再び
目が覚めたとき、延寿には現在しかなかった。
どんな経緯で、どうしようとしていたのかが、すっぽりと抜け落ちていた。経緯が分からない為、今いるこの場所がどこか分からず、どうしようとしていたのかが分からなかったから、どんな感情を抱くべきなのかに戸惑いがあった。
(此処は──)
自室ではなかった。「……」これはいったい。
「あ、目、目ぇ覚めっ……!?」
声。驚愕が顕わの。聞き覚えのある……「ちょっと俺お医者さん呼んでくる!」駆けて出ていく音。扉が閉まる音。「お医者さんて。なんで急にお行儀良くなってるんだよ」呆れたように、もうひとつの声。やはり聞き覚えのある……「おい」
「おい、延寿。聞こえてるか」
視界に映っている。
白髪で、灰眼……沙花縞伊織だ。
「安寺冬真のやつが今、大慌てで医者を呼びに行った。すぐに戻ってくるんだってさ」
安寺冬真が。医者を、呼びに。
そうか、と延寿は納得する。徐々に、過去が思い出されてくる。あのとき、小比井美衣に切りつけられて、気を失った。そして運ばれてきた。救急で。だからここは病院だ。恐らく、安寺冬真が入院しているところと同じ病院だ。
「だいたいお前さ、僕を自分の家に置いてけぼりにして自分は入院って、なんなんだよお前ほんとおまえはっ……! なんなんだってんだっての……! くそっ…………心配したんだからなっ」
怒った様子で、伊織が言い、「ああ待て、待てよまだ喋るな。お前、首を切り付けられたんだからな、喋ると危険そうだから医者が良いって言うまで黙ってろ。黙るの得意だろ」焦った様子でそう付け加えた。延寿が頷こうと首を動かすと、「あ!? く、首も動かすなよ! 傷口がなんか急に開いて血が噴き出したらどうすんだよ!」怒られた。
大人しく、伊織の監視の下で延寿は冬真が医者を連れてくるのを待つこととなった。ぐるりを見渡すも、ここは病室だと再確認するだけである。窓の外の小枝に、白い小鳥がとまっている。
やがて扉が開かれ、冬真と共に入って来たのは一人の年配の医師(紙谷学、と名札にはあった)と看護師だった。
延寿の傍へと紙谷医師は近づくと、「あなたは首を、刃物で切り付けられました」まず今に至った原因を、穏やかに口にする。「出血がひどく、ここに運び込まれるまでに失った血の量は致死のラインを越えていました」そこで、紙谷医師は愛嬌とすらとれる崩した表情で、「無責任な表現をしますが……僕には、奇跡が起きた、としか思えない。致死量を超えた出血だったのは、確かです。あなたの生命力が常人よりも遥かに優れたものだった、と言うほかありません」
紙谷医師は温和に告げ、「とにかく、今は〝どうして〟という不思議よりも、あなたが生きている事実を喜ぶべきです。あなたの傷口は、既にもう塞がりつつある。その首に巻いているものも、実を言うならもう不要です。でも、不都合かもしれませんが、もう少しの間だけ巻いていてもらいますがね。あなたは喋ることが可能ですし、首を動かすのだって以前と何ら変わりなく行えますよ」
そう言うと、「提出すべき書類などの事務的な手続きは、もう少しあなたが事態を知ってからでも遅くありません」と紙谷医師は看護師とともに退室した。
あとに残されるのは、延寿と伊織と冬真の三人である。
伊織は居心地悪そうに椅子に腰かけ、冬真は病院着で壁にもたれかかっている。
「動けるようになったのか」
延寿は自然な様子で、冬真へ尋ねた。
「おう。まず間違いなく、今のお前よりかは健康体だぜ。汐音ももうすっかり元気だ」
冬真は笑い、「と言っても、看護師さん達にはあんまり動き回るのは良い顔されないけどな」
「しかし驚いたわ。まさかなあ、由正、お前もこの病院に来るなんて……最初それ聞いて驚いてよ、見に来たらなんか知らない少年がいて更にびっくりだったんだわ」
と、伊織を見る。
「お前らと同い年だよ」
苦虫を噛むように、伊織が言い返す。
「このでかいのがいつまで経っても帰ってこなかったんだ。気になって風紀委員長のヤツに電話したら、『入院した』って言われて、いっしょに連れてこられた」
獅子舘椿姫とともに伊織は来たようだ。ではその椿姫本人は?
「獅子舘さんもか」
「シシタチさんならご用事とのことで先に帰宅したよ。僕を置いてな」
伊織の言葉に、「うんうん置いてけぼりだ」と冬真が頷く。
「そしたらお前の目が覚めた」
そういう次第であるらしい。
「けどさ、お前……頭のおかしいやつに襲われて仕方なかったとはいえ、僕を家に泊め始めた次の週には入院ってお前……」
じっとりとした半目で、あーあと伊織は腕を組み息を吐いた。この件に置いて延寿は一被害者であるため、責めるに責められず、また責めるつもりもなくただ何か言葉をぶつけたかっただけで自分でもよく分からない心境でとりあえず生きていてよかったよもし死んでたらと思うとぞっといやなに違う僕はそこまでお前に入れ込んじゃいないと思考を一人巡らせて悶々としていた。
「……なあ真面目な話、お前を襲ったのもガイドなのか」
表情を改め真剣なものとし、冬真が延寿へ尋ねる。
「いや、違う。この傷は小比井美衣の……『模倣犯』に因るものだ」
「ああ小比井が……聞いたよ俺も、獅子舘さんにな……あのにゃーにゃー言う能天気なヤツがなあ、いやよ、お前がこうやって被害を負っている前で言うのも悪いんだけど、なんかよ、意外だなって……そう、思ってさ」
気まずそうに頭を掻き、視線を逸らし、冬真。
「生きているだけ、良いのかもな。俺も、お前も」
言い、冬真は腹部を無意識にかそっと抑えた。
そこは彼が刺された箇所だった。
本物の『案内人』に、刺されたときの傷跡だった。