風の便り
「いらっしゃいませ」
出迎えた声は老いていた。
上品な風貌の、年老いた男性がいた。彼が店主なのだろう、延寿はそう考えた。
「席って自由でいいんすか」
伊織の問いに、その老人──示崎と名札にはある──はにこりと柔和に、「気に入った席へどうぞ」と微笑む。堂に入った接客の笑みだ。カウンターの端には藤籠が置いてあり、中に積まれた迷い犬のチラシがふと延寿の眼についた。栗毛の人懐っこそうな犬だ。眼についただけで、それ以上の何かは浮かばなかった。
「はーい。行くぞ」
にこやかな店主に見送られ、伊織は窓際の席へと歩く。「ここにするか。いいだろ?」尋ねられ、というよりも同意を求められ、延寿は「ああ」と頷き座ろうとし、「おみゃあらは……!?」「……?」珍妙な叫びが聞こえ、周囲を見回した。ご立派な髪の毛の先端が見えた。片手に持ったスプーンと、そこに盛られたパンケーキの欠片を口に運ぼうとした姿勢で硬直している。角刈りと坊主の後姿もある。
「どした?」
延寿の向かいに着席した伊織が、怪訝そうに目を細める。延寿の視線の先を自らも見、「ああ? うわ、だるそうなのいるなあ……」いかにも億劫そうに肩を落とした。「まあいいや。さっさと頼もう」メニューを眺めはじめる。……すぐにソレは消えた。
「……」
延寿もまた、何事も起きていないかのように平然と席に着いた。
「待てい! 何の反応もなしかてめえ!」
リーゼントが立ち上がった。スプーンは器用に持ったままだ。坊主と角刈りがおろおろした表情をしている。
「うるっさいなぁ」
伊織が苛立たしげに眉をひそめ、ぼやいた。
「公共の場だ」
静かにしろ、と延寿はリーゼントへと言う。
「あ……すんません」
あ……、で周囲を見回し、すんません、でリーゼントは店主へと頭を下げた。店主は苦笑し、「お友達と偶然会えてはしゃいでしまったのだね」と理解を示した。
「い、いや友達とかじゃ……」
言いかけ、無駄だと悟ったのかリーゼントはようやくスプーンを口に運び、咀嚼、嚥下したあと、延寿を一瞥して元の席へと座った。とりあえずは食べよう、という算段となったのだ。
「なんにするよ?」
伊織が尋ねる。その思考からはもうリーゼントたちの姿は弾き出されているようだった。
備え付けのメニュー表を縦向きにし、伊織が覗き込んでいる。サンドイッチやコーヒー、ナポリタンなどが写真付きで載った、これもまた年季の入ったメニュー表だった。
「僕はもう決めたぞ。お前は?」
問われ、延寿は「これを」とメニューの一点を指す。ホットミックスサンド、との名称にこんがりと焼き目の入ったトーストと、ぎゅうぎゅうと挟まれたハムにレタスにトマトにタマゴといった一品だった。じっと伊織はその写真を見た後、延寿の眼をちらと見て、
「足りんの?」
気遣うとかからかうとかではなく、率直な疑問の用だった。「それプラスでカレーやらナポリタンとかいけるだろ。そのガタイなら」
「それだけでいい」
「はーん。じゃ、いいや……すみません」
手を上げ、伊織が先ほどの老店主を呼んだ。他に店員はいないようで、ゆっくりとした足取りで老店主がやってきた。
「あーとですね、こっちのヤツがミックスサンドと……コーヒー飲む?」「ああ」「ブラックでいけんの?」「ああ」「『ああ』しか言えないのかお前……いや、っと僕の分でアイスコーヒーのブラックを二つと……や、待ってください、やっぱり片方はアイスカフェラテで、それでこのオムライスで」
注文を受けると、老店主は「かしこまりました」と微笑み、奥の厨房へと歩み去った。
「……苦いの苦手なんだよ、悪いか」
弁解するように、拗ねたように、伊織。
「……なら、カフェオレのほうがよくなかったか」
延寿としてはその言葉は十割の気遣いだった。カフェオレのほうがまだ苦味が控えめだという話をどこかで、(どこかで、誰かから)聞いた記憶があることからの、優しさである。
「シロップやら砂糖入れればいんだよ。いらない世話だ」
そう、伊織は不満そうに口を尖らせた。
まずコーヒーとカフェラテのアイスがそれぞれ運ばれてきた。それからはまったくもって他愛の……「お前の幼馴染とやらをさ、探す目途、あるの?」なくはない、真剣な会話が繰り広げられることとなった。
