屋敷に至るまでの数日
突き落とされる夢を見て、安堵とともに目が覚めた。
「学校行くの? はー、頑張り屋だねきみぃ」
ソファに転がっている伊織が背中越しに言う。週末までは当然平日であり、授業がある。『案内人』の被害が出ようとも休校の決断を学校側が採らないかぎりは、本分である勉学の学び舎へ足を運ばなければならない。それは当然、或吾だけではなく口木高校でも同じはずなのだが……延寿の視線の先で、伊織は一向に動こうとしない。
「……きみはどうするんだ」
「僕? 今日ちょっと体調わるい。エイチピーがあと3ぐらいしかない」
「出席日数は足りているのか」
「平気だよへーきへーきへーき。いらないお世話だっての」
見向きもせず、手だけをひらひらと振り、一度もぞりと動いたかと思うと伊織はまたもやソファに埋もれた。
「あまりひどいときは、病院に行くことを奨める」
「ご心配ありがとう。あんまり僕に構うとお前が遅刻するぞ」
早く行け、とばかりにしっしっと手を振る伊織へ、延寿は無言で背を向け、玄関から出て行った。扉の閉まる音が、室内に響いた。
「…………行ってらっしゃい」
延寿が或吾高校に無事に到着した時、まず遭遇したのは紗夜だった。校門を抜けてすぐのところに彼女は立っており、延寿の姿を見かけると小走りに駆けてきて、
「延寿くん、身体はもう大丈夫?」
眉はさがり、その瞳に浮かんでいるのは確かに不安だった。
「治りました」
「わ。すごい回復力だね」
安堵のためか、紗夜が表情を崩す。かと思えばその表情がころりと転がり落ち、薄く影が差した。しょんぼりとしていた。
「お見舞い、行けなくてごめんね」
「構いません」
謝罪の言葉に、延寿の愛想のない短い返答。「それよりも生徒会長」
「花蓮について、何か聞いていますか」
延寿にとって、それが本題だった。
鷲巣花蓮の行方。彼女は何処へ消えたのか。今知るべきはそれだけであり、それ以外に得られる情報からは価値を見つけられなかった。
「ううん。ごめん……聞いてない」
「そうですか」
「その、悪い話は、聞いていないからね」
悪い話、と紗夜はぼかしてくれた。悪い話とはつまりそれは、花蓮の状態が生存以外に確定するような何かが発見された、ということに他ならない。
「なにか聞いたらすぐに言うよ」
「ありがとうございます」
鉄のような表情で礼を述べ、延寿は紗夜と別れ、教室へと向かった。事情を聞いているのだろうクラスメイトから、遠巻きに恐れと不安が混じった眼で見られた。にゃーにゃ―言っていたクラスメイトが実は人殺しで、そんな危険人物に殺されかけた上にその危険人物はさらなる危険人物に殺されたらしく、常々気にかけていた物好き(誰がどう見ても好意を持ってるっぽい)の鷲巣花蓮というこれまたクラスメイトは不可思議にも姿を消した……そのような現実味のない事態の連続に巻き込まれた不幸で、愛想のかけらもない正しきを強要してくるだけの冷ややかな鉄の塊に事情を尋ねることもできず、心なしかいつもよりも眉根を寄せて不機嫌そうで怖いので、遠巻きに眺めるしかなかったのだ。
昼休み、延寿は体育館裏にいた。
今ではもう、事件現場と呼ばれる場所だ。ヒトが一人、『案内人』の手で殺され、ヒトが一人、消えた場所。小比井美衣が本性を現し、そうして死んだ日にはもう、花蓮の姿は忽然と消えたようだ。そうして自身は首を斬りつけられて致命傷を負い、死に至る傷は快癒した。
模倣犯がいて。
自分が斬りつけられて。
『案内人』が出現し模倣犯を殺し。
確かにいたはずの鷲巣花蓮の姿が消えて。
今、死んでいたはずの自らが生きている。
その一連に、因果関係がないと思える確証がない。
「……どこに、いる」
もしくは、何処に連れていかれたか、だ。悠長に構えているつもりはない。涯渡家の屋敷へ行く前に花蓮を見つけられるのなら、それでいい。不穏な予感のする場所へ、わざわざ伊織を連れていかなくても済む。そのような思いを抱え込み、延寿は今、体育館裏にいる。
外壁にびっしりと描かれていた赤い落書きは消えていた。
真っ白な外壁上には、一匹のゲジが這っていた。多くの脚を動かし、せかせかと一心不乱に壁を上っている。超えるべき壁を、目の前の小さな多足類は超えられる能を持っている。
「……」
ふと、ゲジの足跡が赤い文字へと変わった。
血のような赤のインクが、アルファベットと数字の不規則な羅列をゲジの後ろへ残していく。そうして当然のように、赤い文字は消え、ゲジのみがやはり壁を上っている。
