幼馴染ト
雨粒の音を聞いていた。
一年と二か月ほど通った路は雨の夕方というのもあり既に薄暗かった。チカチカと電灯が点滅していた。車が過ぎる排気音を聞いた。雨音。すれ違う人々の顔は皆憂鬱そうに俯き、黒色の薄暗い傘を差して表情が陰っていた。無彩だ、と延寿は思った。今見える景色は無彩だ。連日の雨ですっかりと色が落ちてしまっている。
「雨雲って何で黒いんだろうね。よっちん知ってる?」
「雲が分厚く、下からだと影ができる」
なんとなくの質問。
面白みのない真面目な解答。
「あたしたちも来年から受験生かー。よっちんは進路決めてる?」
「進学するつもりだよ。花蓮は?」
「あたしもそのつもりだけどさ、はーあ、今の三年生を見てるとなんかめんどくさそうだよねえ、忙しそうだし……勉強だって、二年の今のうちからしておけって言われてるじゃん。苦手科目を無くせーだとか、基礎を固めておけーだとかさ。宿題もこれでもかって出されるし」
「勉強が俺たちの本分である限りは仕方のないことだ」
「宿題忘れない予習復習欠かさないテストとからっくしょーだわのよっちん(くそまじめ)ならいいけどー。あたしはー、基本べんきょーきらいなんですー」
はあ、と花蓮がくるくると柄を回転させ、彼女の傘が回る。
延寿の隣を歩く花蓮の傘は、この街の中で唯一の彩りのように感じられた。目に鮮やかな緑色だ。
多少規則に怠けるきらいはあるが、常に明るい彼女を延寿が不快に思ったことは一度もない。規則を破っているから注意を行う。なにもそれは彼女のことを嫌っているからではないのだ。正しくないから正しくないと申し出て、是正を要求しているだけだ。他の生徒にしてもそう。一切の不愉快を感じないと云えば嘘になるが、それでも延寿が悪意や敵意を前提にして風紀的な指導を行ったことはない。
規則に沿わない態度を一切認めない……そこに人間的な想いはなく、規則を基にした境目を見、そこを踏み越えているか否かのみで判断している。相手が誰か、は無関係で、どんな行動をしたか、に着目している。例えその人物が涯渡生徒会長であろうと、教諭であろうと、無関係な大人だろうと、規則が引いた寛容の線を踏み越えているならば延寿は言うだろう──「ちみの行動はルール違反だ。速やかなゼセイを要求する」と、そう。
延寿は隣を見た。
にまにまと、花蓮が上目遣いで見ていた。
「うふふ、似てたでしょ? よっちんのまねー」
唐突な物まね。普段の延寿の言葉を真似たのだろう。
延寿は特に表情を崩すことなく、普段の自分はそんな口調なのか、と他人事のように思った。ただ、
「ちみ、とは言わない」
「あれれ、言ってなかったっけ?」
「言っていない。俺が知る限りの俺は、他人を指すときはきみ、だ」
ちみは看過できなかった。そう呼んだ記憶はないからだ。
「言うとウケるかもよ?」
「笑いを取る必要はなく思う」
「よっちん、いっつも真面目でぶっちょーづらで鉄仮面なんだからさ、そこを逆に利用するんだ。よっちんのお堅い表情から『ちみ』なんて単語出てきてみなよ、あたしなら笑い死ぬよ?」
「それはきみだからだ。ある程度俺に近しくいてくれる。そうでない人間ならただ困惑して終わるだけだろう。笑いすら起きないよ」
「ふっ……ふーん? あたしが近い、ってのはよっちんにも自覚あったんだ?」
「他の人間と比較しても付き合いが長い……そりゃあ、分かるさ」
「おー……」
延寿は並び歩く花蓮を見た。
彼女は目をぱちくりさせた後、空いている手で顔を覆って、そのまま顔を逸らしてしまった。
「……デレられちゃった。めずらし」
そんな呟きを、延寿はしっかりと聞いた。
デレたつもりはない。事実を事実のままに、正しい形で伝えただけだ。
反対側を向いて黙りこくった花蓮は、それでもしっかりと歩を進めている。その歩幅に合わせて延寿は歩き、雨降りの街の静寂さを耳に満たしつつ、ぱらぱらと弾け続ける雨粒の音へ意識を向けていた。この通りから横に曲がって進めば繁華街が続いている。当然、行こうというつもりはなかった。
すると。
「不純異性交遊はいけませんよ。延寿さん」
背後から、そんな声を聞いた。
声の主が誰であるのか、延寿はすぐに分かった。「そう見えていても、実際は違う」振り返りもせずに延寿は淡々と答えた。傍らの花蓮はといえばすぐさま振り返り、「あはは。よっちんはこんなだから、麻梨ちゃんの思っているカップルとは違うよ」そんな社交的な笑みを向けている。
そして、肩越しに延寿は背後を見た。
真っ黒な髪を二つ結びに肩へ垂らした、花蓮ほどの体躯の少女が延寿が持っているものと同様の白いビニール傘を片手に差して佇んでいた。
「後ろから見たらとても仲睦まじそうに見えました。前から見てもきっと仲睦まじく映ったことです」
少女──巌義麻梨はそう笑う。