「その件に関して、涯渡さんに呼ばれている」
「あー、あの泣きボクロ女? なにかガイドについて知ってたりするのか」
「それは俺も分からない。ただ、現状、俺はガイドに関する何事も分かっていない。その正体も、名も、潜伏する場所も……なにもだ」
ミルクと砂糖をたっぷり入れたカフェラテを口に含み、伊織は目を細める。延寿の眼を、真っ向から見、
「……ワラにも、縋りたいって?」
言う。
「それで少しでも手がかりが掴めるのなら」
「ふん。そうまでして探し出したいんだな。幸せ者だよ、きみの幼馴染さんは」
思わず口から出てきた茶化しを、発してすぐに伊織は自己嫌悪した。これでは、ただの嫉妬じゃないか。醜い、醜い、醜悪な汚泥のような妬み嫉みだ。しかも相手の女に、これじゃあまるで……いいや違うな。気のせいだ。気のせいだろう。
伊織の表情は渋面となったが、すぐに押し殺した。その様を延寿は見ていた。何も言わず。
「なら僕も、そのワラ女の屋敷にいっしょに連れていけ」
伊織からの、そんな提案。
「現状、誰がそのワラ女の屋敷へ行くことになっている?」
「獅子舘さんは確かだ。後は俺と……他は、聞いていない」
「少ないな。なら一人ぐらい増えても良いだろ。今ちょうどお前の家に世話になっていることだし、荷物のひとつとしていっしょに持っていけよ、僕を」
「……なぜだ」
「キミの助けになりたいんだよ」
伊織はふん、と自嘲するように薄笑みを浮かべ、言う。お前、ではなくきみ、などといういくぶんか丁寧な単語をわざと用いて、延寿の普段の呼び方の真似までして。
「本心で良い。それできみを軽蔑したりはしない」
「あははっ、よく判るな」
浮かべる笑みは引きつっている。
「興味本位だよ。ガイドについて何か知れるものがあるのなら、僕もそれにあやかりたいと思っただけだ。悪いね、延寿。僕は、お前の幼馴染にお前ほどの情は持てないらしい」
口から出るこの言葉は、本心なのだろうか。いったい僕は本当のことを言っているのか。口にしていて当の伊織自身がよく判らなくなっていた。分かりたくなかった。
「手伝ってくれるのなら、俺は有難く思っている」
返す延寿の言葉に、伊織の笑顔は再び引きつるしかなかった。目の前の男は結局のところ、その幼馴染の女の安否しか見えていない。目の前の同性がどう考えているかなど、どう感じているかなど、まるで気にも留めていないのだろう。おそらく、考えに至ってすらいない。手伝ってくれるという僕の行動を親切心だと、それだけだと受け取り、単純にそれだけに対する礼を述べた。憎くなるほど、こいつの脳裏にその可能性すら浮かんでいない。当然か。当然だ。これは。これは正しくないのだから……「伊織?」
延寿に名を呼ばれ、伊織は硬直している我が身を自覚した。
「いいや。なんでもないよ。わるいね」
今とても、不愉快な考えを浮かべようとしていた。
今僕は、気色の悪い自分を見つけようとしていた。
見つけようと、ではない。そもそもいない。そんな僕はいない。正しくない嗜好に陥ろうとしていた僕はいない。気色悪い。気持ち悪いな。消えて失せろ。さっさと。今すぐ。引っ込んでろ。僕は真っ当だ。僕はまともだ。
「体調悪いのか」
「失血死しかけて入院していたお前よりは遥かにいいよ」
憎しみを覚え、その憎しみを抱く自身を心の底から殺してやりたくなった。黙れ、と思うが黙っている。言葉に出していないのだから。なら考えるな。ソレを。その可能性を見るな。見つけるな。発見するな。目を逸ら……いいや、ないものはないものだ。そんなものは最初からない。
延寿は無言で、伊織を見つめていた。
「じろじろ、見るな」
「……気にかかっていることがあるのなら、吐き出すべきだ」
鬱陶しい、心遣いだった。
「そのヤサシイ心遣い、痛み入るよ。もっとも、キミの心配はキユウってやつだけどな」
皮肉で返すと、延寿はそれ以上は何も言わなかった。
無言の時間が続き、ふと、食べ終わったらしいリーゼント一行がやって来た。
「おいおい、てめえ女連れかあ? 羨ましい……」
