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鼻をつく不快なこの臭いを腐臭というのだろう。
何匹もの蠅が耳障りな羽音を響かせて集っている。
横たわり動かない、腐った醜い肉の塊の首筋を中心に白い蛆が貪っている。
「……」
きみは無言で、小さな命の抜け殻を見下ろしていた。
仔猫だ。愛くるしく真っ白だったのだろう毛並みを赤黒く染め、見た目をグロテスクに変貌させた、明らかに誰かに首筋に刃物を押し込まれたと思わしき小さな生物の遺骸。小さな首輪の巻かれた首には銀色の刃物が残されたまま。蠅が集り、蛆が湧く。腐臭を発し、眼を背けさせる。昨夜の雨に濡れて乾かず、生ごみのように放置されている。
ソウを捜す休日の昼間に、俺たちは木陰にこの気の毒な死体を見つけた。月ヶ峰の外れまで今回はバスで行き、降りたのちにずいぶんと歩き、先日に探した工場廃墟付近の道を更に進んだところだ。森の中へ入る小径を見つけ、俺たちは二人、そちらへと進んだ。この径はいったい何処へ続くのだろう──そう思いながら歩いているときの、現在の発見だ。
「すべての生き物は天寿を全うすべき……そう思わない?」
ねえ延寿、ときみは俺の姓を呼び、見上げてきた。いつものキャペリン帽を少し持ち上げ、灰色の視線がのぞく。
「これは天寿か」
「なわけないでしょ」
眼下の死骸を見下ろし尋ねる俺に、しごく不満そうにきみが答える。「自分以外の手で下ろされる幕を天寿とは呼ばないよ。そんな悲しい出来事なんて不運とでも呼んでやればいい」
ならば、この小さな猫は不運だったのだ。
首輪がある。とすれば誰かに飼われていた。小さく、まだ成猫ではない。外飼いか。室内飼いが外に憧れ抜け出したのか、連れ去られたのか、迷い出たのか。そうしてどこかで血も涙もない動物殺しに遭遇し──あるいはこの場所まで迷い途方に暮れてやってきたときに──〝不運〟にも、殺された。これを天寿とは、確かに呼びたくはない。殺される為に生きてきたなどとは考えたくもない。最期に呆気なく殺されてお終いだなどと勝手に決定付けられたら、俺は心底からそうした何かを──存在を信じてもいない神を──怨むだろう。なぜ、やがては殺される為に、俺を生じさせたのか。
「ひどいな」
「ひどいね」
遺骸にきみは屈みこみ、肩から提げているポーチを足の間に乗せ、そっと刃物の柄を握り……ゆっくりと、引き抜いた。崩れ始めている肉はさしたる抵抗もせずに刃物は引き抜かれ、拍子に蛆が数匹転がり落ちて、「こんなものはあの世に持って行きたくないよね」遺骸に語りかけ、きみは刃物を木の根元に置く。あの世、という言葉には否定的だが、今それを口にしたからと何かが好転するわけでもない。
「……」
じっと、きみは仔猫の遺骸を見ている。と思えば立ち上がり、周囲を見回す。ともに俺も周囲を見回すが、森の小径の周囲は当然森だ。木々の密集のところどころに隙間があり、陽光が降り注いでいる。「由正、少し待っていて」きみは言い、木々の合間、陽の光の当たる場所へと、小径から分け入って行く。何をするつもりなのかと、少しの間思い、光の注ぐ場所で屈みこみ、まだ濡れている土に手を直接触れさせたときに、気づいた。
視線を、仔猫の遺骸に向ける。
不運にも殺され、偶然にも俺たちが発見した。それもひとつの縁なのだろう。思い至り、行動に移したのはきみであり、俺はその助力をするだけだ。
仔猫の傍に膝をつき、両手で、その崩れはじめている肉の塊に触れる。冷たい。白い毛は固まっている。固形というよりも、液化している泥を触っているみたいだ。腐臭が鼻をつく。蠅が身体にあたる。蛆が転がり手に落ちる。崩れてしまわないように持ち上げる。幸いにも四肢はとれず、顔面もまだ形を保っている。
「あっ」
近づいてきた俺を見て、きみが驚きに目を丸くする。「い、いいんだって由正! これは私が勝手にしようとしてることなんだから!」きみの手は泥だらけだ。勢いよく掘り返された土が穴の傍に小さな山を成している。俺たちは掘るための道具など持ってきていない。運ぶための道具も同様に。なにせ俺たちは、掘るためでもなく運ぶためでもない、捜すための旅路の途中だったのだ。
「俺も、勝手なことをしようとしているだけだよ」
仔猫を気の毒に思ったのは事実だ。
なにかできることがあるのなら、と思ってもいたのだろう。そこできみが行動に移し、俺はそれに倣うことができた。きみの善意にあやかっただけだ。ふとした偶然により生じた一瞬の自己満足の供養だろうと、俺はその行いを正しいと感じた。正しきに従い動ける姿に憧れすら覚えた。だから倣おうと動いたのだ。
