読鳥ン補修
「あ、そうだ。よっちん少しお時間ある? 図書室行かない?」
「今からか」
「うん。ちょっと見せたいものがあって。あでも、延々あたしとここでお喋りしていたいならべつにそれでもいんだけどさ」
どうするー、と花蓮。
にこにこにこにこと上機嫌な彼女の笑みを一身に延寿は受けている。話せる喜びがあるのだろう。会話できる嬉しさがあるのだ。誰と、か。現状それは、俺だ。事実は事実だ。花蓮は俺に対して好意的だ。俺が彼女に対してそうであるように。
「行こう」
「あー? あたしとお喋りしたくないっていしひょーめーそれー?」
「歩きながらでも話せるだろう」
「たしかに」
そうして延寿は花蓮とともに校舎内を並び歩き、図書室へ着いた。花蓮は図書委員だ。そんな彼女が図書室で、延寿を連れてきて見せるようなもの……延寿は予想がついた。
「あのぬい……読鳥んか」
「うん」
花蓮に尋ね、考えていた通りの答えが返ってくる。
「私なりに、修繕した」
あはは、と笑う花蓮の表情は歯切れが悪く、どこか照れ臭そうで、どこか諦念が混じっていた。なんの諦めが混ざっているのだろう。裁縫が得意だった(すでに亡くなっている)友人のようにはできない、という諦め、だけのようにも、思えない。まるでその苦笑は、誰しも前に続いている道が、自分だけなぜだか途中で失われてしまっているのだと認識し、理解し、受容したために起こるような諦めの微笑のように……その疑問の正体から延寿は目を逸らした。彼女は自身の死を知りようがないのだ。これからも。
「こっちこっち」と彼女に連れられ、延寿はカウンターを通りすぎて事務室へと入った。
「失礼しますー」
室内にいた学校司書へと、花蓮が頭を下げる。延寿も同じく、入室における礼儀を失しないようにした。名を上尾想子と言う延寿も花蓮も見慣れたその学校司書は、「どうぞー」と湯気の立つコーヒーカップを片手に微笑で快諾した。学校司書はすでに花蓮の用件を知っているようである。二人の生徒がやってきた目的は、室内にある机の上に置かれている、ひとつのぬいぐるみに関するものであることを。
「……とーまみたいに上手にはできなかったんだけどね」
読鳥んの裂かれた傷は──外傷の縫合をした人体がそうなるように──小さな白い糸が、真っ白な鳥の表面を走っていた。丁寧に等間隔に縫われ、読鳥んの傷口は塞がっていた。
「よくできているな」
「どうも。お世辞でも嬉しいよ」
ふふ、と花蓮が笑い、読鳥んを両手に持った。んー、と小さくこぼし、延寿を見上げた。
「でさ、よっちんにお願いがあるんだけど」
上目に見上げられ、延寿は花蓮の目と向き合う。
「これ、しばらく持っててくれない?」
読鳥んを差し出され、て、すぐ、
「『なんで?』って顔してるね」
言葉を付け足し、花蓮の顔には僅かな笑み。「今よっちん『どうして俺がこんなかわいらしいぬいぐるみを預からねばならんのだ?』というお顔をしてる」
細部はさておき、おおむね花蓮の言葉通りだったために延寿は黙したまま視線で続きを促した。対する花蓮は、笑みを浮かべている。苦笑に近い、照れるような笑みだ。
「理由とか、たいそうなものじゃないよ。少しの間、よしまさに持っててほしいな、って、それだけ」
「だめ?」と不安げに花蓮。読鳥んは差し出されたままだ。その傷跡は縫われ、痛ましくも補修されている。そういうものだ。傷跡は完璧には消えない。
「……返してほしくなったら、すぐに言うことだ」
手を伸ばし、延寿は花蓮の手からそっと読鳥んを受け取った。花蓮の腕はついたままだ。肩と腕の継ぎ目には、彼女にもやはり傷跡が残っているのだろうか。一度は千切れ、なにか(何に?)に補修され、元に戻った彼女の身体にも。
「……」
気づけば、延寿は花蓮の顔を見つめていた。
凝視、といってもいいほどの無心で。
すると、ゆっくりと一度、花蓮が瞬きをした。
