その名は不如帰。
そうだ!不如帰が鳴く時に嫁取りするかんな、一旗上げて帰ってくるかんな、待ってろ。
そう言いおいて……あいつは江戸へと行っちまいやがった。クソ腹の立つ!それを待ってまって、馬鹿なあたしはずっと待って……。
「どした?姉ちゃんワケありか?団子食うか?水飲むか?」
着の身着のまま村を飛び出して来たあたし、街道を走って走って走って……朝が来て腹が減って動けなくなった。仕方がないので道端で座り込んでると、おっさんが声をかけてきた。
水が入っているらしい竹筒を差し出された。それと団子の包みを開けて見せられた。腹の虫がキュルキュルと鳴く、ニマリと値踏みする様におっさんが菅笠の下から見てくる。これに手を出したらいけない、売られちまうか、やられちまうと思ったあたし。
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「隣村の平助の家にやる事にした」
ほら、嫁き遅れになるから親父が勝手に話をまとめてきたよ!来年には兄やんの嫁取りがあるから、小姑がいたら邪魔なんだと。年の離れた下の妹や弟は良くて、あたしはいらんっか?。
「平助って!あの?金持ちだけど、確か四十路過ぎてて、そんなことはどうでもいいよ!そう!『鬼婆』……、そう呼ばれるおっかぁが、とんでもない性悪婆で、来る嫁来る嫁気が触れたって評判だよ!」
「うるせい!親に逆らうのか!そもそも村内からくる話、みんな蹴っちまったお前が悪いんだろうが!」
「そんな事言ったって!た、田吉が嫁に貰うって、おっとうにも言いおいて、出たから!待ってるっておっとうも言ってたじゃないか!」
「お民や、花の十八番茶も出花。お前いくつになったんだい?年明けりゃ二十歳だろ、ワシもお前のおっかさんも、お前の年にはもう三人も四人も産んでいた」
ちっ!ばあちゃんが、針仕事しながら口を挟んで来やがった!
「………若い男はそんなもの、諦めなお花。嫁に行くなら金持ちがいいって、お前は幸いな事に、婆様に似て気が強い、上手くやれるって……ほんの少しだけ頑張りゃ『鬼婆』もポックリ逝くんじゃないか?うちの婆様より上だし」
おっかあがするりとあたしにすり寄ると、こっそり耳に囁いてくる……。は?何を頑張って、ポックリ逝かすんだよ、なんてこと言うんだよ、ったく。
「………ったく、ろくでもねえのに騙された!オラが馬鹿だった。平助が支度金持ってくるとな、もう話をまとめたんだ、ほんとなら嫁き遅れのおまぇは、持ってく側なんだか、貧乏暮らしだて出せねえ!つか!出す気もねぇ!田ごしらえする前に祝言だで、そのつもりでな」
はいいい?『支度金』って?あたしゃ鬼婆に買われたのかよ!なんてこったい、こんなことなら、こんな事なら……あたしはぷるぷると震えた。親父の隣にちんまり座る兄やんを見れば……
「も、物入りなんだ、すまねえ、女衒に売られるよりやぁ、マシだって、な、な」
だめだコリャ……。
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団子のおっさんは、思った通り女衒だった。カラカラに乾いていたし、腹は背中とひっつく、あたしは腹を括ってそれに手を出した。食べながらおっさんが聞いてくるままに答える。通り過ぎる皆に哀れそうに見られた。
「ふーん、そりゃ姉ちゃんもかわいそうになぁ……その、田吉っての、きっとお江戸でイイ事してんだよ、足掛け五年待ったんだろ?帰ってこねぇって、で!どうする?帰るんか?」
「帰ったら鬼婆とこにやられちまうし、どのみち帰れないよ。おっさんに助けて貰ったけど、あたしはこの身ひとつきりっきゃあ、持ってない、団子と水の代金払えと言われりゃ、身体で払うと言うしかないんだよ」
「ほお?姉ちゃん……その田吉とやらと『やってた』んかい?」
「あたりめーだろ!十五の春の別れにやりまくったよ!ちくしょう!あの野郎見つけたら、その男根食いちぎってやらあな!」
アーハッハッハ!姉ちゃん気に入った!とおっさんが笑う。そして手ぬぐいを懐から取り出すと、あたしの頭に被せた。
「その田吉って野郎探すつもりなら、いいところ紹介してやるよ」
