行年18歳と『享年0.04秒』
「ヒトの瞬きって何秒ぐらいだと思う?」
屋敷のエントランスホールの中央、運が極めて悪ければ落ちてきたシャンデリアに潰されるだろうところで急に立ち止まった紗夜の口から出てきた言葉がそれだ。どうにも彼女は足を動かすよりも口を動かす方を好むらしい。
「0.2秒」
対する私の返事は反射で、まったくの勘となる。答える合間にパチパチと瞬きを二回、どちらも一秒には遠く満たない短さと捉える。感覚的に一秒の半分以下なのは確実だ。そのまた更に半分、よりも少ない。0.2にすら満たない可能性もあるがまあいいだろう。精確を求めるなら然るべき機器で測定すればよく、現在において精確な数字は重要視されていない。何秒だ。
「うん」
小さく頷く彼女は、それだけの返事。いや返事というよりも相づちだ。彼女の口から出てくるべき解が出てこない。
「合っているのか」
「え、知らないよ?」
……問いには答えが用意されて然るべきでは。
ただ聞いたのだろうか。ただ聞いたのだろうな。特になにも考えず、そのとき思いついた質問を思いついたままに彼女は放ったのだ。勘で答えた私と同様ではあるのだが、出題者としてそれはどうだろう。
「ただ、聞いただけか」
「そうなの」
そうなの、ときたか。私が欲しかったのは肯定ではなく否定から連なる解答なのだが。
「槐くんと何かの会話したいけど特に何も思いつかなかったから……ふふ、たーだね、なんとなくね、聞いただけっ」
花が咲くような笑み、とは今の彼女を指すのだろう。満面で無邪気で、腹立たしいくらいに能天気な笑みだ。
即ち、先ほどの問いかけはコミュニケーションの一環だと彼女は述べている。素晴らしい友情を育む為だけを一義的な目的として繰り広げられる対話として、問いの解など不要だと削り取ってまで。質疑において最も価値を持つ解すらをだ。価値ある解を欠いた質問は、つまりは無意味だ。彼女は無意味な時間をたっぷりの愛嬌で私へ提供してくれた。
「まあ個人差はありそうだし? だいたいそのぐらいなんじゃないかなとは私も思うけど……どうしたの? 上なんか見上げて」
「シャンデリアが降ってはこないかと考えていた」
「え、どうして?」
「きみが潰れるだろう?」
「潰れてほしいの!?」と吃驚する紗夜へ、「冗談だよ」と言葉を供える。眼前の義姉へ死を望んでいるわけではなく、解を用意していない不毛な問いで無意味な時間を提供してくれた彼女へ向けた単なる意趣返しだ。
「そんなに瞬きの正確な秒数を知りたかったんだね……ごめんね。期待してくれたところに徒にお茶目さを出しちゃって……」
「いやいい。そんなもの知ったところで何になるという話だ」
「何にもならないねー」
あはは、と愉快そうに笑い、笑い、紗夜は言う。「けど私はそのなんにもならなさが好きなんだけどね。生きる上で必要な退屈な諸々より、不必要で使い道に悩むような知識の群れが」
「そのきみが好ましく思っている不必要で使い道に悩むような知識の群れへ加わるような解を用意せずに、俺へ問いかけたのは何故なのだろうな」
「言ったでしょ。槐くんと何かしらの会話がしたかったんだって。だから今のは質疑応答じゃなくて会話の一環だよ」
「会話が下手だな」
「かもだけど、きみに言われるとちょっとカチンとくるかなぁ」
不満を表明する細さの目で、紗夜が私を見る。
「それにだめだよ、シャンデリアに潰されろだなんて物騒な冗談言ったら。槐くんだってたった今会話している相手が原型留めなくなる瞬間なんて見たくないでしょ。一生のトラウマものだよ」
言いつつも紗夜は視線を上へ向け、シャンデリアの落下予測地点を推し量ったかのように立ち位置を少々変えた。「えっとね、コズミックカレンダーというものがあるんだって」そう、シャンデリアにかろうじて潰されない箇所にいる紗夜が人差し指を立てる。
「宇宙の始まりから現在までを一年で表したカレンダー」
宇宙。現在に至る。
「へえ。どのぐらいの長さだ」
「138億年ぐらいだったかな。気の遠くなるような長さだよねえ。80年そこらの寿命しかない私たちからすれば充分すぎるぐらいに永遠だよ」
