云えるのだろうか。云えるはずがない。幻覚を視た確認をしようとして、もう一度幻覚を視るだけだ。正常な者に、頼む必要がある。
「……」
「じ、じっと見んなよ。なんかしゃべれよっ」
正常で、信頼のおける者に。
「…………血の跡があった」
考え、延寿は言うことにした。
誰かの血痕があった。夥しいとは言わないまでも、ちょっと指を切ったほどでは出ない量の血液が染みていた。すなわち、誰かが血を流したのだ。血を流すような事態があったのだ。あの部屋、204号室内で……かもしれない、がこの思考の末尾すべてに付く。あれが落書きの幻覚ならば、血痕など無かったということになり、204号室内で血を流した者はいない。ただ、幻覚を視た異常者がいただけだ。
「それ、マジなのか」
「……ああ」
ちょうどそのタイミングで、少し先にいた紗夜が振り返った。二人の会話など聞こえていないかのように、その表情にはいつもの彼女の笑みが満ちている。
「サンルームに行ってみよっか」
延寿も伊織も何事もなかったかのように頷き、向かう先はサンルームに決定した。
サンルームを見た後にでも、伊織へ伝える必要がある。赤い落書きの幻覚について、と、もう一度、204号室内の血痕を見たいという旨を……延寿は隣を歩く伊織へ向き、
「後で、詳しく話したいことがある」
「ひぁっ……!?」
近寄り、そっと小さく耳打ちする。伊織の身体がびくんと跳ねた。
「お前、いきなりッ……!」
ばし、と延寿は肩を叩かれた。
了解した、の意だと延寿はその照れ隠しを受け取った。