「あ、兄貴……それぁガチの『羨ましい』じゃねえすか」
「銀治、これは負けイベだ。俺はもう負けている」
「兄貴っ、そんな悲しいこと言わないでくださいよお」
「負けるとしてもだ、挑まず負けるのと挑んで負けるのとじゃ大違いなんだよ……! そして俺が選ぶのは挑んで負ける方だ、当たって砕ける方なんだ……!」
角刈り(ギンジと云うらしい)と坊主(キンゾウと云うらしい)の視線を受けてリーゼントが延寿に睨み散らかす、が、
「今、僕たちは真面目な話をしている……お前らのその馬鹿な頭でも、自分たちが今どんなに無粋な真似をしているのかは察しがつくだろ?」
そう言う伊織の表情は、延寿には激怒と映った。真剣に怒っているのだ。リーゼント一行も、今はあまりにタイミングが悪かった。
「おま……」
「消えろ。僕たちの邪魔をするな」
「っ……うぇい」
大人しく、リーゼントは振り返り、レジへと歩き出した。「兄貴」「い、いいんですか兄貴、あいつの言うとおりにしてもっ……」角刈りと坊主がその背中に呼びかける。
「さっさと行くぞお前ら……あいつらの邪魔したってのは、自分でも分かってるぜ。今のままじゃ、俺たちゃ場違いなクソ野郎どもから脱せねえ……次会った時だ、憶えとけよ」
延寿を一瞥し、リーゼントは去って行く。「兄貴、やっぱ惚れた女の言うことは聞くに限りますもんね」「黙らっしゃいなぁ……! 今俺たちはカッコよく去りゆく途中なんですから……!」
そして大人しくリーゼントたちは会計を済ませ、老店主に無言ではあるものの、迷惑をかけてしまった詫びなのか軽く会釈をし、去って行った。老店主はにこにこと微笑ましげだった。
「くだらない横やりが入ったけど……続きだ。泣きボクロワラ女の家に僕を連れて行ってくれるだろ?」
伊織がそう改まり、問う。
あのリーゼントどもは不愉快だったが、話題を切り出す良い機会を提供してはくれた。その点だけは感謝だった。
「俺は、構わない。あとは当の涯渡さんと獅子舘さんの答え次第だ」
「はん、駄目って言われてもついてってやるよ」
表情に幾分かの笑みが戻って来た伊織の眼の前に、老店主がオムライスを持ってきた。「おお……」空腹の伊織の注意がオムライスに向けられた。
やがて延寿のミックスサンドも運ばれてきて、それから二人は手を付けた。
その後の会話は、延寿の家のシャンプーが切れそうだ、だとか。替えのやつ買い置きしとけよ、だとか、夕飯どうするよ、だとか……そういう、それこそ他愛のない話に終始した。
「……なに、また見てんだよ、キモイな」
いつの間にか目の前の食事姿を眺めていたようだ。姿勢よく、オムライスの欠片を規則的に口を運び咀嚼していた伊織が、延寿の視線に気づき不満そうな視線を向けてきていた。
「いや……なんでもない」
そう言葉を濁らせ、延寿は視線の真意をぼかした。
「なんでもないって。なにかあるから見てたんだろ」
なおも伊織に詰められ、
「きみの食べ方が、なんだか懐かしかった」
だから、延寿は考えていたことをそのまま口に出した。
「は? お前の目の前でご飯食べたことなんてここ最近からだろ……大丈夫か?」
「平常だよ」
「い、いや……お前が言うなら、まあそうなんだろうけど……あんまりさ、その…………無理、とかしすぎるなよ。お前いつも平気そうな顔してるけど、お前の現状って、僕から見たら、けっこう、キツイもんだと思うし」
結果、伊織にわりかし真剣な様子で頭の心配をされることとなり、
「……心配をかけてすまない」
「心配してない。思い上がんな」
礼の言葉はぶっきらぼうに跳ねのけられてしまった。
その後は食べ終わり、会計を済ませて店を出て、買い物をして帰宅した。同じ家へと。その後はいつも通りに過ごした。二人にとってのいつも通り、が出来上がっていた。伊織はそれを、不愉快だとは感じておらず、また、深く考えようともしなかった。ただ漠然と、微かな幸せを覚える自身を、見つけないように目を逸らしていた。見つけない限りそれはいない、その可能性はない、そんな自分はいない、と頑なに信じようと、病根から目を逸らし続ければいつかは不可思議にもひとりでに完治してくれるのだと信じる患者のように。