消されたわけではなく、消えたのだ。最初からそこには何もなく、自分が幻覚を見ていただけとばかりに綺麗さっぱりと。そしてあの小鳥……あれは……「延寿」呼ばれる。振り返る。
「延寿、ですよね……?」
いたのは取兼だった。いつものように真っ黒の髪をシニヨンにまとめ、化学という学問を担う者の責務とばかりに白衣を纏っている。ただいつもと違うのは、普段かけているはずの銀縁の眼鏡を今はかけておらず、眼を細めて、怪訝そうな瞳で見てきていた。目つきが悪くなっていた。
「はい」
「ああ、延寿でしたか……すみません、睨んでいるわけではありませんので。私、視力が弱いもので……眼鏡がないとほとんど見えません」
「眼鏡はどうされたんですか」
「それが……壊れてしまって。無精にも机の上に置きっぱなしにしておいたのがいけなかったのですが、何かの拍子に床に落ちていたみたいで、更に不幸なことに気づかず私が踏んでしまいました。私の体重が小鳥ほどなら壊れはしなかったでしょうに」
資料を運んでいて足元が疎かになっていました、と取兼は残念そうに眉をひそめた。
「大丈夫なんですか」
「おそらく。識別は怪しいですが、まったく見えないわけではありませんので。それに私は同じ眼鏡をたくさん持っていますから、今日だけの辛抱です」
そう言いつつ取兼は歩きながら近寄って来ようとし、「あっ」つまづき、転びかけたところで踏ん張って耐えていた。
「……大丈夫なんですか」
「ええ、まあ、はい。信用はできないと思いますが、大丈夫ですよ」
顔を逸らし微かに恥ずかしそうに笑むと、「それで、ここでなにを?」と取兼。
「ここに、赤い落書きがありました」
そう、延寿は体育館裏の外壁を指さす。取兼の背後に佇む、経年を思わせるほどには朽ちた白い外壁を。
「落書きが……」
振り返り外壁を見上げると、取兼は「なにも、ありませんね」と見たままを述べた。確かに何もない。あの日、あったはずの文字が消えている。
「なんと、書かれていたんですか」
「分かりません。数字とアルファベットの羅列には見えましたが」
そうですか、と取兼が無感情に言う。背を向けているため、延寿からはその表情が窺えなかった。
「鷲巣花蓮の行方について、なにか聞いていませんか」
その質問に取兼は振り返り、延寿を見上げ数秒目を見つめ、
「いえ。私たち職員は何も聞かされていません。私個人としても、鷲巣さんについては何も知らない……すみませんが」
「そうでしたか……」
「何か得たら、すぐに伝えますよ。鷲巣さんは私にとって大切な教え子です」
そこで一旦言葉を切り、取兼は再び外壁を振り返り、また延寿へ視線を戻す。「そしてそれ以上に」
「あなたにとっての彼女は、大切なのでしょうから」
微笑む取兼の背後に。
一面に、真っ赤な、落書きが、現われ。
すぐに、消えた。
「……お願いします」
書かれている文字は、やはり読み取れない。
他の教師に、クラスメイトに、見ず知らずの生徒に、男子生徒に、女子生徒に、行方を尋ねた。知らないのかを尋ねた。休憩時間に、放課後に、校舎内を見て回った。
なにもなかった。
彼女が未だに消えている、という事実が補強されていくだけだった。
鷲巣花蓮の家を、訪ねた。
ともすれば彼女が既に帰っている可能性とてゼロじゃない。久しぶりに顔を見た気がする、憔悴した花蓮の母の口に、彼女が消失したという事実を痛ましくも繰り返させただけだった。延寿は深々と頭を下げ、謝罪の意を込めて礼を言い、その場を辞した。
家に帰ると、ソファの上に伊織が埋まっていた。眠っているのか、起きているのか、その背中からは判らない。
「朝から動いていないのか」
「ああ? そんなわけないだろ」
不機嫌そうな声を伊織の背中が発する。
「場所を借りている身分だし、いちおう、しておいてやったぞ。洗濯とか、いろいろ」
「そうか……悪い。体調がよくないのに」
「気にしなくていい。少し、頭が痛いぐらいだし」
そうして夜は更け、眠りについた。
また、突き落とされる夢を見た。
安堵とともに、朝を迎えた。
彼女の痕跡を探した。なにもなかった。
帰宅した。伊織がいた。洗濯と、掃除をしてくれていた。
夜は更けた。眠った。
突き落とされる夢を見た。安堵を抱え、目覚めた。
学校で、市中のほうで、探した。なにもなかった。
帰宅した、伊織がなにかを作っていた。世話になっているからと、料理をしていた。食事し、夜は更け、眠り、突き落とされる夢、安堵、起き……、
そうして週末に至った。彼女の姿を見つけられないまま。