私たちの生はかろうじて100を超え、1000など不可で、138億年など夢のまた夢、永遠と言い換えられるほど、億の年月に私たちヒトの手は届かない。
「その中だと、ヒトの寿命はだいたい80年とすると……えっと」
小首を傾げ思考を巡らせると、「あーっとね、1年が138億年だから……」
「れーてん……れいてん、うう……ちょっと待って」
計算に難渋しているようである。「こういうときは文明の利器に頼るべきっ。ついてきて槐くん」
「どこへ行く」
「私の部屋。スマホ充電中」
と、紗夜が歩き出そうと一歩、二歩、「あ、槐くんはスマホ持ってない?」立ち止まる。
「いや……、持ったことがない」
「へー、それなら今度お父さんといっしょに買いに行こうね。便利だよ」
再び紗夜は動き始め、階段をエントランスホールの二階へと上がる。廊下を行くと、両側に規則的に並ぶ扉達が現れた。各扉には簡易なプレートが備え付けられており、左側に201、右側に205と刻まれている。すると207号室の扉が不意に開かれ、一人の女性が出てきた。黒いドレスに、真っ白なエプロンというクラシックな服装をしており、それが彼女のこの屋敷内における立場を如実に示している。
「あっ。上分さん。掃除中だったんですね」
上分と呼ばれた使用人は「ええ、お嬢様」にこりと紗夜に微笑み、次いで私へ視線を向け、やはり笑む。
「あなたが由正様ですね。お話は伺っております。どうぞ、よろしくお願い致します」
言葉少なにスカートを摘むと膝を軽く曲げ、上分は辞儀をした。
「カーツィって言うんだよ」
紗夜が耳打ちする。
初めて見た膝折礼に私は戸惑うばかりで、紗夜はにこやかにありもしないスカートの裾をつまみ、礼を返していた。
「よろしくお願いします」
かろうじて私はそれだけを上分なる使用人へ返せた。彼女は温厚な笑みをやはり浮かべたまま、「御用がありましたら何なりとお申し付けくださいませ」と言い「それでは」と廊下を歩み去った。私と紗夜もまた、歩みを再開する。
「綺麗な人でしょ」
「……ああ」
202、206。
「口数は少ないけど、とても優しい人なんだ」
「そうか……」
203、207。
「ついた。ここだよ」
紗夜が手で示したのは、208号室。「私の部屋」
「ちょっと待ってて……あいや、きみも入りなよ」
208号室の室内へ、私は失礼した。
「0.18、281739、130434、7、8……秒!」
入室してすぐに紗夜はスマートフォンを手に取り、電卓を起動させて計算を行った。
「宇宙的尺度で言えば、ヒトの一生である80年はだいたい0.18秒。私達の一生は宇宙がまばたき一回している間に散っちゃう。儚いね」
「宇宙はまばたきしないだろう」との私の冷やかしは、「うるさいなー」と一蹴された。
「もしも槐くんが17歳のときに、正気を失った義理のお姉ちゃんに刃物で刺されて不運にも死んじゃったとするとね……」
さきほど屋敷の外で交わした正気云々の会話を、紗夜は存外に根に持っているらしい。スマートフォンの画面をタップし、計算を進めていく。
「だいたい0.039秒……0.04秒。ヒトが一瞬と感じる時間がだいたい0.05秒? とか言われているから……」
「どこからの情報だそれは」
「ユクスキュル」
「……?」
「知りたいのなら蔵書室にあるから漁ってみなよ。まあ信憑性薄いんだけど。ともあれ槐くんは自分というものを認知すらできずに発生して消滅する。槐くんは宇宙的尺度だと享年0.04秒です。早死ににもほどがあるよ。残念だったね。慰めてあげる」
よしよし、と私の頭へ無遠慮に伸ばされた紗夜の手を躱す。
「そういうのかわいげがない」
愛すべき義弟へ向けた慰撫の手を空ぶった慈悲深い義姉は数秒ほど私を恨めしそうに睨み、恨み言。
「必要ならば持つだろうな」
持っていないということは即ち必要ではない。
可愛げ、愛嬌……ああ即ち、自らが無力で愛玩される程度でしかないという殊勝な自覚と、それにより採用された外部から加えられ得る攻撃に備える卑屈で賢しい防衛の姿勢だ。
「必要なんだよそういうかわいげって」
言い、紗夜がベッドの端に座る。
「ん?」
