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お待たせしました。
静寂から音が戻った。
小さくも確かなどよめきが人だかりから沸き、全体へ波打つのがわかる。
突然の事態に困惑を隠せない者。惚ける者。
中には面白がって下卑た目を向ける者までいた。
そんな中、眼前の令嬢集団から今。
シャルノーツ殿下に婚約破棄を言い放たれた張本人であるヘレナ嬢が一歩、こちらへ踏み出して言った。
「発言を、してもよろしいでしょうか。殿下」
「わかった。発言を許そう、リーマノイド公爵令嬢」
「失礼いたします」
手本のような淑女の礼をしてから、ヘレナ嬢は口を開く。
「どうして、殿下はわたくしとの、婚約を破棄なさるのでしょう、か」
言い終わるや否や、シャルノーツ殿下は息を呑んだ。
小さく奥歯を噛みしめる音がしてから、射殺さんばかりに睨みつける。
「どうして、だと?リーマノイド公爵令嬢、其方の犯した罪は人として計り知れないものであるのにか」
「私が、罪を?」
「まだシラを切るのか?アーシェに対する其方の非道な行為、我の耳には届いているのだぞ!」
「アーシェ?まさか、あの男爵令嬢ッ...!?」
目をしばたたかせてヘレナ嬢はシャルノーツ殿下の後ろ、正確には私とシャルノーツ殿下の後ろを凝視する。そこには今名前を呼ばれたアーシェ=ヴィルマ男爵令嬢が、観衆の視線に逃れるように立っていた。
彼女はヘレナ嬢の視線を受けると、ビクリと肩を振るわせてふるふると震え始めた。すぐさまシャルノーツ殿下が彼女を抱き留める。
「其方に咎める権利はないと、まだわからないのか?」
「シャル、ノーツ、様、ひっく、私、すみません、ひっく、怖く、て」
「泣くなアーシェ、すぐに終わるから」
しゃくり上げる彼女へ、シャルノーツ殿下は先程までの怒りが嘘のように優しく頭を撫でた。
「そうさ、アーシェが怖がることは何もないんだよ」
「そうそう、俺たちに任せとけ!」
「アーシェ、元気出して」
「貴女は何も言わなくて良いんですよ、私たちの問題ですから」
「みんな・・・ありがとう!」
私たちの言葉で自信を戻したらしい。
彼女は両手で涙を拭って、満面の笑みを見せた。
すぐに殿下がまた抱きしめたから、見えたのはほんの数秒だったが。
少しだけ、苛ついた。
とはいえど。
少し背後がピンクに見えるのは、私の勘違いだろうか。あぁ、やはり苛々する。
いずれにしても。
二人だけの世界に入ってしまったのは、誰の目から見ても明らかだった。視界の端に映ったヘレナ嬢の顔色が、ものすごい速さで青白くなっていくくらいには。ついでに私と殿下の両脇にいる外務大臣であるファーレス伯爵家の長男オクタビオ=ファーレスと、大公国騎士団長の息子である子爵家のトレンツ=ヴァッカーノが嫉妬に駆られた目で2人を見ている。まだ切なそうに見つめているだけの、殿下の護衛であり、“影”であるキジナの方が良いくらいだ。
さて。
この場合だと巷で流行る物語のように、セオリーの如く殿下の代わりとして私がヘレナ嬢を糾弾すべきなのだろう。
しかし、私にはそれをやることができない。
ということで私は咳払いをして、周りから見えないように殿下の脇腹を小さく小突いた。殿下は不服そうに私を見たが、私も譲る気はない。
せかすように目で訴えると殿下は再度、ヘレナ嬢へ向き直る。
「少々脇道に逸れたか。改めてヘレナ公爵令嬢、其方はこのアーシェに対して持ち物を気に触ったという理由だけで壊し、平民上がりであることを強調して度の過ぎた言葉で執拗に追い詰め、挙げ句の果てには身の危険にまで晒させた。それでも其方は身に覚えがないと言うのか?」
「何、ですか、それは」
ヘレナ嬢は唇をわなわなと振るわせ、ぽつぽつと語り出した。
「確かに、彼女は平民でいた期間が非常に長い方です。ですから学園に通われる中でも節々で、貴族としてのマナー等がまだ身についていらっしゃらないのはわかりました。なので注意をしたことはありますが、本当にそれだけなのです。強く言いすぎてしまったことはあったかもしれませんが、その、下賤な言葉で追い詰めたことは、神に誓ってありません」
ヘレナ嬢は必死で言葉を紡ぎ、殿下を見据える。
夜空を湛えた瞳には一寸の揺らぎも、濁りすらなかった。
「殿下、本当にわたくしには身に覚えがありません。彼女の持ち物を壊したことも、西棟の階段で事故に遭ったこともわたくしは何も、何も関与していないのです」
ヘレナ嬢の言葉は非常に実直だった。いや、隣にいる殿下が勢いに呑まれかけて半歩下がるくらいには実直すぎた。お陰で殿下の語った言葉から推察出来る【権力を振りかざす傲慢で卑劣な公爵令嬢】像が、崩れ落ちかけている。周囲の人だかりも次々とヘレナ嬢に同情を向け始めていた。
仕方ない、ここは少し私も動くしかないか。
「リーマノイド公爵令嬢。一つよろしいか」
「何でしょう、クアドラード様」
ヘレナ嬢は視線を殿下から離して、私へ移した。
今までほぼ静観していた私からの言葉に対する、ささやかながら確かな非難。不本意だが、都合なら非常に良い。私は口火を切った。
「では失礼するが、リーマノイド公爵令嬢。貴女は先程【西棟の階段で事故に遭った】と言っていたが、それはどういうことだろうか。私たちは【身の危険に晒された】とは言っても、一言も【ヴェルマ男爵令嬢が階段で事故に遭った】とは言っていないのだが?」
「それは。そうですが、それが一体どうなさったのですか?」
「ふむ。問題か、それなら大いにある。何故ならば貴女とヴェルマ男爵令嬢が、【貴族】であるからだ」
リーマノイド公爵令嬢の眉間に皺が寄る。
それがどうしたと言わんばかりの視線に、まだわからないのかと私は続ける。
「ならば今度は、私から貴女に質問させてもらおう。貴女は社交等で貴族の子息や令嬢が何かしらの【身の危険に遭った】と聞いたら、まず何を思い浮かべる?」
「それでしたら野盗や荒くれ者たち、に――」
言葉は続かない。代わりに小さく息を呑む音が、目の前で起きた。私は頷く。
「そう。貴女が今言ったように、誘拐や襲撃といった辺りが真実として可能性のある出来事だろう。だと言うのに、そもそも殿下は校内で起きたことだとも限定していないが、何故貴女はそれらの可能性を排除してまず【西棟の階段で事故に遭った】ことを言及したのだ?」
1話ごとの文章量はこれくらいを目指しています。