風ノ便リ
チュンチュンと、雀の鳴き声を延寿は聞いた。
鳴き声がした方向へ、視線を斜め上側に向けると──『風聞』と、そう大きく描かれた看板が掛けられていた。木造の、年季の入った看板だ。
「ここ!」
花蓮が上機嫌な様子で手を向ける。
ガラス越しに見える店内は、落ち着いた明かりに照らされていた。昼を少し過ぎた辺りという時間帯なのだが、疎らにしか客はいない。
「なんかさ、良さげじゃない?」
「だな」
今までこの街で生きてきて、入ったことのない場所だ。その存在すら今知ったようにも思えてくる。延寿の記憶に、この店の姿はなかった。
『風聞』……風の便り。うわさ。
どういう意図なのだろうか。大々的にではなく、人づてに、自然に、そっと広まってくれるように、という意味合いか。
「じゃ、入りましょー!」
花蓮が入り、その後を延寿が続く。
店内へと────そして、「いらっしゃいませ」上品な風貌の、年老いた男性がいた。カウンターの端には藤籠が置いてあり、中に積まれた迷い猫のチラシがふと延寿の眼についた。真っ白で不機嫌そうな猫だ。眼についただけで、それ以上の何かは浮かばなかった。
「席って自由でいいんですか」
花蓮の問いに、その老人──示崎と名札にはある──はにこりと柔和に、「気に入った席へどうぞ、お嬢さん」と微笑む。堂に入った接客の笑みだ。
「はーい。行こ、よっちん」
にこやかな店主に見送られ、花蓮は窓際の席へと歩く。「ここにしよっかな。いい?」尋ねられ、延寿は「ああ」と頷き座ろうとし、「おまっちゃ……!?」「……?」珍妙な叫びが聞こえ、周囲を見回した。ご立派な髪の先端が見えた。リーゼントだった。片手に持ったスプーンと、そこに盛られたパンケーキの欠片を口に運ぼうとした姿勢で硬直している。角刈りと坊主の後姿もある。
「どしたの?」
延寿の向かいに着席した花蓮が、そう首を傾げる。延寿の視線の先を自らも見、「な、なんかガラ悪そうなのがいる……よっちん、まさか知り合いなの?」
「顔見知りだよ」
言い、延寿は何事もなかったかのように座った。「待てい! 何の反応もなしかてめえ!」リーゼントが立ち上がった。スプーンは器用に持ったままだ。坊主と角刈りがおろおろした表情をしている。
「公共の場だ」
静かにしろ、と延寿はリーゼントへと言う。
「あ……すんません」
あ……、で周囲を見回し、すんません、でリーゼントは店主へと頭を下げた。店主は苦笑し、「お友達と偶然会えてはしゃいでしまったのだね」と理解を示した。
「い、いや友達とかじゃ……」
言いかけ、無駄だと悟ったのかリーゼントはようやくスプーンを口に運び、咀嚼、嚥下したあと、延寿を一瞥して元の席へと座った。とりあえずは食べよう、という算段となったのだ。
「ロ高の人?」
小声で花蓮が尋ねる。「ああ」「ふーん」興味はもうなくなっているらしかった。「ケンカ、しないでよ?」「しない」
備え付けのメニュー表を縦向きにし、花蓮が覗き込んでいる。サンドイッチやコーヒー、ナポリタンなどが写真付きで載った、これもまた年季の入ったメニュー表だった。
「なに食べるー? よっちん決めたぁ?」
「ああ」
「なにー?」
問われ、延寿はメニューの一点を指す。ホットミックスサンド、との名称にこんがりと焼き目の入ったトーストと、ぎゅうぎゅうと挟まれたハムにレタスにトマトにタマゴといった一品だった。じっと花蓮はその写真を見た後、延寿の眼をちらと見て、
「……足りる?」
気遣うように尋ねる瞳の奥には若干のからかいが含まれていた。「オムライスとかいっしょに頼まなくていい?」
「それだけでいい」
「あとでお腹すいたって駄々こねない?」
「……きみは母親か」
「ふふ。ま、言っても私も食欲とかは……まあそんなになんだけどさっ……っし、決めた。すみませーん」
他に店員はいないようで、先ほどの老店主がゆっくりとやってきた。
「えとですね、よっち、こっちの男の子がミックスサンドと……コーヒー飲む?」「ああ」「アイスでいい?」「ああ」「それじゃあすみません、この『ああ』しか言わない男の子と私の分でアイスコーヒーのブラックを二つとですね、あたしがこの、……オムライスで」
注文を受けると、老店主は「かしこまりました」と微笑み、奥の厨房へと歩み去った。
「……お腹空いてるんだから仕方ないじゃん」
弁解するように、拗ねたように、花蓮。
「……俺の分も少しやろうか」
延寿としてはその言葉は十割の気遣いだった。お腹が空いているのだろうな、という優しさである。ただ、花蓮からしてみればその優しさはほんの少しムッとなった。
「よしまさの分まで食らい尽くしてやる」
だからそう返してやった。延寿の表情に、微かに笑みが過った。
まずコーヒーが二人分運ばれてきて、それからはまったくもって他愛のない会話が続いた。獅子舘椿姫の死に様にも、『案内人』についても、──花蓮の死についても、一切触れない、温かみのある会話だ。日常の延長線上で、いつも通りで、二人とも、延寿も花蓮も、お互いにお互いを気遣った結果の、優しみに満ちた会話。途中、食べ終わったらしいリーゼント一行がやって来て、