制服姿ではなく、デニムパンツに爽やかな青の色合いをした七分袖のニットと、私服姿だった。
「不純異性交遊は禁じる──或吾高校の校則です。取り締まる側の延寿さんがそれを破っていたら、同じ風紀委員として私はあなたに指導するつもりでした。けど良かったですよ。苦楽を共にした同胞を泣く泣く処さなければならないのはイヤでしたから」
「幼馴染だよ」
延寿はきっぱりと言い切った。
「分かっています」
巌義は言う。「延寿さんと鷲巣さんと私は同じクラスなのはご存知でしょう? 少しからかっただけですよ」
「……きみは一人か」
「はい」
「どうしてここにいる?」
延寿は巌義へ尋ねる。
通りの両側にはビルが建ち並び、一階にはコンビニや古書店、怪しげな美術品めいたものが並べられた骨とう品屋などのテナントが入っている。時間を潰す理由はあるだろう。
そして延寿たちの前には十字路があった。そこを曲がってまっすぐ行けば繁華街だ。
「WWDW、です。個人的に思うところがありますので、それについて調べていました。延寿さんは何か掴んでいますか? イセカイの出どころなどは分かっていませんか?」
探るような巌義の視線へ、
「何も知らないよ」
正面から延寿はそう答える。
「では、調べようという意欲は?」
「個人的な事情としてひとつ。そして風紀委員としてもひとつある」
「そうなんですか。なら私といっしょですね。私も個人的な事情としてひとつ、そして風紀委員としてひとつ、WWDWに携わる理由があるんです」
すたすたと巌義は延寿の前へと近寄って来、片手を差し出した。
「唐突な申し出となりますが、協力し合いませんか──同じクラスから選出された二人だけの風紀委員として」
協力の申し出を断る理由を持っていない。
そのような理由で延寿は応じることに決め、無言で頷くと差し出された手を握った。ふふん、と巌義は満足そうに笑みを浮かべると、
「これで協力関係は成立しました。私たちはこれからパートナーです。情報提供をお互いにしあいましょう──そして、WWDWについて知るのです」
手を離し、巌義は軽快な足取りで延寿たちから離れ、「私はもう少し調べます」
「一人でか?」
「一人の方が動きやすいんです。あまり危なそうなところには突っ込みませんよ。繁華街にも行きますが、ほら、今の私は私服姿です。制服ではありません。だから延寿さんは私を怒れない」
くるりと回り、にぃと巌義は延寿たちへ笑みを向けた。それは薄く貼りついた笑みのように延寿は見えた。今、彼女は本当に笑ったのだろうか。
「暗くなったらすぐに帰ります。門限がありますので。ガイドだっていますから」
延寿の懸念へ全て答えを出すと、「それではまた、です。仲睦まじいお二人さん」と巌義は十字路を曲がって行った。繁華街へ向かったのだ。
「麻梨ちゃん大丈夫かなぁ」
花蓮の言葉に、延寿は「出過ぎた真似さえしなければ大丈夫だろう」と返す。
巌義はしっかりとした少女だ。言葉遣いも丁寧で、物腰も穏やか。風紀委員として規則に従順で、延寿とは違いある程度の愛嬌も兼ね備えている。
「よっちんだって大丈夫? クスリの出どころを探るって……ゼッタイに安全なわけないよ」
「……だろうな」
「…………私は、反対だよ。そういうのって、警察に任せりゃいいじゃんか。自分から首を突っ込むのって……危ないよ」
ただ、それでも──危険は伴う。
今の月ヶ峰市は正常ではない。
「……」
「あ……」
延寿は立ち止まり、前方を睨みつけた。
口をぽかんと開けて前を見る花蓮を片手で制し、少し後ろへ下がらせた。
WWDWはもちろんのことだが、何よりも危険性が大きすぎる存在がいる。文書の中で自らを〝異世界へ送る者〟として名乗り、大衆の前で堂々と殺人を行えるようなそんな、化け物が、『案内人』がどこかに潜んでいて、そしてそれは────
今、目の前にいる。
周囲の音が掻き消えた。
十字路の奥、街路樹の真下。
どこから現われたのか。
いったいいつ現われたのか。
真っ黒なレインコートを雨風にはためかせ。
目深にかぶったフードの奥は窺い知れない。
ただ、そんな殺人鬼の視線が疑いようのないほどに自分たちへ注がれているのを、延寿は背筋の寒気と、早鐘を打つ心臓と、整わない呼吸と、意思とは無関係に震え始める四肢で実感していた。恐れている、と思った。今、俺はあれに恐怖している。
だが、恐怖しているから、なんだ?
正しくないのだ。あれは……決して! 正しくは! ない! 是正すべきものだ。是正すべき、そう、正さなければならない。
自身の根幹となる正しさが目の前のアレを否定する。アレは歪だと脳が喚く。延寿自身もそれを知っている。分かっている。歪を前に、自身を発奮させる。
だが、それ以上に、その奮い以上に──延寿は。
「っ……!」
『案内人』に対して恐怖する自身を、確かに見ていた。