ぽんぽんと、紗夜が自らの隣を叩いた。きみも座れば? とでも言いたげに。長々とお喋りに興じたいのだろうが、私はこの部屋に長居するつもりはない。
自然、彼女を見下ろすかたちとなった。
「俺はそうは思わない」
「いろんな人の話をうんうん頷きながら聞いて、適度ににっこり笑って相槌を打つんだ。涯渡の知己の方々にいつもそうしてる、みんな笑顔で『可愛らしいお嬢さん』とかなんとか褒めてくれるんだよ」
「打算的だな」
「そうかなあ。物事を円滑に進める為に要るか要らないかをきちんと判断した上でなんだけど」
「きみの笑みは相手に好意があるからではなく万事を滞りなく進めるための笑みだろ。ならそこにきみ自身がその相手へ向ける興味も関心も存在していないわけだ」
「む、失礼な言い方。適切な手段を実行に移してるだけなのに」
「だからそこにきみ自身の気持ちが存在しないんだ。きみは結局のところ無関心なんだよ」
「そうかなぁ?」
「あまりにも他人に無関心だから、きみはそんなにもにこやかになれる」
「その理屈だと気難しい顔の槐くんは他人に関心ありまくりだから笑みが浮かべられない、ってことになるよ。あ、もしかして、私のことも実は滅茶苦茶興味がある? ふふ、ちょっと困っちゃうかなぁそこまで興味持たれちゃうと」
「……」
両手を頬にあて、紗夜が私を斜めに見上げる。
「くだらない」
「あ、違うとは言わないんだ」
にこにこと、癪に障る愛想だ。
「いちいち否定しないといけないのか。きみの中にはゼロかイチしかないのか? ゼロでなければイチに違いないというのは少し短絡的に過ぎないか」
私の言葉にしかし紗夜は笑みを崩すことなく、
「短絡的って言われてもなあ。他人の考えてることって分かりようがないし、それなら自分の中で落としどころを見つけなきゃでしょ。そうやってできたイメージを、その後の付き合いで少しずつ修正していけばいいし……」
「なら、きみが持っている俺のイメージはなんだ」
「気難しやさん」
「……」
「ふふん。大正解でしょ?」
してやったり、と紗夜が憎たらしい笑みを浮かべる。
「さっき、きみは長生きしたいって、私の言葉に頷いたでしょ。あんな感じの素直さをもっと出してみたらどう?」
「出したとして、どうなる」
「私が嬉しい気持ちになるよ」
にこ、と紗夜が笑む。
「どうでもいいな」
「む……その返答は予想ついたけどさ」
「きみが望んでいる、素直な返答だよ」
「ん……? ということは素直さを得られたから私は嬉しくなっていいのかな……? いやでも、どうでもいいって言われたし……けど素直な返事だし……んん……?」
妙なパラドックスに陥っている紗夜を後目に、208号室の部屋をあとにしようと私は扉を開けた。屋敷内の探索はまだ終わっていない。
「あ、待って」
廊下を歩いていると、後ろから紗夜が追いかけてきた。なおも彼女は私の案内人となるつもりらしい。
「ついでだから、きみの部屋も決めちゃおうよ」
「俺の……?」
私の部屋。
「そうだよ。これからきみは私と一緒に骨になるまでここに住み続けるんだから、自分の部屋が無いと不便でしょ」
「ああ……そうだったな」
自室の所在を失念していた。未だに実感が伴っていないようだ。
「どこの部屋にしたい? もしかして全部屋使いたいとか? よくばりー」
私が答える前に、彼女がからかう。「あ、でも208号室はご存じの通り私が使わせてもらっているからダメだからね」
「自分の部屋、ということだろう」
「うん。どこでもいいなら私が適当に選ぶよ。すさまじい適当さでもってすっごく無責任に選んじゃうよ?」
見る限り部屋は八つあり、いずれも同じだろう。違うのは、窓から見える景色ぐらいか……森以外に、変わりはない。
「そうか。なら、お願いする」
「はーい」
適当に選んでもらうことにした。私は、私がどこを自室にしようとも、どうでもよかった。
「それなら、ここ。私のお向かい。私と最短で顔を合わせられる距離っ」
紗夜が選んだのは、彼女の部屋の正面である、204号室だ。
「今日からここが、きみの私室です。ご随意にお使いくださいませ」
そうして私の部屋は、204号室となった。