『故郷に辿り着いた者』と故郷に待っていた者
「鍵は部屋の中の机の上にあるよ」
204号室の扉を開け、部屋の中央に鎮座しているのが見える机を紗夜が手のひらの先で示した。確かに机上にはタグ付きの鍵が一本、無造作に置いてある。
「涯渡さんにマスターキーをもらった」
だから不要だと、私はマスターキーを取り出した。
私の手元を認めた紗夜が「きみも貰ったんだ」と私の持つそれと同じ形の鍵をポケットから取り出した。それもまた、この屋敷の(ほとんど)すべての扉を開けられる鍵だ。
となれば、マスターキーは二本あるのか。最低でも、二本。
「んーなら個別の鍵は要らないね。ま、インテリアとしてでも置いときなよ」
適当なことを紗夜は言い捨て、「まずは入ってみよーそうしよー」と私の背を押し、204号の室内へとぐいぐいと押し入れる。
押され私は眉をひそめながらも入室した。
真正面の窓はすでに開かれており、開かれた扉という通り道を新たに得て吹き抜ける風が真っ白なレースのカーテンを膨らませている。窓ガラスの占める割合は大きく、光が存分に部屋の中に落ちている。壁際には空の本棚があり、書き物机が置かれており、奥にはベッド……こじんまりとした部屋だった。屋敷の広さに比べれば、というものだ。私が今まで過ごしてきた家々と比べれば遥かに広く、そうして清潔だ。
「シーツとかは、お手伝いさんたち……さっきの上分さんに、あと清身さんって人を中心とした人たちなんだけど、その人たちが今ちょっと干してくれてるんだ。あとで持ってきてくれると思うけど、すぐに欲しいなら自分で取りに行ってね」
ふかふかだよ、と紗夜。
「本棚だって、好きに使いなよ。蔵書室から好きなの持ってきてもいいし、自分で買っても良い。この部屋のすべてがきみの自由。きみのお部屋だよ、よかったねー」
大きな屋敷の、小さな部屋。
私はもう、ここの住人なのだ。
何度目かの、新しい故郷となる。
「心配しなくても、きみはここでうまくやっていける」
見透かすような瞳を、紗夜が私へ向けていた。
「現にさ、私はきみの暴力的なところを見ていない」
涯渡氏から事前に聞いていたのだろう。
事実として、過去として、私はこれまでの故郷において反抗的で、暴力的な態度をとっていた。なぜ、だったか。書割のような彼ら彼女らとの会話が、生活が、日々が、途方もなく私自身の生命を浪費し、残された時間を損失している感覚を覚えていたからだったか……焦燥か。だというのにどうしようもなく、どうかする力も持たず、何様かと思うような傲慢さでもって、私は不安を怒りへと変換していた。
「まだ、かもしれないだろ。俺がここへ来て初日だ」
「不愛想だし口も意地も悪いけど、きみは暴力を振るうような人間じゃないよ」
「実際に振るってきた人間への言葉じゃない」
「理由があったんだよ、ひどいことされたり言われたりしたとか、誰かを助けようとしたからとか……あとは、何も得られない彼らとの煩わしい時間に怒ったから、とか」
「思い上がりも甚だしいな」
「きみはそういう人間だよ」
薄笑みで、紗夜が断言する。
「きみだってそうだ」
売り言葉に買い言葉で、私は言い返す。
不思議と怒りは湧かなかった。そういうものだと腑に落ちもした。納得したのだ。振るった拳の感触を覚えている。向けられた恐怖と嫌悪と侮蔑の入り混じった目を覚えている。増幅する負の感情の実感も、抑圧の効かない憎悪に振り回される自覚も、頭の中に残っている。
だというのに、この屋敷内ではそれがない。
紗夜の言葉と動作に不快感こそあるときもあるが、だからといってそれまでだ。
「ここは、おかしいでしょ?」
両手を広げて顔をあげ、見下ろす者の傲慢さで紗夜がにこやかに私へ視線を注ぐ。「きみが今まで過ごした故郷とは異質な場所」
「きみは生まれながらに平凡になれない人間なんだよ」
眩そうに、紗夜が目を細める。「神さまがそう決めた。だからこれは運命。運命に流されて、きみは過去の故郷に暴力を振るい、辿り着くべくして現在に辿り着いた」
人の造り上げた神を崇める敬虔さはない。
不定の足跡へ運命と名付ける夢見る子どものような期待もない。
「ようこそ、槐くん。私たちのもとへ」
迎え入れるように、抱擁を求めるみたいに紗夜が私へ近づく。
「きみはようやく自分の居場所に辿り着いたんだよ」
私の背中へ手を回し、彼女はゆっくりと力を籠める。
「おかえり、槐くん」
間近に、泣きぼくろの細められた瞳が私を見上げていた。
「私はきみの魂を待っていた」
魂など無い。
「離してくれないか」
「やだ。そろそろ離そうと思っていたけど離してとか言ってきたから離さない」
戯言を並べる紗夜の肩を掴み引きはがした。
案の定、不満そうな表情がそこにはあった。
「次は、どこだ」
「んー? 無理矢理に引きはがされたからちょっと耳遠くなったかもなぁ」
聞こえているのに聞き返してくる。
うんざりするが、屋敷内を知りたいと思っている自身がいるため抑える。私は、私の故郷を知りたくなっているようだ。
「次はどこだと聞いている」
「さんるーむー」
サンルームとのことだった。
無言の手招きで着いてこいとジェスチャーする紗夜の後に続き、私は204号室を出た。向かいには208号室、紗夜の私室だ。あとはすべて空室だ。それらの部屋に誰かが入る日は来るのだろうか、とふとそんなことを考えつつ、私はずんずんと不機嫌さを顕わに歩みゆく紗夜の背中へ視線を向けつつ、ともにサンルームへと向かった。