「………、吉原ってか?女郎になってお客に取れってか?まぁ、おぼこじゃないよ、まっさらぴんでもねえし、客を取れと言われりゃ取ってやるよ、そして田吉が来たら金を搾り取ってやらァ!」
「ククク、いいねぇ姉ちゃん、もっと若い時に出会ってりゃ、残念だかな、花の吉原にはとうがたちすぎている、取ってくれても切り見世、そこには勿体ねぇ、それよりも必ず野郎共が通う店が江戸にはあるんだよ、知らないか?」
「……、吉原と女郎ってくらいしか知らねぇ、どこだい?そりゃ」
「湯屋さ、風呂屋、湯女になりゃ、そのきっぷの良さで人気が出ると俺は見込んだな、どうだい?来るか?」
「湯女?風呂屋の手伝いして、何で人気が出るんだよ」
「ククク、昼間はな、夕が来て窯の火を落とせば……夜はな………」
ゴニョゴニョとおっさんが教えてくれた、なぁんだ、やっぱり女郎になるんじゃねーか。
「主にはよく言ってやる。給金も弾む様に、借銭はなるべく掛けぬようにとな、そして名を売って、田吉とやらを網にかけるがいい、姉ちゃんどうする?」
行くに決まってるじゃねぇか。
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おっさんはあたしをよっぽど気に入ってくれたのか、途中、木綿の古着だけど着物や帯や下駄、少しばかりの紅白粉も、古物屋で歯のかけた柘の櫛やら買ってくれた。その店に行く前に、井戸を借りて身体を拭いそれに着替えた。
「髪も漉いとけ、ほらこれで括れ」
紅染めの組紐を懐から取り出すと、ほらと差しだしてくれた。綺麗な色……、日に焼け黒く、ガサガサに荒れた手に取るのが悪い気がする。
「い、いいよ、そんなきれいなの、誰かにやる土産なんだろう?それに着物も下駄も……こんなの着たの初めてだよ」
「いいってことよ、こりゃお前の餞別だし、着物や履きもんは、乞食みたいなのだと買い叩かれるからな、ちっと見栄え良くしとかないと手取りが悪い、真っ黒くろだしな」
あー、はん、そういう事。じゃ、分かったと組紐を受け取ると後ろで一つ括りにした。おっさんに買ってもらったもんを、これまた貰った風呂敷に包んで胸に抱えた。
「うん!まぁまぁってなところだな、じゃ行くか、心配しとらんが、愛想良くしとけよ」
「わかってるつーの!うーんと高く売り飛ばしておくれよ!」
さすがに、少しばかりどきどきしていたあたしは、わざと気の強い事を言う、おっかぁが言っていた事を思い出す。婆様に似てお前は気が強い、おっかぁも大概だっけど、うちの婆様も『鬼婆』程ではないがそれなりだった、ありがとよ婆様。
連れて行かれたのは、大きな風呂屋だった。見たこともない三階建の家、あたしは目を丸くした。ううん、そこにたどり着くまでなんという大勢の人間、目は開きっぱなしだった。
乞食もいた、物売りも、綺麗な着物を着てお供を連れてる女や子供も、頭巾や、傘をかぶった黒い羽織り着ている男や………街道で見る籠がしょっちゅう行き交う、それよりも上等の黒いのとか、キョロキョロしすぎておっさんに怒られた。
「ここだ!頑張れや」
昼間は風呂屋、夕方になれば……洗い場に屏風を立てて、三味が出来る姐さん達がそこに座ると、ジャカジャカ弾く、そして湯女達は客を取る。二階座敷を屏風やなんやかんやで仕切って、布団を並べたところで客取る店だった。
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そりゃ……、最初は意地悪されたよ、真っ黒くろの百姓娘、右も左もわからない。なのでしばらくは洗濯物をしたり、台所を手伝ったり、姐さん達の用聞きをしたり……、朝から晩までコマネズミの様にこき使われた。
でもそれは所詮屋根の下、意地悪っても『鬼婆』にされる仕打ちに比べりゃぬるいぬるい、働くのも野良仕事に比べりゃ、へそで茶をわかせる程度ってもんだ。何よりあたしは、早く店に出て、田吉の野郎をとっ捕まえたかった。
どれくらい時が過ぎたのか、髪を結うのが慣れた頃、日焼けが少しばかり抜けた頃、化粧が少しばかり上手くなった頃に旦那さんに呼ばれた。今夜はお前の初見せだと。赤の腰巻き、同じ色した襟が白の単と、帯を一本渡された。
「名前は何とする?」
ようやく迎えた日にそう旦那さんに聞かれた。風流なんて知らないあたし、こっちでつけようか?と言ってくれた時に、はっと閃いた!
