『養子』と故郷
私は涯渡家──いや、邸と呼んだ方が相応しいか──涯渡邸の門前に立っていた。
ここが、これからの私の家。私の新たな故郷となる場所。感慨……深かったのだろうか、当時の私は……淡々と、視界の奥に佇む巨大な屋敷を見ていたようにも思う。三階建てなのだろうその建物の、白を基調とした外壁はつい先ほど建てられたかのように真っ白で、屋敷の表面を飾る格子窓のひとつひとつが遠目で分かる程に磨き上げられていた。ひと際目を引いたのは、屋敷に付設するように聳え立つ塔だった……その外観は、塔、としか云えなかった。周囲の森の樹々よりもなお高く、もしも真横から森を見たら、塔の頭だけがぽんと飛び出ていることだろう。何のために存在するのか、その時点の私では想像しようがなかった。
「古びたものだろう?」
門扉にかけられた錠前に鍵(これがまた古びていて、正に〝鍵〟という見た目の鍵だった)を差し込み解錠しつつ、涯渡氏は私に笑いかける。古びた、とは謙遜なのだろうか。それともひとつの冗談?
「とても、そう思えません」
氏の言葉に対し、私はそうやんわりと否定した。氏は朗らかに笑った。
ここが私の新たな故郷となる処。
〝故郷〟を転々としてきた我が心中に、特に何か波紋が起こるわけでもなかった。
人生は不可逆の道を辿る旅だ。歩いた先から背後は消えゆき、眼前、視界の中にしか世界はない。時間の流れに押し流されて停滞の瞬間はなく、故郷すらもやがては背後に消失する。歩き続け、求め続け、探り続ける。私はその旅を、永遠のものと成したい。……ああ、これは私の記録だ。本心を綴るのが望ましいだろう。私は歩き続けたい。此処に踏み止まりたくない。死は、もう私に何もさせてはくれなくなるから、嫌だ。不老不死など夢物語だ。だが私は、歩き続けられるのなら、私の意識が続いてくれるのなら、例えそこが客観的な意味合いにおいて夢の旅路となろうとも構わない。私の意識があり、〝私〟があるのなら、そこが私の現実だ。主観も客観も、関係ない。
門を開けると、涯渡氏が真っ直ぐ先を指さした。其処には、屋敷の正面、遠目にも大きいと分かる玄関扉があった。
「奥に、玄関ポーチが見えるだろう? 歩いて行けるかい? 私は車をガレージに置いて来るから」
「真っ直ぐの道で、どう迷えと云うんですか」
私の生意気な返答に、氏は鷹揚に笑い、「真っ直ぐに思える道ほど、ヒトは時に頭を悩ませるものさ──果たしてこの道が、目的地が既に見えている進むにあまりに易いこの道が、本当に正しいのか、とね」そんな冗談。歩いて数分もかからない直進で、なぜ思考を迷わせる必要が生じる。そう、私は小生意気な考えでいた。だが、目的が眼前に見えていて後は足を交互に動かし進むだけ、そんな状況であっても……時に人間は、悩んでしまうものだ。
「大丈夫さ、由正。この真っ直ぐの道は正解だ。きちんと玄関扉へ辿り着ける」
「……はい」
私の返事を聞くと氏はエンジンをかけたままの車に乗り込み、緩やかにハンドルを切って敷地内に延びる道を逸れて行った。屋敷の隅にシャッターが見えた。恐らくそこがガレージなのだろう。
両開きの玄関扉には古めかしい威圧感があった。
私の背丈よりも随分と高い扉の前で、涯渡氏が来るのを待っていた。やがて氏は来て、鍵を取り出し、鍵穴へ差し込み、回す。ガチャリ、という重い音がした。
「由正の分の玄関の鍵も、後で渡そう。もう作ってあるんだ」
氏は言い、扉に手をかける。
開ける。
ギイイイイ、と錆びた蝶番の軋みが響く。
ふわりと、古びた風が鼻腔に入った。不快ではない匂いだ。
屋敷の中は薄暗かった。窓から差し込む光がはっきりと形を為していた。微かに舞う埃が見えた。奥には二階へ上る大階段があった。吹き抜けだ──「ようこそ、槐由正くん。そしておかえり、涯渡由正」
エントランスホールへそして、私は氏とともに入った。
高い天井には瀟洒な照明が光無くぶらさがっており、明かりは落ちてくる光だけだ。ホールの隅には大型の置き時計が厳めしく振り子を揺らし時を刻んでいる。
「案内は必要かい? それとも、自分で好きに見て回りたいかな?」
氏が、私に二択を提示する。
今の私には時間があり、また、氏を煩わせるのも気が引けた……という建前のもと、自由に動きたかったのもあり、
「自分で見て回ります」
返事は後者だ。私に案内人は必要ない。
氏は懐から鍵を取り出し、「これは今から、きみのものだ」と私の手に握らせた。これは、という私の疑問の色を感じ取ったのだろう、氏はにこりと笑うと、
「マスターキーだよ。さあ、好きな部屋を、好きなだけ見て回りなさい」
私は早々に、この屋敷内での自由を得た。
「その鍵なら、ほとんどの部屋を開けられるだろう──もし開けられない部屋があったなら、そこはきみにはまだ早い場所なんだ」
その言葉の間も、氏は穏やかに笑んでいた。
訂正する。私はこの屋敷内における九割ほどの自由を得た。
残りの一割も、その直後でこそなかったが、後に得ることとなった。
「ああひとつ、きみに怖い話をしておこうか」
改まった表情で、氏は私の瞳を見つめる。見透かすようなその双眸に、私は気味の悪さと、微かな苛立ちを覚えた。「怖い、話?」「ああ、怖い怖い、お話だよ」氏の表情は冗談のソレだ。
「きみはこのお屋敷の奥で、いつの日か化け物と遭遇する」
断言だ。氏はあくまで冗談めかし、親が子どもを親愛の心からほんの少しだけ怖がらせようとするときのような響きでもって、そう言い切った。
「それは怖いですね」
「ああ、怖いだろう」
対する私の反応は冷めたもので、およそ氏の期待には沿えないつまらないものだっただろう。それでも氏は愉快そうに笑っていたのではあるが。
屋敷の奥で、私が、化け物と、遭遇する。
氏のその断言は、現在を持ってなお冗談として記憶されている。彼の言った〝いつの日か〟はまだ訪れていないようだ。