きみが掘り上げたささやかな穴へ、仔猫の白い遺骸を据える。無言のきみの視線を傍らに覚える。土をかけ、小さく既に途絶えた命を埋めた。安らかに、と眼を閉じ、頭の中で言葉を供えた。眼を開ける。言葉無く、きみも泥にまみれた手をあわせていた。白い髪が表情の傍に流れている。白い仔猫。白い髪。白の遺骸。
「犯人、捕まってくれるといいな」
ずっと黙っているきみへと言う。「うん……」か細く、頷いた、かと思えばゆるやかにその両手を伸ばし、俺の手を包み込んだ。灰色の瞳が俺を見上げている。
「……どうしたんだ」
「ううん。意味はないよ。こう、したくなった」
きみは微笑んでいる。親愛だと取れる笑みだった。「きみの手も泥まみれにしようかと思って」そうしていたずらっぽく。
「それを言うなら俺の手のほうが……抵抗が、あるだろう」
俺の手には、仔猫の身体から抜け落ちた白の体毛が遺されていたままだ。腐臭もうつっていることだろう。なのに。
「いいよ」
灰色の瞳が細められている。「私がこうしたいからこうしているの」きみは静かに笑っている。
暫く後に満足したのか、きみは俺の手を離した。
「そろそろ行こっか」
俺を見上げる灰色の瞳が、「あでも、その前に」不意に、提げていた小さなポーチへと向く。取り出したのはハンカチだった。黒地に白の刺繍が入ったものだ。
「いちおう、手、拭いておこうよ。あとで手もしっかり洗っておかないと……現実的な話でごめんだけど、やっぱりその……」
そこから続ける言葉が、きみは俺たちのさっきの行いを台無しにするのではと危惧したのだろう。控えめに視線を伏せて、言いづらそうな様子で、
「雑菌とかも、あるしさ」
気の毒にも殺され放棄され崩れ始めたあの白い仔猫の遺骸は、そうであるが故に素手で触れるにはあまりにも雑菌塗れで不潔なのだ。確かに憐れんだはずのものを、同時に黴菌扱いしている。それはあんまりなのではないのか、ときみは思ったのだろう。行動と思考が矛盾しているかのように見えたのだ。
「俺たちはただ、野ざらしの仔猫を気の毒に思い、自分たちの健康を重視したんだ。どちらも正しく思える」
そしてそれは、矛盾しない正しさだ。仔猫と自らという、正しきの指向が違うだけで。
「……由正の言わんとしていることは何となくわかったよ。気にしないで、って言いたいんでしょ? 別に手についた雑菌を気にしようと、その考えは仔猫を埋めた行為を台無しにはしないんだって」
その通りだ、と俺は灰色の眼を見た。そうして気付いた。気にする必要なんてない、という言葉こそ、俺がきみに向けたかったものだ。わざわざ回りくどい言い方をしてしまったらしい。
「うん……」
少し思案し、きみは取り出したハンカチを再びポーチへと戻し、左手で俺の右手を握る。「手を洗うまで、手を繋いでいようよ。ほら、前におんぶだってしてもらったし大丈夫だよ私。それに二人とも手は汚れているから、繋いでいようと離していようといっしょだろうし、それなら──」
それなら、繋いでいたい。
きみはそう言うと目を細めた。微笑んだのだ。理屈としては詭弁にすらなっていないが、離す必要も無いだろう。汚れている手でしか、俺たちは繋ぐ勇気も出なかった。
俺たちはまた歩き始めた。
「この道の先って、大きなお屋敷があるみたい」
右で並び歩いているきみが言う。「人が住んでいるのかどうかも分からない豪邸がさ」
「そうなのか」
「うん。たぶんそろそろ見えてくるんじゃないかな」
きみの言葉通り、やがてそれは見えてきた。
屋敷の、廃墟。建物の死骸、のよう。三階建て。玄関扉は閉ざされている。カーテンは閉じられている。人の気配はない。息をひそめているのだろうか。なにかの塔。白い外壁。白い遺骸。ぐるりを囲む鉄柵。門は固く閉ざされている。
「無理そうだなぁこれ。入れそうにないや」
「そうだな。無理やり入ったところで不法侵入だ」
「親御さん呼ばれちゃうね。私まだきみの両親に会ったことないや」
「普通の人たちだよ」
「きみの血縁というだけで、私にとっては特別だよ……戻ろ?」
俺たちは元来た道を引き返した。
外界から閉じている屋敷に、無理に入る必要はない。
その後、俺たちは街に戻ったら、改めて手を綺麗に洗おうと直近の予定を立てて、ひとまずは昨夜の雨の名残りである水たまりで子どものように手の汚れを落とし、今度こそハンカチで拭った。手は見た目だけは綺麗になり、俺たちは手を繋ぐ理由を失った。