「あ、えと……『ホトトギス』てのだめですかね」
「ほう、『不如帰』か、構わんようちは、雀も雲雀ってのもいるし、唄がうまいのは、うぐいす太夫なぁんて呼ばれてっから、分かった、あいつにあれこれ聞いたし、アレが見込んだお前は人気が出そうだ、大きく売り出してやるよ、がんばりな『不如帰』」
そしてあたしは湯女になった。
それからは、根性入れての毎日、月のものが来たときは、夜は休んで昼間の仕事をこなす。朔日だけが休み。初見の日に思ったよ、こりゃ……擦り切れてしまうかもと、すると女将が布海苔を使う事や、洗浄やと細々したことを教えてくれた。
ぽっと出がいい顔されないのは当然、周りは口も聞いてくれない、さて、どうしようかと考えていたある日、来たよ来たよ!神さんのお導きってのが!
その夜はこの店いちばんの『うぐいす太夫』ってかわら版に書かれる姐さんの隣で、あたしはお客を取っていた。男が盛り上がったその時!
「うお、な!なんだ!屏風を倒しやがって!てめぇ!」
「あー?何を抜かしてやがる!おめぇが倒したんだろうがぁぁ!やろうてのかぁ?」
どっちがかは、知らないけど仕切っていた屏風が倒れて、恥ずかしい姿が、あけっぴろげになっちまった。慌てる姐さん、火事と喧嘩は江戸の花っての?今にも取っ組み合いが始まりそうになった。
あたしは別に慌てることもない、だって狭い小屋みたいな場所で、ひしめき合って暮らしてたんだよ、田舎じゃ、そんなもの。田吉とは外だったし、祭りの夜なんかはその辺でよく見たし。
「やだねぇ、兄さん!慌てなくてもいいよ、ほら!見せつけてやりやぁいいってこと!」
あたしは立ち上がって構えた男の背中に、むしゃぶりついてやった!勿論手は……、大人の夜ってさ。
それからだよ。みんなに名前を呼んで貰える様になって、姐さんと仲良くなって、休みに甘酒飲みに連れてってもらったり、三味を教えてくれたりし始めたのは。
そしてこの夜の事は、もちろんかわら版に面白おかしく書かれた。『不如帰』の名前がぱぁっと広がった。次から次にお客が増えて行った……、来たよ来たよ!
「不如帰はお前かい?」
小間物問屋の番頭見習いとかいう田吉が来たよ、いや『太吉』になってた。忘れもしないその目鼻立ち、右の耳たぶにある『ほくろ』がお前だという証拠。しかし奴はあたしの顔は、すっかり忘れ果てていた。
「そうですよ、兄さん、二階に行かないない?」
にっこり笑って誘った。デレっと顔を崩した野郎、その鼻の下を伸ばした顔には、しかと見覚えがあるってんだよ!クソぉぉ!おのれ田吉!
「そうだ!不如帰が鳴く時に嫁取りするかんな、一旗上げて帰ってくるかんな、待ってろ」
それに気づかねぇのかよ!『ホトトギス』だよ!ホトトギス、よーく見ればあたしだってわかるだろ?
あの頃のあたしに言いたい……、待ってたお前は馬鹿だ。
チクショゥ!お前のおかげで危うく『鬼婆』に売られるとこだったんだよ!姐さんに甘酒を飲みながら、ここに来たきっかけになった、あの野郎とのあれこれとか、もろもろの打ち明け話をした事を思い出した。
奴の腕に絡まりつくように横に並んで、階段を昇るあたし。姐さんの声が頭の中でグルグル回る。
――「ふーん、その野郎が来たら、なるべく通わす様にしな、絞り取るだけ取ってやれ、先ずは簪でもねだってみな、クスクスクス、紅でも良いよ」
「簪ぃ?紅?貰っちゃいるけど、使わねえよ、夜には、さしてても床入りの時に外すんだろ、めんどくせぇもん」
「馬鹿だねぇ、紅一匁は金一匁って言う位高じきなんだよ、貰った簪や笄だって、店を出たら売れっちまえばいいんだから、それに吉原程でもないけど、ここに通うにも、金子はいるだろ……クスクス」
簪や紅なんか興味はさらさら無かったが、田吉の顔を見たら、右ほくろを見れば、それらがふつふつと欲しくなった。絞り取るとはそういう事かと思いつく。
だから今から事を起こして、終わったら……先ずは
「兄さん、いい男だねぇ、明日も明後日も……会いに来てくれる?」
そう言ってみよう、絶対に来るようにうんと気持ちよくさせてやって、ここに通うように仕向けよう、そして
「簪……さしてみたい」
なぁんて、言ってみよう、今までもお客から貰った事はあったけど、みんな箱に入れたまま、しまっている。
終。