1話:東北から集団就職で三鷹で就職。
1969年は、まだ景気が良く中学卒業者の求人倍率も5倍と高く特に特殊技能をもった者のは売り手市場で、意外にも簡単に仕事が見つかる時代だった。集団就職は1954年・昭和29年に東京・世田谷区の桜新町商店会が合同で求人を行い,東京都などの斡旋により,地方から中卒者が集団で上京したことに始まると言われている。1956年・昭和31年の7月17日、経済企画庁が報告した経済白書には日本経済は復興需要を通じ急速な成長をとげて戦争の傷跡は癒え「もはや“戦後”経済ではない」と宣言した。
その後の1964年・昭和39年東京オリンピックが開かれた。いわゆる「3丁目の夕日」の時代である。主人公の犬山重臣・「いぬやましげおみ」は山梨県の山村で1953年・昭和28年7月22日に犬山家の女2人、男2人・4人兄弟の末っ子として生まれた。食糧事情は改善されて、食べるもの手に入る時代になっていた。犬山重臣は3kgがっしりとした体格で生まれてきた
。3歳になる頃には畑のそばを走り始め5歳から野良仕事の下働きをはじめて7歳から小学校へ学校から帰ってきても勉強するのではなく農家の仕事を手伝わされ鶏への餌やり牛の世話を手伝いをする、心の優しい良い子に育ってきたが、その後も勉強をする気配がなく成績は中程度だった。しかし長女の犬山和子と次女の犬山次子がソロバン・コンクールで優勝してた。そして商業高校も優秀な成績で卒業した。
そのため犬山重臣も小さい頃からソロバンを厳しく教えられて、暗算も速く中学では数学だけがクラストップの成績だった。やがて中学に入りソロバン部に入りその才能が磨かれた。1970年、EXPO70・大阪万博が開かれた年で、世界中から多くの人が集い、明るい日本の将来を予感させる催し物だった。しかし実際には1960年代の急激な経済成長から1972年になると陰りを見せ始め1974年には戦後初のマイナス成長となり、やがて安定成長・緩やかな成長の時期を迎えていくことになる。
1969年は中学卒業の求人倍率が5倍を超え特殊技能を持った者は更に求人倍率が高く東京で真剣に探せば就職口が容易に見つかる時代だった。そんな1969年3月、犬山重臣は中学卒業し16歳の春、東京に憧れを持っていた。そんな時、長女の和子が三鷹の多摩信用金庫で働いていたので和子に電話をして就職先を調べておいてもらった。 数日後、電話で3件の中卒男子の募集先を教えてもらい、訪問の約束を取って1969年3月25日に中央線で三鷹駅に着いた。
そしてイトーヨーカ堂・三鷹店に電話をして経理部の桜井悟さんと話をして訪問し、すぐ面接を受けて、そろばん初段の免状も見せ実際に伝票の読み上げ暗算のテストを受け合格し採用された。初任給は月に2万円に特殊手当5千円を加えて月2万円5千円で徒歩10分の所に6畳一間のアパート形式の独身寮があり、その一室を2食付きで月5千円の寮費で借りた。実際に勤めはじめ食料品は売れ残りの食材を安く譲ってもらい、ほかの必要な物も全てイトーヨーカ堂で買えたので何も不自由しなかった。