退院ノ日
ほどなく、延寿は退院となった。
そもそもが何の外傷もなかったのだ。すぐさま健康体そのものとなり、体調が万全な人間に医者は要らないとばかりにことはとんとん拍子に運ばれ、延寿は今、病院のロビーにいる。
これから病院を出ようというところであり、彼の傍らには花蓮の姿があった。きちんと動き、喋り、笑う、退院の日を迎えた今日、迎えに来てくれた幼馴染の少女の姿があった。
「あー、すっごく良い天気!」
空を仰ぎ、ぐ、と花蓮が伸びをする。
出入口の自動ドアを抜けた先には、皮肉なほどの青空が広がっている。梅雨の合間に見る、抜けるような青空だ。光が世界に満ちていると錯覚するほどに、視界は明るく、そして拓けていた。
「獅子舘さんについて、何か聞いたか」
傍らの花蓮へ、延寿はそう尋ねる。
明るく清らかなこの場に相応しくない、どす黒い話題だった。伸びたままの花蓮は延寿を見、あからさまに眉をひそめた。『え、今その話する……?』とその眼は非難の色を帯びていた。
「誰が彼女を殺したのか知りたい」
「……『案内人』だって、聞いたけど」
「それは誰が言っていた」
「え……と、取兼先生」
「そうか……」
あの場には取兼の姿もあった。
机上には花蓮の引き千切られた身体があり、獅子舘椿姫が嗤っていた。異常なまでの怪力を、どこかから得た彼女の姿があり、『案内人』の姿はなかった。
(気絶させられた後で、『案内人』が現われたのか?)
(それとも、残る一人である取兼が……?)
疑問が二つある。
いいや、もう一つ、あったか。
「? どったのよっちん?」
なぜ、花蓮は今、生きているのだろう。
「なんでもない」
「えー、ゼッタイ今のってなんでもあった眼つきだったんだけど」
……些末ごとだ。いま生きているのなら、生きているで良い。
ああしかし、それは世の中の常識としては、凡そ正しくないのか。
「まあ、どうでもいいことだよ」
言い、延寿はさっさと歩き出す。
自宅までは徒歩でも充分な距離だった。すぐとは言わずとも遠からず辿り着ける。そこに待つのは、一人暮らしの我が家となる。
「ああもう待ってよっ。なんだってのっ」
花蓮が追いかけてくる。
獅子舘椿姫は殺され、鷲巣花蓮が生きている。
歪みが生じた結果がそうであれ、正すつもりは起きなかった。そもそもが、どうすればいいというのか。世界が狂ったところで、俺にできる何がある。巻き込まれるほかないだろう。ゆえに延寿の採った行動は、放置、それだけだ。
「あそうだよっちん。せっかくだからさ、なんか食べてこーよ。お昼まだでしょー?」
隣に並んだ花蓮が言う。「良さげな喫茶店、実は見つけたんだっ」楽しそうに、花の咲くような笑みを絶やさず……無残に手折られた花が、その過去を忘れたかのように。
「どんな名前の店だ」
「えっとね確か、『風聞』だったかなあ」
風聞。風の便り。風の噂。
「ガラス越しに見た店内、なんか良い感じだったし、あたし一人だと入りづらいしさ、今よっちんがちょうどいるし、ご利用にごいっしょしてよー。お暇でしょ、元気なんでしょー?」
「……分かった」
延寿はその名称に見覚えも聞き覚えもなかった。月ヶ峰の街中にこのような喫茶店が存在しているのも、今知ったほどだ。
「ありがとっ」
えへへ、と嬉しそうに、心の底からそれが喜ばしいことであるのだと全力で表明しているみたいに花蓮は笑みを浮かべ、立ち止まり、見上げ、
「それでは今から良さげな喫茶店へ、あなたをっ……」
何かを言いかけ、あっと気づき、思いとどまり、逡巡し、思い至り、
「連行します!」
言い放った。
延寿の眉が、微かに下がった。
「俺は悪人か」
返す言葉に宿すのは、親愛それだけだ。
花蓮が言い留まった理由も、何を言わんとしたのかも、予想はついた。ご案内、という言葉を彼女は避けたのだ。今この街において、その言葉は殺人鬼を連想させる。
「仕方ないじゃん、ほかにいい言葉が浮かばなかったんだから」
軽やかに笑うと、こっちこっちと花蓮が歩き出す。早く早くと急かしてくる。急ぐ理由なんてないだろうに。刻限が決まっているわけでもないだろうに、良い体験となるだろうことを早くいっしょに味わいたいがために、それだけの理由で彼女は急かすのだろう。
「今日退院の人間をあんまり急かさないでくれ」
口にするのは冗談で、
「何言ってんの。元気いっぱいのくせに」
返されるのも冗談だ。
前を歩く彼女の背を追い、歩きつづける。彼女の案内に導かれ、目的地へと歩みを進める。空は青く明るく、光に満ちている。皮肉なほどに。