「んふふ」
にやりと笑った。頬が微かに紅潮している。「猫ってさ、す……気を許した相手と見つめ合っているとゆっくりと瞬きするんだよ」目を細めている。
「猫界では見つめ合い続けるのは敵意の表われなんだってさ。だから瞬きをするの」
「俺たちは人間だよ」
延寿はそう口にし、その言葉がただ吐き捨てただけのものだと自覚した。
「……そういうこと言いたいわけじゃなかったんだけどな」
不満そうな、もしくは寂しそうな花蓮の表情も、延寿の返答の失敗を物語っていた。手に持っている読鳥んの澄んだ瞳が、ふと責めるような光で視界に映った。
「大事にする」
傷跡の残るぬいぐるみを手に、延寿はそう花蓮に宣言する。
「うん、大事にしてね」
にこりと、傷跡の見えない死体は微笑み、「それを私だと思ってさ」と口早に言い、視線を延寿から逸らした。表面的には、彼女の身体のどこにも、傷口はない。血が流れていたりはしない。中身だって出ていない。対外的に、花蓮は完璧な生者だ。……本当のところは? 真実は。事実は。過去は。
「大事にし過ぎて、次にきみに返せと言われたときに返せないかもしれない」
それは願望だ。
次、があってくれという。
……どうやら望まなければならないほど希望に溢れた展望を信じ切れず、不穏にそまった絶望を確信しているらしい。
「だめ。あげない」
幸せに、花蓮は笑う。
穏やかな笑みと眼差しを前に、延寿はひとつ、瞬きをした。
「あ、いま」
花蓮が反応する。嬉し気に。
「戻ろう」
延寿は言い、歩きはじめる。「いま、ねえ、いまっ」花蓮が楽しそうに、心底、嬉しそうについてくる。「またたき、いまのっ」
そうじゃなかった。
花蓮はそれを望んでいるのだろうが、ゆえに今の彼女の様子なのだろうが。
そうではなかったんだ。
あのまま花蓮の眼を見続けてしまっていれば、自分の中の何かが、決定的に、歪んでしまいそうだったからだ。歪みが表情となり、彼女に伝わりそうだったからだ。伝わってしまえば、それはどんな結果を生むだろう? 分かり切ったことだ。
事務室から出た。上尾はいつの間にか事務室からいなくなっていた。花蓮がついてくる。読鳥んは手に持っている。
「ふふ、ふふふっ」
背後には、彼女の笑い声。真実、彼女は幸せだ。
そうして事実、鷲巣花蓮は死人である。傷跡を綺麗に縫合され、再び動けるようになったぬいぐるみだ。誰かがそうしたのだ。誰かが。何かが。
今の延寿は、憎悪を向けるべき相手が判らない。
背後で花蓮が笑っている。どうするべきかが分からない。
すべてを『案内人』のせいだと思えばいいのか。あの殺人鬼に、奥底から際限なく湧出する憎悪を皆向けてしまえばいいのか。あれが原因だ、お前が現状の起因なのだ、とそう……であるのが正しいと思えるのに、どうしてこうも腑に落ちない。分からない。誰を憎めば正しい。誰へ向かい、どう感情を動かし、情動を機能させ、行動を決定するべきなのか……
「ふふふーん」
上機嫌な花蓮が傍にいる。
出入口に、延寿たちはいる。
外は暗くなってきている。室内が反射している。
図書室の出入り口のガラス扉に映っているのは、当然ながら自分自身だ。ひどい目つきをしている。怒りに荒んだ眼差しでこっちを睨んでいる。まるで、お前がすべての原因だ、と糾弾するみたいに、俺を見ている。
「……」
そうであるのなら、それで構わない。
俺が全部の責を負うべきなら、その証拠を突き付けてほしいものだ。突き付けられた理由が納得できるようなものであるなら贖う為のいかなる行いも厭わない。……無意味に自罰的な態度をとるのは止めよう。すべてが俺の所為だと思えないのが現状だ。もしも可能性の果てに佇む最も憎むべき何者かの顔が俺と同じだった場合の、限りなくありえない状況だったときの話である。
「よっちんどしたの? 行こうよ」
「……そうだな」
帰りもまた、延寿は花蓮と並び、喋り、歩んだ。