「おいおい、てめえ女連れかあ? 羨ましいこったな」
「言っとくが兄貴の『羨ましい』はガチの羨ましいだかんな」
「黙ってろ銀治ぃ、それは今必要ではない情報だろうがぁ隠しとけ」
「安心してくだせえ兄貴、女っ気のある兄貴なんて兄貴じゃねえです!」
「金蔵ぉ、お前も黙っとけやぁ頼むから」
角刈り(ギンジと云うらしい)と坊主(キンゾウと云うらしい)のエールを受けてリーゼントが延寿に睨み散らかし、
「なに? 数がないと威張れないとかダッサいんだけど」
花蓮が苛立たしげに受けて立ち、
「女は黙ってろぁ、俺が今話してんのはそこのテッカメン野郎なんだよ」
リーゼントの睨みに花蓮が怯み、延寿が身を乗り出しかけたところに、
「そうだぞ。お前は兄貴の好みじゃねえ!」
「兄貴の好みはそこのテッカメン野郎がこの前いっしょにいたフードの女だ!」
「だぁかぁらぁ、黙ってろってのこの馬鹿たれ共がぃ! お願いだからよお!」
好みを暴露されてリーゼントがキレ散らかした。
「フードの女……?」
花蓮の怪訝な視線を受けつつも、延寿は立ち上がり、多少鋭利さを増した双眸を向けた。それだけで三人組は怖気づいたかのように口を噤んだ。
「悪いが、これ以上の会話は必要なく思う。早々に立ち去ってくれ」
チッ、という舌打ちとともに、大人しくリーゼントたちは会計を済ませ、老店主に無言ではあるものの、迷惑をかけてしまった詫びなのか軽く会釈をし、去って行った。老店主はにこにこと微笑ましげだった。
「フードの女って?」
「前、繁華街であの三人組に囲まれていた」
「ふーん。へー……ご立派なことでねぇ……」
じっとりとした視線を浴びせられている最中に、店主が花蓮の頼んだオムライスを持ってきた。「わーおいしそー」花蓮の注意がオムライスに向けられた。
やがて延寿のミックスサンドも運ばれてきて、それから二人は手を付けた。
その後の会話も、何一つ血生臭くなかった。
何も起きておらず、誰も死んでいなかったみたいに、平和的で……きっと誰よりもそう望んでいて、そうあってほしくて、一人の青年の心の平穏が続いてくれるようにと願ってくれている少女は、もう既に殺されていて……なぜだか、生きている。そして青年は、その理外の出来事から目を逸らしている。まるで目を逸らし続ければ、少女が生き続けてくれるのだと思い込もうとしているかのように。その事実に触れてしまったが最後、少女の身体が再び、真実の諸手に千切られていくのだと恐れているみたいに。
「……なに、見てんの? オムライスを食べる私がそんなに可笑しい?」
いつの間にか目の前の食事姿を眺めていたようだ。花蓮の不満そうな視線を受けて、
「いや……美味しそうに、きみは食べるんだな」
延寿はそう、言葉を濁らせ、視線の真意をぼかした。
「だって美味しいんだもん。……欲しい?」
にやり、と花蓮が挑戦的な目つきで、一口分のオムライスを丁寧にスプーンでくりぬき、延寿へと差し出した。あーん、の構えだった。
「……」
向けられたスプーンを前に、思案する延寿。にやにやと花蓮。意地悪そうな笑みに、紅潮しゆく頬。その瞳には、期待と後悔が混ざり合って揺れている。「きみがそれでいいのなら、」
そう前置き、
「ありがたく、いただく」
「おおっ……!?」
延寿は口を開いた。なにか驚愕の声が聞こえた気がするが、まあよしとした。
「おお……」
一口分のオムライスを、一口でいただき、咀嚼し、飲み込み、
「確かに……美味しいよ」
「そ、それはよかった……です、うん……」
花蓮は空っぽになったスプーンを一秒ほど見つめ、自分の分のオムライスを乗せて、無言で食べた。「なんか、負けた気分……」そんな敗北宣言を小さくこぼしながら。「むー……」小さく、にらみつけながら。
「……っ!」
すると花蓮は延寿の食べかけのミックスサンドを無慈悲にも強奪し、食べた。顔は紅いままだ。
「食べてやった!」
そして勝ち誇った。
「……うまいだろう」
こみ上げる笑みを抑えるべきではないと、延寿は理解している。
「うんっ」
花咲く笑みの彼女が、視界に生きている。
花のような笑みだ。そこに死の痕跡はない。……ただ、不可思議にも手折られたことを忘れた花とて、やがては枯れる。生命に永遠はなく、命を消費しつくした先にあるのは意識の永続的な〇、それだけだ。果たして死体からの強制的な蘇生は人体にどれほどの負荷を与えるのか。人体が復元されるほどの生命力はどこから持ち込まれたものなのか。細胞が再び彼女の意識を―とするほどに分裂を繰り返し満ち満ちたのなら、それはどこからきたものなのか。過剰な増幅を促すような作用に、なにか、不具合は、異常は、起きはしないのか。
ふと、脳裏を急速に蝕んだ不愉快な思考を抑え込み、延寿は現在のみを見据えることとした。つまりは彼女を。生きている花蓮を。
そうして一口、自らのホットサンドを齧り、咀嚼する。先ほどまでとは違い、少しも美味く思えなかった。永遠などなく。やがては枯れる。やがては朽ちる。やがては終わる。いつかは来る。必ずやってくる。必然的に訪れる。どんな形で? どんな姿で? どんな在り様で?
止まらない自らの思考が疎ましかった。